第14話 昭和台中市~新高町その弐:台中公園今昔

 清時代には東大墩の街外れに位置し、西側は霧峰林家の庭園の一部、東側は墓地だった臺中公園。

 明治33年(1900年)に台中市は暴風雨に見舞われて大洪水となり、初期の街並みが大打撃を受けます。台中市の再建は必然的に「台中市の再開発」となり、洪水で更地化された市街地には碁盤目状の新しい台中市が着々と築かれていきました。

 この時の都市計画で、近代都市に必須の大きな公園として臺中公園の敷地が確保されます。欧米の都市に倣って日本に導入された「公園」は、初期には社寺の境内が転用されたものばかりでしたが、明治20年代になると都市計画の中にあらかじめ公園用地が確保されるようになっていました。

 日本に於ける初めての近代的な洋風公園として日比谷公園が誕生した明治36年(1903年)に、臺中公園も誕生します。日比谷公園から遅れること約五ヶ月、10月28日の開園でした。


 公園内には北側から川が流れ込んでいます。臺中第一中學校の北側から湧き出し、校舎の横を南下して公園に到るこの流れは公園手前で三分割され、一部は公園脇の精武路を南下し、柳町の教会横の福音街沿いの流れとなって柳川に流れ込み、一部は精武路を北上して雙十路沿いの流れに合流し綠川へ向かいます。

 最後の一つは公園内へ流れ込んだ後、そこで更に分割されました。一部は臺中神社の前を流れて参道と神域を区切る役目を果たした後、公園内北側にあった泉の水と合流して雙十路へ流れていきます。一部は園内にあった料亭「弘園閣」の庭園を流れた後、日月湖へと流れ込みました(泉があった場所には現在、台中市立精武圖書館が建っています)。

 日月湖の水は公園南側から水路を通って東側へ運ばれ、大正町七丁目の臺中公會堂敷地内を通って、やはり雙十路沿いの流れに合流します。


 大正町六丁目の大鳥居を潜って公園内に入るとまずあるのが、台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第二作、日本時代を舞台にした『昨夜閑潭夢落花』で主人公である日本人少女の渡野邊茉莉と台湾人少女の林荷舟が、っ学校の課題であるレポート作成のため水位調査に訪れた日月湖。臺中公園のシンボルとも言えるこの湖は、この公園のために作られた人工湖です。


 中央の島部分に設けられたあずまや「雙閣亭」は、明治41年(1908年)の「臺灣縱貫鐵道全通式」に際し、来賓だった閑院宮の休憩所として建てられました。

 全通式のセレモニー会場に選ばれた臺中公園では、雙閣亭建設を含め、大改修工事が行われています。式典二ヶ月前の8月に着手し、9月半ばに改修完了、作業員を600名に増員しての人海戦術突貫工事でした。

 雙閣亭はその後、皇族の立ち寄った場所として一般の立ち入りが禁止されます。このあずまやのある島に一般人が足を踏み入れられるようになったのは戦後になってからようやくでした。

 戦後は「湖心亭」の名で呼ばれるようになり、幾度かの補修を経て現在に至っています。1999年には文化資産となり、このため2007年の補修の際には日本時代の姿に近付けての修復が行われました。


 『昨夜閑潭夢落花』の作中で茉莉と荷舟の二人が日月湖の水位調査を行なおうとした場所は日月湖のほとりでも公園の奥側。日本時代、この傍には初代臺中神社があります。

 北白川宮などを祭神とするこの神社は明治44年(1911年)創建。当時は公園内の遊歩道沿いに鳥居が建っていました。このため、茉莉と荷舟の二人は日月湖から急いで帰ろうとする際にこの鳥居の前を駆け抜けるのです。


 初代神社はその後、社殿がシロアリ被害に遭ったこと、また皇民化の動きが強まる中で公園内の遊歩道と参道の区別がつきにくいのが問題視されるようになったことなどを受けて、昭和11年に水源地の北側への移転が決定します。

 昭和15年(1940年)に二代目神社が落成すると、初代神社の木造社殿は取り壊され、旧参道のみが公園内に残る状態になりました。戦後、この初代神社跡地は参道両脇の灯籠の頭部分が撤去され、鳥居が引き倒されるなどしましたが、全体としては当時の雰囲気を割と留めています。なお、大正町六丁目にあった大鳥居のその後は不明です。


 この参道傍には1983年に「更樓」という建物が移築保存されました。この建物については、後程、別な項で詳しく取り上げます。

 そして臺中神社の鳥居前からさらに西へ進むと、そこには臺灣省城の北門があります。臺中公園の開園当初にここへ移築され「望月亭」と名付けられたこの楼閣も、今では文化資産に指定されています(なお砲台山の上にある西洋風あずまやも「望月亭」なので間違えないようご用心)。


 日月湖の西側のほとりは、元々は霧峰林家の東大墩別邸「瑞園」の庭園だった部分。明治44年の地図を見ると、その頃はまだ日月湖西岸は「瑞園」庭園を含めた東大墩の街並みと分離されきっていなかったことが見て取れます。


