第4話 昭和台中市~明治町の臺中高等女學校

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第二作、日本時代を舞台にした『昨夜閑潭夢落花』で主人公である日本人少女の渡野邊茉莉と台湾人少女の林荷舟が通う臺中高等女學校(現、台中女中)があるのは、明治町の三、四丁目。明治町通(今の自由路)の北側となります。

 大正8年(1919年)に二年制の女學校として誕生したこの学校は、三年後の大正11年(1922年)から四年制になり、更に既に卒業してしまった生徒へのフォローのため、一年制の補習科が設けられました。この補習科はその後一旦なくなりますが、大正15年に再設置。内地の女子大(正式には女子專門學校)などへの進学を目指す生徒達に「五年制」の女學校卒業資格を付与した他、荷舟のように教員を目指す生徒もここに通っています。なお台湾人生徒の受け入れも、学校が四年制になった大正11年から開始。早速三人の台湾人生徒が受験を突破し、入学しています。


 日本時代以前、台湾の教育機関は私塾が中心で、教育の内容は科挙で重んじられる古典をベースとした文語「文言文」の読み書きでした。ほとんどの場合この授業は、台湾で日常的に使われていた南方中国語の一種である台湾語(明代清代に台湾に移住してくる人々の主な出身地だった福建省の方言がベース)で行われています。

 中国の言語は時代が下がって国家の中心地が北方に移動していくのに連れて、現代の普通語のベースとなっている北方の言語がメインになっていきます。しかし官吏登用試験である科挙は古典の教養が中心でした。古代に成立した古典は古代に使われていた中国語の発音を残している南方中国語で読む方が正統派だという考え方もあり、また官吏の仕事は書類仕事なので北方の発音で会話ができなくてもあまり支障はありません。

 このため、都が北京であっても北京語が喋れない官吏の存在はざらであり、台湾の私塾も台湾語の文語発音を教える場だったのです(客家系住民が中心の場所では授業は客家語になります)。


 口頭での発音に違いはあっても、「漢文」の文章作成の手本となるのは中国全土での共通テキストだった「古典」。

 しかしこの時代、北京周辺では北京語の日常会話で用いられる「古典にはない北京語独自の単語」を、その単語の北京語発音に近い北京語発音を持つ漢字で表記する「表意文字である漢字の表音文字利用」が始まっていました。こうして文字表記の世界に取り入れられた北京語独自の単語たちの混ざった文章は「白話文」に発展していきます。しかしこの「白話文」は北京語発音に馴染みのない人にとっては音読が困難なものでした。

 その後、中華民國が誕生すると、国民の共通語制定が民國政府にとっての急務となります。最終的にこの共通語は北方の発音をベースとした口語である「國語(現在の普通語の元祖)」となり、同時に中華民國では文学者たちによる「言文一致」運動が始まって、「北京語音声の口語をベースにし、漢字を表音文字としても使用して作成される文章表記」は更に盛んになっていきます。


 この動きは北京への留学生を通して大正時代の台湾にも伝わり、台湾へも白話文が持ち込まれますが、北方中国語の発音がベースとなっている白話文は、北方中国語への馴染みがない一般の台湾人には全く浸透しませんでした。このため日常会話で使用されている台湾語の口語発音を文字表記する「台湾語白話文」が台湾の民族運動の中で提唱されますが、公用語が日本語であり、通常の漢文の使用機会すら限定されていた当時の台湾に於いては台湾語による「言文一致運動」はあまり喫緊の課題とは言えませんでした。

 「台湾語による文章表記法」が未発達な状態で台湾は皇民化運動時代に突入し、この運動は頓挫します。更にその後、台湾は日本の敗戦により「國語」の世界に放り込まれ、二二八事件以降の白色テロ下では台湾語は日本時代以上に片隅へと押しやられました。

