第4話 再会

 神田の繁華街が近いだけあって、両国橋を渡る人は多かった。桜の季節は過ぎたとはいえ、暑さにはまだ早い爽やかな気候とあって、足を止めて隅田川を眺めたり土手に寝そべる人もいる。だから、橋のたもとで佇む千早と朔に注意を払う人はいないようだった。待ち合わせだとでも思ってもらえるのだろうし、実際、彼女たちは寿々すずお嬢様を待っている。


 通行人のうち、特に女学生らしい年格好の娘さんの背丈や顔に注意を払いながら──でも、千早の頭は朔から聞いたばかりのことでいっぱいだった。


(洋装の人は、多いわ。電線もどんどん伸びて、高い建物もできて──あやかしの住処がなくなるって、こういうことなの?)


 つまり、月虹げっこう楼はいつかなくなってしまうのかどうか、ということについてだ。吉原の中か、せいぜいが浅草寺せんそうじ界隈までしか知らない千早にとっては、隅田川をほんの少し下ったこの辺りの光景でさえ新鮮だった。あるいは、ここ最近は江戸の御代さながらの月虹楼で過ごしていたからかもしれない。あやかしの遊郭は雅でおおらかで粋だけれど、時代がかってもいると、分かってしまう。


『時代遅れのモノをいつまでも後生大事に──』


 里見さとみの捨て台詞も、きっと、まったくの的外れではないのだ。吉原で遊ぶ酔客なら、古風な廓言葉を面白がったりもするのだろうけど。明治の世の眩しさの前に、あやかしの居場所は確かに消えつつあるのかもしれない。


(……なのに、私が出て行ってしまって良いの……?)


 先ほど出てきたお社は、綺麗に手入れがされていた。でも、九郎助稲荷に真剣に手を合わせる娼妓が減ったように、いずれは朽ちてしまうのかも。花蝶屋の女将さんや遣り手のおばさんでさえ、昔は良かったとよくこぼしていたくらいだから。世の中はどんどん変わって行って目まぐるしいほど。その激しい流れから取り残される者も、きっといる。月虹楼が暗い影に取り残されるのを思い描いてしまうと、胸が苦しくなる、けれど──


(自分のことだってどうなるか分からないのに、見世のことなんて……!)


 優しくて温かい場所がなくなってしまうのは、絶対に嫌だ。でも、どうすれば良いのか、何ができるのかも分からない。人間の小娘の分際で、そんなことは考えることさえおこがましいのかもしれない。でも、だけど。


「……疲れたか? 今日会えなくても良いだろう。また、出直せば──千早は、気が気ではないだろうが」


 と、朔に急に声をかけられて、千早は小さく跳び上がった。綺麗な顔が覗き込んでくる驚きと、連れてきてもらったのに注意が散漫になっていたことへの後ろめたさで、舌がもつれる。


「は、はい……! い、いえ! 大丈夫です! ちゃんと見てます!」


 たぶん、考え込むあまりに千早は怖い顔になっていたのだろう。それで、朔に心配させてしまったのだ。おせっかいなことを考えていただなんて言えないけれど、思わず言い訳してしまったけれど──でも、本当に大丈夫、のはずだ。見世の仕事に比べれば、綺麗な恰好をさせてもらって立っているなんて楽なものだ。それに、たとえ考え事をしていても、寿々お嬢様の顔を見落とすことはないと思う。


(だから……まだ、これからのはず……!)


 若い娘が学校に通うなら、広くて見通しの良い道を通るものだろう。だから、この場所もきっと間違いではないはずで。改めて気合を入れて過ぎ行く人たちの顔を注視すること、しばし──


「──お嬢様!」


 「その人」の顔を見つけて、千早は小さく叫び、同時に駆け出した。会わなかったのは、ほんの何週間かだけのことだった。でも、物心ついた時から一緒に育って、こんなに離れるなんてことはなかった。それに、きちんとした挨拶もできないままだったから。


「え……あんた、千早……? どうして、こんなとこにいるのよ……!」


 だから、目を丸くしているらしい寿々お嬢様の顔は、目にあふれる涙でぐにゃりと歪んでしまう。ただ、お嬢様の声には純粋な驚きが滲んでいたし、目を抑える千早に触れる手は、以前と変わらず温かかった。


「ちょっと、こんなところで泣くんじゃないわよ! 何なのよ、この格好と──そっちの人は……!」

「ご、ごめんなさい、お嬢様。私──」


 たぶん、お嬢様は朔の姿を見て絶句したようだった。こんな綺麗な男の人はほかにいないから無理もない。別れてからのこと、月虹楼のこと──説明しなければ、と思うのに、声が詰まって言葉にならない。


「ああ、もう……! 下に、降りるわよ!? 落ち着いたらちゃんと話して聞かせてよね!?」

 業を煮やしたらしいお嬢様に引っ張られて、千早は隅田川の土手を下った。


      * * *


 土手上の道からは隠れつつ、川の水で湿ってもいない草地を見つけて、三人は腰を落ち着けた。夏を控えて伸びた草葉が、ほどよく千早たちの姿を人から隠してくれそうだった。あやかし云々は伏せて、親切な見世に住み込ませてもらっている、朔はそこの楼主だと説明すると、寿々お嬢様はしげしげと朔と千早を見比べて首を捻っていた。そんな都合の良いことがあるはずがない、と思う気持ちはよく分かる。

