第3話 昭和台中市~柳町:病院と宗教施設建ち並ぶエリア

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第一作、日本時代を舞台にした『地上的天國』の作中で幽霊の少女、蔡詠恩が、自分と唯一会話が可能な少女、李玉英(通称、英子)に、連れて行ってとせがむ臺中教會。現在の台灣基督長老教會台中中會柳原教會は、明治31年(1898年)に「東大墩佈道所」として始まりました。

 この地のキリスト教伝道の歴史は、日本による領台以前、清の光緒帝時代だった1889年に平埔族(台湾原住民の中で、平地に暮らす部族。このため漢民族との混血や同化が早く、独自の言語や文化は速やかに失われていった)の一つ「パゼッヘ族」の信徒が東大墩の友人を訪ねて布教を始めたことに遡ります。

 台湾が割譲されたまさにその年である明治28年(1895年)に宣教師のキャンベル・N・ムーディ牧師(Campbell N.Moody。台湾では梅鑑霧や梅甘霧―メイ・ガンウー―と表記)と台湾の西洋医学開祖の一人というべきデービッド・ランズボロー医師(David Landsborough。台湾では蘭大衛―ラン・ダーウェイ―医師の通称で親しまれています)がスコットランドから来台。台中市の隣の彰化を拠点に近代医療の提供と伝道を始めると、台中の信徒はますます増えていきました。礼拝場所は信徒の自宅を会場として回り持ちにしていましたが、これでは賄いきれなくなり、明治31年に現在の教会の近くで「東大墩佈道所」が設置されます。日干し土煉瓦の壁に草葺き屋根の閩南式街屋――隣と壁を共有する長屋形式の店舗建築――の一角を百元で購入しての伝道所開設でした。


 同じく『綺譚花物語』の第三話『庭院深深華麗島』の主人公である東大墩林家のお嬢様、林雁聲の家の名にもついている「東大墩」とは、昭和の台中市に於いては柳町、新富町、錦町、寶町辺り。

 「墩」とは土が盛り上がっている場所のこと、この辺りの「大墩」は、臺中公園内のささやかな高台「砲台山」を指しています。台中は非常に水が豊かな土地なのですが、その分、水はけが悪く洪水になりがちな土地でもあります。このため、人々は平地の中でも高台を選び抜いて集落を作っていました。


 「砲台山」はそれ自体はささやかな高台に過ぎないのですが、台中市のこの辺りは全体的に、砲台山をピークとした緩やかな斜面になっています。このため人々はその斜面上に集落を作り、その集落自体もやがて「大墩」と呼ばれるようになりました。

 大墩という地名はほぼ一般名詞なため、台中には大墩と呼ばれる集落が実は二つあります。台中の開拓史は、山地原住民が暮らす山岳地から距離を取った海側の平地から、つまり台中市の西側から始まりました。西側の(その分歴史も古い)「大墩」の集落が「西大墩」。ここは今の西屯區にあり、2005年にはなんと縄文時代の古代遺跡まで出土しています。

 そして清代が進むに連れて開拓地が広がったことで、従来の「大墩」集落よりもかなり内陸に誕生した新しい「大墩」集落、これを「東大墩」と呼んだのです。

 そもそもは同じくらいの規模だった二つの大墩でしたが、清代後期になって台中で臺灣省城の建設が始まると、東大墩は突如として臺灣省城のお膝元な繁華街の地位に躍り出ることになりました。

 従来、台湾の都市は清本土との行き来に便利な場所を起点として発展していきます。しかし外国船が侵略目的でやってくる時代になると、逆に海からのアクセスに不便な場所がにわかに尊ばれることに。

 西海岸の町の中では割と内陸部にあり、傍を流れる川は水深が浅く大型船が侵入できない。海岸線との間には高台の大肚山があり、艦砲射撃の楯となる。福建臺灣省の初代巡撫だった劉銘伝は防衛に便利な台中に臺灣省の中心を置くことに決め、1889年から街づくりを始めます。大工事の第一段階が始まったのは東大墩で、町のすぐ傍に城壁が築かれ、役所が次々と建てられました。この工事は予算不足のために1891年には中断し、臺灣省の中心は1894年には台北に移されてしまいましたが、それでもこの工事以降、東大墩の集落は台中エリアの中心としてどんどん発展していきます。

 明治28年の割譲以降は残されていた役場の建物に新たな支配者となった日本の軍人や役人が入居し、「臺中縣」の統治と市街地の建設を始めます。このため東大墩は「台中市」の既存の繁華街として日本時代になっても栄え続けることになりました。


 とはいえ、「東大墩佈道所」ができたのは東大墩の割と街外れ。教会脇の精武路は今は暗渠になっていますが、当時は柳川へと流れ込む水が滔々と流れ、福音街がその川端の小道でした。この建物はあっという間に手狭になり、翌年の明治32年(1899年)には隣接する二区画も購入した上で壁に幾つか穴を空け、声が届くようにして使用していたようです(耐震性が落ちるのでお勧めしません)。