 「台湾語による文章表記」は台湾の民主化から30年以上が経過した今になってようやく現実のものになりつつありますが、今なおその表記方法は書き手による文字選択の振れ幅が大きく、同じ中国南方の口語である広東語のように確定しきった表記方を持ってはいません。2022年現在、小説などに於いて台詞に台湾語の単語がたまに含まれたり、一部の台詞が台湾語で表記されているとパターンはそれなりに見受けられるようになりました。台詞のほとんどが台湾語で表記された歴史漫画も2021年に出版され、2022年には第二弾も出ました。しかしその一方で、地の文章も台湾語で記した作品はまだ少なく、絵本が数冊あるにとどまっています。


 日本時代の台湾に於いて台湾人が漢文を記す時、それは基本的には「古典文法に基づく文言文」でした。このことは『綺譚花物語』の第四作『無可名狀之物』で大きな意味を持っています。

 第二作の『昨夜閑潭夢落花』で、主人公林荷舟の従弟であり物語の語り手でもある台湾人少年の林明正(通称、あきら)は日本語と台湾語のバイリンガルとして生きていた時代に「漢文」で『撈月箚記』を記しました。一方で第四作『無可名狀之物』の主人公の片方である阿貓は外省人の三世で、喋っているのは「國語」がベースとなった「台湾華語」です。北方中国語がベースとなった台湾華語と、南方中国語がベースとなった台湾語。つまり今の阿貓の言葉を当時のあきらは理解できず、あきらの喋る台湾語を阿貓は聞き取れないはずなのです。しかし『撈月箚記』は古典文法に基づき純粋に表意文字で書かれた「文言文」であるがゆえに、歴史がもたらした台湾の世代間言語ギャップを越え、あきらと阿貓を繋ぐ架け橋と成り得たのでした。


 時を清朝に戻しましょう。漢文を教えるこういった私塾はあったものの、そこに通うのは男子が中心で、女子はほとんど通うことができませんでした。その原因は纏足です。

 台湾は非常に纏足が盛んな土地で、女性も畑仕事に従事するのが普通な客家人以外の漢民族では、山岳地に入植している貧しい家でもない限り、大半の家庭が娘に纏足を施していました。

 親指以外の足の指をへし折り、強制的に足の裏に折り曲げて包帯で固定する纏足。これについては『綺譚花物語』の漫画版と同じく、台湾のオリジナル漫画雑誌『CCC創作集』で連載され、先日完結したばかりの漫画、清代の台南を舞台とし、同地に伝わる有名な怪談をモチーフとしている『守娘』が詳しいのですが、足の指を踏ん張ることができないのはもちろん、立ち上がっただけでも変形した状態で固まってしまっている足指の関節と骨に全体重が伸し掛かるという拷問状態です。足の成長そのものも阻害されるため、身長に見合った足裏面積は到底得られず、接地面積の極めて少ない、常に竹馬でも履いているかのような足で身体のバランスを取らなければいけません。

 この状態の女性が自力で歩行して私塾に登校するのは不可能に等しく、駕籠に乗って私塾まで運んでもらうか、使用人におぶって連れて行ってもらう必要がありました。もしくは家庭教師に頼ることになりますが、どれもそれなりの経済力が必要となります。

 一方で、纏足をしていない客家人女性、貧しい漢民族女性は生活に追われて登校する余裕などなく、原住民女性に学習が必要だと思う原住民の親はほとんどいない状態でした。


 自力歩行がほとんどできず、外へ働きに出ることが不可能な女性。こういった女性を妻にすることは、自分は妻を働かせたりする必要がないだけの金を稼げる男性だ、という証になりました。つまり纏足女性はそもそもはステータスシンボルだったのです。

 しかし台湾では纏足が盛んになり過ぎて、日本時代になると工場に女工として働きに来る女性たちの中にも纏足女性が含まれている有様でした。纏足女性を養えるほどの稼ぎのない男性も、見栄を張って纏足女性を妻に迎えるようになり、その結果、纏足をしていなければ良縁に恵まれないからと、娘の将来を案じて親が纏足を施していた、当時の台湾はそういう時代でした。


