第5話 昭和台中市~明治町:準官庁街の目抜き通り

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第二作、日本時代を舞台にした『昨夜閑潭夢落花』では、主人公である日本人少女の渡野邊茉莉と台湾人少女の林荷舟による帰り道の道筋が描かれています。


 明治町三丁目、四丁目の臺中高等女學校正門を出ると、明治町通の南側、女學校の真正面にあるのは明治尋常高等小學校(現、大同國小)。領台開始直後の明治32年(1899年)に「臺中小學校」として開学した台中最初の小學校で、大正8年(1919年)に臺中公園傍に第二小學校(後の新富小學校)ができるまでは、市内唯一の小學校でした。裏手にある千歳町の三、四丁目、そのまたさらに裏手の壽町にまで至る広大な敷地を持つこの学校では、昭和9年(1934年)に建てられた鉄筋コンクリート製の校舎のうち、明治町通に面していた一棟が、今も現役で使われています。


 目を西側に向けてみましょう。高等女學校の西隣ブロック、明治町五、六丁目にあるのは地方法院。最初は彰化市に設置され、明治35年(1902年)にここへと移ってきました。庁舎は既にビルに建て替え済みですが、実はこの庁舎の裏手や横に並んでいた平屋建ての庭付き一戸建て官舎のうち何軒かが、日本時代の官舎のままだったと判明。今は歴代住民によって色々と魔改造されていたこれらの官舎を当時の姿に復元し公開する計画が進行中です。


 地方法院から明治町通を挟んだお向かい、明治小學校の西側は、裏手の千歳町五丁目も含めて、今も昔も弁護士街。当時も日本人台湾人ともにここに事務所を構えていたようです。


 明治町は実は七丁目まであるのですが、七丁目にあった刑務所については後程、公館の章で合わせて言及します。


 さて、茉莉たちは東へ向かって歩き出します。女學校の東隣のブロック、明治町通二丁目の北側にあるのは、女子公學校(現、居仁國中)。当時、小學校には基本的に日本語が母語である日本人児童だけが通い、台湾人児童は日本語学校でもある公學校に通っていました。台中に最初の公學校が設置されたのは明治29年(1896年)。この時期はまだ「学校に通える女性」がほとんどいませんでしたが、その後、徐々に女生徒が増加。このため大正7年(1918年)に臺中女子公學校がこの場所で創立します。昭和7年から「幸公學校」の名称になり、ジャンパースカートの制服が導入されるなど、都市部のモダンな公學校でしたが、戦争中に郊外の後攏子へ学校全体が疎開します(現、篤行國小)。戦後、この場所に残されていた幸公學校の煉瓦造校舎には、新しくできた中学校(國中)が入居しました。残念ながらこの校舎は1998年に新校舎に建て替え済みです。


 幸公學校の生徒たちを写した写真を見ると、『綺譚花物語』の第三作『庭院深深華麗島』の漫画版で、主人公の一人である富豪の側室、廖蘭鶯が公學校時代に着用していたものとよく似たジャンパースカートを生徒たちが着ているのがわかるはず。

 大正11年に臺中高等女學校は台湾で初めてセーラー服の制服を採用。これ以降、台湾の日本人向け高等女學校の制服は、それまでのハイカラさんスタイルから次々にセーラー服へと切り替わっていきます。そして昭和になると今度は小學校の制服導入が都市部から始まりました。これに続いて公學校も都市部では制服を導入し始めます。女子の制服は高等女學校のものによく似たセーラー服タイプの他に、ジャンパースカートタイプがありました。ただし『庭院深深華麗島』の蘭鶯が公學校に在学していたのは大正時代なので、実際の制服導入よりは少し早い時代に制服を着た姿で描かれていることになります。


 昭和11年当時、女子向け公學校は市内にここだけ。ということは、この学校は荷舟の母校だったかも知れません。


 明治町通を挟んだ向かい、明治小學校の東隣のブロックに当時あったのは臺灣銀行の臺中支店倶樂部と支店長用の社宅。銀行自体は当時は寶町一丁目に臺中郵便局と向かい合って建っていました。銀行員たちの憩いの場だった倶楽部は、支店長社宅ともども今はビルに建て替わり、こちらが「臺灣銀行台中支店」になっています。


 幸公學校と臺中支店倶樂部の前を通り過ぎると、道は明治町一丁目へ。明治町一丁目と大正町一丁目との間を通る「大正橋通(今の民權路)」は、今も当時も台中市の南北を繋ぐ重要な道路。臺灣縱貫鐵道の線路で南北に分けられている台中市内で、線路下を潜るガードがあったのは、当時はこの大正橋通だけ。このため昭和11年に台中市内を走っていたバス路線五つのうち、四路線までにこのガードが含まれていました。このブロックには大きめの会社が幾つか並んでいたようで、そのうちの一つが「臺灣新聞社」。


 大正橋通との交差点に面して建っていたこの新聞社は、発行部数八千部で、当時の台湾三大新聞の一つ。しかし戦争末期に台湾の新聞社全てが統合されたことでその歴史を終えました(統合後は台北にあった臺灣日日新報が中心となり「臺灣新報」を発行。戦後は国営の「臺灣新生報」に引き継ぎ)。赤煉瓦造だった社屋は今では高級マンションに建て替わり、一階には臺灣銀行台中支店の営業部が入居しています。

 他にこのブロックには新聞社の隣に、漆器の作製技術を教える「臺中工藝専修學校」も建っていました。台中市の気候は漆や木地の乾燥に向いていたため、新富町二丁目1番地に「山中傳習所」が割と早い時期に誕生します。「東京美術學校(現、東京藝大)」の卒業生だった人物が始めたこの伝習所は昭和3年(1928年)に市営の「工藝傳習所」となり、その後、明治町一丁目6番地へと移転、昭和11年4月から私立学校となりました。学校自体は戦後に二二八事件の余波で閉校しましたが、育まれた技術は今に受け継がれ、2021年のオリンピックで台湾選手たちが着用した服のボタンもこの台中漆器製です。


 明治町通の北側、居仁國中に隣接して建っている教会は戦後の1952年に建てられたもの。明治町一丁目4番地にあたるこの場所に当時あったのは臺灣交通株式會社。その東側、今は101號ビルになっている明治町一丁目3番地には当時、楊子培という人の豪邸が経っていました。敷地面積430坪、延床面積112坪の三階建てで、柱や梁は鉄筋コンクリート、壁は煉瓦で部分的に木材も使われたこの屋敷の総建築費用は臺中駅二代目駅舎の建設費用にも匹敵するほどだったようです。

 明治町一丁目1番地にあった内科の辻保順醫院は、山梨県笛吹市で江戸時代から医師をしていた辻保順一族の何代目かの当主だった辻守昌さんが昭和3年に開業した病院。ご子孫が今は埼玉で同名の病院を経営しています。

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