 明治33年(1900年)からは臺南教士會から派遣された台湾人牧師が常駐するようになり、明治37年(1904年)になると教会堂へと昇格して「臺中街東大墩禮拜堂」と改名。そして明治42年(1909年)、信徒がお金を出しあって土地を買い、新しい礼拝堂の建築計画が立ち上がります。この頃には既に礼拝堂に信徒が入りきらず、路上に数十人がはみ出すのが恒例化していました。

 今も残る赤煉瓦の礼拝堂の工事が始まったのは大正4年(1915年)。イギリスの教会の設計図面をムーディ牧師が提供し、それにのっとって建築された礼拝堂は翌年の10月にようやく完成します。その後大正6年(1917年)に「臺中教會」と名称が変わりました。


 詠恩は昭和9年(1934年)に女學校の四年生に進級して16歳になるはずだった少女なので、生まれたのは大正7年(1918年)。つまりこの教会が「臺中教會」となった翌年に誕生しています。教会では明治31年の時点から既に女の子の合唱による讃美歌演奏もあったと言うので、詠恩の名前もその辺りに由来しているのかも知れません。

 臺中教會は戦後になって再度「柳原教會」と名を変えます。これは市内にもう一ヶ所「長老派の臺中教會」があったのが理由。大正町一丁目にあった「臺中日基教會」がそれです。こちらは「民族路教會」と名を変えて今に至っています。


 教会が西洋医学と繋がる場だったからなのか、柳町は病院が居並ぶ街でもありました。

 後壠子の項で取り上げた六丁目の「城北病院」は昭和11年には後壠子への移転が決まり、2月から新病院の建築工事が始まっています。春先の病院内でもそろそろ引っ越し作業を意識し始めていた頃でしょうか。


 柳町通(今の興中街)を挟んで教会と向かい合うブロックには東周產婦人病院がありました。柳町七丁目10番地という住所なので、火災保険地図を見ると裏通りのようなのですが、実際には柳町通に面し、教会が見える建物だったようです。

 この病院の院長だった郭東周医師のプロフィールを『拓務内外紳士錄』で見ると、昭和5年(1930年)の開業時点からずっとこの場所で病院を経営していたかのように書かれていますが、当初は柳町六丁目の角(興中街と光復路の交差点)にあった建物でテナントのような形で開業し、その後この場所に病院を新築していたようです。

 郭東周医師本人は病院開業の六年後、まさにこの年昭和11年に急性肺炎に罹患して45歳の若さで亡くなってしまいましたが、病院は娘婿などによる中継ぎを経て、戦後に息子さんに受け継がれました。ただし、今はもう残っていない模様。

 最初に入居していた六丁目角の建物はその後、入居者によって権利が分割されたらしく現在では区画ごとにてんでんばらばらな再開発が進んでいますが、興中街沿いにある「大江印刷廠」の部分だけは(三階が増築され、二階も窓枠が一本撤去されて窓が拡大されているものの)亭仔脚部分も含めて当時のままの建物です。


 昭和10年の職業地図を見ると、柳町六丁目には他に太平生命保險株式會社臺中監督所や台中痔疾病院があったようですが、どちらも詳しい住所はわかっていません。太平生命保險の本社は昭和10年から経営権が日產財閥に移り「日產生命保險株式會社」と名を変えていましたが、商工信用録などを見ると台湾にある台北支部以下は昭和11年時点でも引き続き「太平生命保險」と名乗っています。職業地図上の位置からすると、ひょっとしたら東周醫院が初期に入居していた建物の一角に事務所を構えていたのかも知れません。所長の黃永章さんは昭和10年に入社したばかりで所長を任され、昭和11年6月からは台北支部長に出世しています。


 五丁目にはまた病院が二棟建っています。柳川沿いの15番地にあった枝水醫院は、賴枝水医師が昭和9年(1934年)に開業したばかり。しかしこの病院がどういった分野の患者さんを扱っていたのかは、『臺灣人士鑑』を見ても書いてありません。

 いささか分野が特殊なのは、周桃源医師が5番地で経営していた仁愛醫院。光復路沿いにあって城北病院と向かい合っていたこの病院は、花柳科と内科の病院でした。

 柳町に隣接する新富町は、明治時代に遊郭があった町。遊郭は大正に入って、柳町に隣接するもう一つの町である初音町に移ります。つまり柳町は遊郭が元あった街と今ある街に挟まれていました。更に言えば教会沿いの福音街を若松町通だった中華路方向へ進んだ辺りは清の時代から中華民國時代まで続いた岡場所「大湖仔」です。