 西洋文明と触れ合うことによって、纏足女性は上流階級の男性にとってはそれまでのステータスシンボルから、むしろ自身が古い時代の人間であると示す烙印に変わりつつありましたが、庶民の価値観はなかなか変わりません。このため臺灣總督府も纏足を「悪習」と見做しはしていたものの、強制力を伴う禁止令は、まだ抗日運動の火種がくすぶる明治の台湾に於いてはなかなか出しにくかったようです。『纏足から天然足へ~日本統治前記台湾の学校女子体育~』によると、纏足による運動不足が筋肉と内臓の発達を阻害することで新陳代謝が低下し伝染病への罹患率を上げていたこと、骨盤の変形をもたらし出産を困難にしていることを、領台から数年のうちに臺灣總督府は把握していたのですが。


 台湾での纏足廃止が具体的に始まるのは明治33年(1900年)に台北の漢方医が中心となって立ち上げた民間団体「臺北天然足會」の呼びかけから。民間団体ではありましたが、その発足式には總督府の人間も出席していました。纏足廃止を高圧的には推し進められない總督府と、伝統との戦いに権力の後ろ盾が欲しい「天然足會」側の事情が上手く一致したと言えます。

 ただしこの運動は「海外文化と接する機会の多い、意識高い系の男性」たちによるものであり、肝心の少女たちとその保護者が慮るべきは、これらの「雲上人」の意向ではなく、リアルな近未来の結婚相手である一般男性たちの意向の方でした。このためこの運動は一度頓挫しますが、明治36年(1903年)に再燃すると、今度はまだ纏足をしていない幼い少女たちとその保護者に対し纏足がもたらすリスクを説く方向にシフト。まだ結婚がリアルな未来として迫っていない年頃の幼女たちの親への説得は功を奏し、幼い少女たちが纏足を施される事例は減り始め、公學校への女子入学もそれに反比例して増加しました。

 日本時代の到来は台湾に於ける本格的な産業革命の到来でもあり、女性も労働力になれる時代をもたらしています。女性の生産力を妨げるものでもあった纏足の廃止に臺灣總督府が本腰を入れたのは、成立したばかりの中華民國が全国的に纏足を禁止した影響が台湾にも波及した後の大正4年(1915年)になってようやくでしたが、罰則を伴う法律によって明確に纏足が禁止されたことは、成人女性たちが包帯を解いてリハビリを開始する動きに繋がり、ロールモデルの減少によって台湾でも纏足は急速に廃れていきます。


 台中での公學校教育開始は領台開始の翌年である明治29年(1896年)の「臺中國語傳習所」成立まで遡れますが、女生徒の入学が始まったのはその四年後、台北で天然足會が発足した年でもある明治33年(1900年)からです。六年制の「臺中公學校」の僅か四人しかいない女生徒に対する授業は、男子生徒とは分かれて台中媽祖廟「萬春宮」を教室として行われ、明治43年(1910年)にようやく最初の卒業生を送り出しました。その後、女生徒の数が順調に増えたことで大正7年(1918年)に「臺中女子公學校」として分離し、明治町二丁目に校舎を建てます。その翌年に隣の明治町三、四丁目で臺中高等女學校が誕生したのでした。

 そして大正11年(1922年)、ついに臺中高等女學校が、初の台湾人女生徒三名を迎えるに至ったのです。


 さてそれから15年が経った昭和11年。

 『台中市概況』によると、昭和11年の補習科の生徒数は10人で、うち台湾人生徒は1名。ただしこれは11年4月1日の状況なので、荷舟の一学年後輩にあたる生徒たちの情報となります。またこの年の第四学年は2クラス95名で、台湾人生徒は7名。英子以外に6人の台湾人四年生がいたようです。

 戦後も台中を代表する名門女子高校(高等中学校)であり続けたこの学校。昭和時代の講堂や赤煉瓦校舎は60~70年代に新校舎へと建て替えられ、外側から見ると特に当時を偲べるものは残っていませんが、校門の位置だけは昭和11年と同じです。

 なお、『綺譚花物語』の第一作『地上的天國』の漫画版では、主人公の李玉英たちが赤煉瓦校舎を背に校庭にあると思しき木陰のベンチに腰掛けている光景が描かれていますが、この場面の元となったのだろう古写真を見ると、写真内の木々は実際には臺中高等女學校の校門内のものではなく、校門外の明治通の両側に植えられていた街路樹であったことがわかります。

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