 明治44年(1911年)に台中市は市内西側の整備に着手。ほぼ東西南北の方位通りにできていた東大墩の街並みは、採光と風通しのためにやや斜めになるよう計画された台中市の碁盤目に多くの立ち退きと取り壊しを伴って組み込まれていきました。ここから公園内の日月湖西側も整備が進んでいきます。

 昭和10年(1935年)に水源地公園で放送局がオープンすると、日月湖西側の散策路内には「ラジオ塔」が設けられました。

 後の街頭テレビのように、公園内にラジオ受信機を設置した塔を建て、その周辺で市民がラジオを聞けるようにする仕組みです。

 現在も「臺中公園放送電台擴音台」、通称「放送頭」として残っているこのラジオ塔は、1960年代まで実際に使用されていました。台湾のラジオ塔は、今では台北の二二八和平紀念公園内と臺中公園に一つずつ、そして屏東公園に台座が一つ残るのみ。臺中公園のものは文化資産に、台北のものは市定古蹟に指定されています。


 東大墩集落発祥のきっかけとなった丘、「砲台山」があるのも公園の西側。運動場の北側部分です。

 臺中公園の運動場は大正8年(1919年)にでき、現在は公園路を挟んで向かい合う小学校「光復國小(日本時代は臺中州新富尋常小學校で、やはり大正8年創立)」の校外運動場として使用されています(校舎とは地下道で繋がっているそうです)。


 砲台山の更に北側は、日本時代には料亭「弘園閣」でした。日本料理と会席料理を提供するこの料亭は、昭和10年の『公認大日本商工信用錄』によると江頭八重吉さんによって明治34年(1901年)に創業。しかしこの時期、まだ臺中公園はできておらず、公園にちなんだ「弘園閣」という名称も生まれるはずがありません。ならばいったいどういう名前だったのか? 江頭八重吉さんは長野出身(『公認~』では長崎出身となっていますがこれは誤字)。『在臺の信州人』の記事によると、本来は千葉八重吉という名前でしたが、一旗揚げたい、従軍してでも故郷から出たい、と思っていた八重吉さんは、軍夫に徴用された幼馴染みと入れ替わり「吉川喜太郎」として日清戦争に従軍します。更に台湾へも軍夫として渡り、退役後に臺中市常磐町で料亭を開業しました。

 これが明治34年のことであり、八重吉さんは28歳、料亭の名前は「よし川」です。常磐町は後の新富町と錦町にあたるエリアであり、『臺灣實業家名鑑』の記事では自宅の住所が大墩街180番地なので、ここが自宅兼店だったのでしょう。

 明治45年(1912年)に業務を拡大し、この時に「公園亭」を支店として出店します。これが後の「弘園閣」。そしてどうやらこの人は高砂演藝館の初代オーナーでもあったようです。明治44年(1911年)に開業したこの芝居小屋は二年後の大正2年(1913年)に高松豐次郎さんに買い取られて、映画専門上演館の「大正座」になっています。

 「公園亭」はその後、「香園閣」と名を変えたことが昭和2年の『臺灣商工名錄』や昭和6年の『臺中市街略圖』で窺えます。そして昭和8年の火災保険地図時点では「弘園閣」となり、これ以降はずっとこの名称でした。一方で昭和2年の『臺灣商工名錄』には「よし川」の名がないので、大正年間に「よし川」から「香園閣」に軸足を移していたようです。

 「公園亭」は大料亭で、これを出店して間もなく、八重吉さんは本名の千葉八重吉を名乗るようになりました。その後、大正9年(1920年)に江頭家を継ぐことになり、これ以降は江頭八重吉となります。自宅住所も新高町253番地になっているので、「よし川」閉店後に引っ越しも行っていたようです。

 台中の外食店舗の中で日本料理の代表格だった「弘園閣」。しかし、米軍の爆撃地図に描かれた臺中公園に、ランドマークとなるはずのその建物は描かれていません。

 公園近くのカフェー巴と同じく「決戦非常措置要綱」によって昭和19年(1944年)には一年間の休業に追い込まれていたはず。開業から三十五年を経た木造建築の弘園閣は、恐らく初代臺中神社の社殿と同じく老朽化していたはずでもあります。倒壊の危険と、爆撃で炎上する危険。空襲時には人々の避難場所にもなるはずの臺中公園に於いて、休業中の弘園閣は「可燃物」に他ならず、この時期に取り壊されたのではないでしょうか。

 明治6年(1873年)生まれで、宮原武熊医師より1歳年上の八重吉さんは終戦時には72歳になっていました。


 『昨夜閑潭夢落花』で荷舟は日月湖の北側にある初代臺中神社の鳥居前を東から西へと横切ります。ここから推測できる荷舟の足取りは、弘園閣と砲台山の間にある小道を通って精武路に抜け、そこから香蕉福徳廟を目指す、というもの。

 弘園閣の跡地は今では一面の草原となり、小道の脇には2003年の未年に行われた元宵節のランタンイベント、臺灣燈會による「吉羊康泰」のシンボルだった羊の形のメインランタンが聳えていて、当時の様子はあまり偲べませんが、この小道だけは当時のままのルートなようです。

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