 「驅黴院」として始まった「婦人病院」は新富町にありましたが、柳町にも遊客側の需要があったのでしょう。


 また、そういう街だったからこそ、柳町には宗教施設と病院が増えたという面もあったのかも知れません。

 柳町通五丁目の南側には、長年に亘ってこの辺り随一のランドマークだった中尊寺があります。浄土真宗本願寺派によるこの寺院は、まず「布教所」として明治29 年(1896年)に設けられたのですが、その際に台中萬春宮を占拠するという暴挙を行ないます。詳しくは萬春宮のあったエリアである新富町・錦町・寶町の項で述べますが、これが萬春宮の日本時代全てに亘る苦難の歴史の皮切りでした。

 明治33年(1900年)になり区画整理が始まると、布教所は萬春宮を出て柳町へ移り、大正4年から「中尊寺」となります。

 日本式の瓦屋根を持つこの寺院は柳町通と干城橋通(今の成功路)の交差点にあり、柳川に架かった橋の向こうに聳えていました。


 こういった日本の宗教施設は日本人信徒の台湾生活に於ける心の拠り所というだけでなく、台湾人への布教も行っており、このため終戦時には台湾人信徒もそれなりの数がいたようです。戦後は國民党による接収に伴って廃寺となり、本堂は台中市中區の區公所(区役所)庁舎として使用されました。その後、區公所の建て替えがあり、裏手の成功路268巷側にあった輪番所だけが敷地内に残っていましたが、職員住宅として使用されていたこれも、2013年に取り壊されて今は駐車場になっています。


 柳町四丁目には、柳川と櫻橋通に面する形で株式會社三振商行(昭和10年の職業地図より)が。内外材木、電気材料、左官材料、とあり建築材料を色々と扱う店だったようです。店名からすると台湾人経営かなと思わなくもないのですが、職業地図以外にまったく名前が出てきません。


 柳町三丁目は新富町市場の裏手に当たり、このため柳町通と櫻橋通(今の臺灣大道)の交差点に面した20番地にはいろは料理店という大きな料亭がありました。櫻橋通は初音町遊郭のメインストリートの一つでもあり、このためか火災保険地図を見ると初音町側にはカフェーとベビーゴルフの文字も見えます。

 今の柳川東路三段27巷にあたる路地に面していた11番地にあったのは黃產婦人科醫院。黄演烺医師が昭和11年3月に開業したばかりです。戦後もここで診療を続けていたようですが、今はもうありません。黄演烺医師自身は1971年に日本の親戚を訪問中、東京で死去しました。

 なお、この近くに「台中仁愛醫院」がありますが、これは廖泉生医師が1947年に開業した「仁愛診所」が元となった総合病院で、昭和の周桃源医師による仁愛醫院とは無関係です。


 台湾では纏足がもたらす内臓や筋肉の未発達、骨盤変形などの影響で産褥死が多く、このため医学を学ぶ際に産婦人科を選ぶ医師も多かった模様。しかし柳町の産婦人科には別の需要があった可能性も考えられます。


 柳町一丁目の4番地、火災保険地図に「組合」とあるのは臺中州青果同業組合。バナナの輸出に関する台中の生産農家による同業組合です。

 台中のバナナ輸出と会社については榮町・綠川町・橘町の項で詳しく触れますが、この「臺中州青果同業組合」は台中で最初にできたバナナ輸出業者による同業組合「中部臺灣青果物移出同業組合」の流れを汲む組織。


 初代組合長である梅谷直吉さん、副組合長の蘇蟬さん達による大正4年(1915年)の創立当初は「輸出業者間、生産農家間の価格競争による値崩れの防止」を目的として生産農家及び日本の卸売業者との交渉を一本化するための組合でしたが、その後、利益維持のため生産農家からの買取時に買い叩きを行なうようになり、生産農家から総スカンを喰らいます。

 生産農家側は「臺中州青果同業組合」に対抗しようと大正6年(1917年)に「芭蕉實生產販賣組合」を創立し、日本の卸売業者との直接取引を試みますが、「中部臺灣青果物移出同業組合」側は日本の主要荷揚げ地で卸売業者と結託し、この試みを妨害。直接取引を卸売業者から拒否された生産農家側は、涙を飲んで「中部臺灣青果物移出同業組合」による買い叩きに甘んじるしかありませんでした。

 しかしその後、紆余曲折を経て生産農家側も大正13年(1924年)から「中部臺灣青果物移出同業組合」に参加。これを受けて組織名は「臺中州青果同業組合」となります。そして更に大正15年(1926年)には輸出業者側が組合から撤退し、「臺中州青果同業組合」は生産農家の同業組合となったのでした。


 柳町一丁目の端、大正橋通を挟んだ向かいには臺灣總督府臺中病院(現在は衛生福利部臺中醫院及び國立科技大學圖書館民生校區)が聳え立ち、新旧の色街に三方を囲まれ病院と宗教施設の林立する柳町を締めくくっています。

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