 でも、千早の装いを見てか、お嬢様は最後には納得してくれたようだった。売ったりこき使ったりするなら、こんな綺麗な恰好をさせるはずがなから。


「……そう。安全なところに匿ってもらってるのね。良かったわ……」

「はい。私のほうは全然……むしろ、えっとお嬢様が叱られていないかが心配で」


 再会の喜びと感動も落ち着いて、目を拭った千早は改めてお嬢様の格好や顔色に目を凝らした。


(大丈夫、そう……?)


 束髪そくはつくずしにして下ろした黒髪は、どこまでも豊かで艶やかで。露になった額の白さも、気の強そうなきりっとした眉も、ぱっちりとした目元も。記憶にある寿々お嬢様と変わったところはない、と思う。お嬢様の気丈さと、千早の鈍さゆえ、強がっていないと断じるのも不安だったけれど──


「私も、別に。お父さんにもお母さんにも怪しまれてないみたいだし。万が一何か言われても、実の娘だもの。大したことにはならないわ」


 千早の気遣う眼差しを受けて、寿々お嬢様はさらりと笑った。肩にかかる髪を払う仕草も自然で、言葉も滑らかで。どうやら嘘ではなさそうだ、と千早が息を吐いたのと入れ替わるように、今度は朔が口を開いた。


「千早を、買おうという者については何か聞いていないか? 彼女をいつまで、どこまで匿えば良いかで悩んでいるのだが」

「……いいえ。詳しいことは、何も」


 あまりにも綺麗な朔のことを、まだ信じ切れていないからだろうか。寿々お嬢様は軽く眉を顰めると、一瞬の沈黙を置いてから首を振った。


「逃がしてくれたのに? 危ない話だと思ったからではないのか。花蝶屋でも、千早の話題は出ているだろうに」

「幼馴染が売られてしまうのよ? じっくり話を確かめてる場合じゃないでしょう。それに、若い娘の前で商売の話をするはずないでしょ。うちは、女郎屋なんだから」


 ふたりの語気の、思いのほかの鋭さと刺々しさに、千早は息を呑んだ。彼女を真ん中に、左右に腰を下ろした朔とお嬢様は、どうして睨み合うようにしているのだろう。


(ふたりとも、会ったばかりだから、よね? 私のことを心配してくれているから……)


 お嬢様の目から見れば、朔は追われる娘を、甘言を弄して余所に売ろうとしていると疑ってもしかたない。そんな都合の良い話はあり得ないと、他人の話なら千早だってそう考えていただろうから。


「……千早はまだ十六だ。今の時代は十八になるまでは娼妓の鑑札は与えられないのだろう。身請けの話が出るには早すぎはしないか」

「知らないわよ。後ろ暗い買い手だから高値をつけるってことじゃないの。よっぽどの変態とか、外国に売るとか」


 でも、朔の問い質すような口調はどういうことだろう。年齢のことは──確かにその通りで、だからこそ千早もまだまだぼんやりと過ごせていたのだけれど。でも、こんな言い方をしては、寿々お嬢様が眉を顰めるのも無理はない。まるで、責め立てられているような気分にもなるだろう。


「あの、楼主様──」

「千早は、俺に助けを求めた。一時的に匿っただけでは助けたとは言えはしない。ただでさえ、ひとりで暮らしていけるか危ういというのに──うちを出た後で攫われたりしないよう、手を打たなければならないだろう」


 執り成しをしなければ、と口を挟んでみたけれど。朔の黒曜石の目に浮かぶ真摯さに、千早は口を噤まされてしまう。それに、彼女への評が少し寂しく悲しくもあった。


「あ、危ういですか……」


 見世の仕事を手伝って、できることも増えていっていると思っていたところだったのに。いや、世間の人はできて当たり前なのだろうし、ひとり立ちするならまだまだ足りないのは、言われてみればそうなのだろうけれど。


(これで、月虹楼を助けたいだなんて……恥ずかしくて、言えない……!)


 さっきまで考えていたことを思い出すと、顔から火が出る思いだった。両手で頬を包み込んだ千早を、寿々お嬢様は奇妙なものを眺める目で見てくる。


「……本当に、良くしてもらっているのね……?」

「そう! そうなんです、お嬢様! 本当に良い人で親切で、だから心配はいらなくて……!」


 朔には失敗した分こちらに、とばかりに、千早はお嬢様に訴えた。いくら千早がぼんやりしていて頼りなく見えるのだとしても、そう簡単に人を信じる訳ではないのだ。美しく雅で和やかな月虹楼のこと、その住人たちのこと。すべてを語れないのがとても残念で、上手く説明することもできないのだけれど。とにかく──大丈夫なのだと、伝えたかった。


「ふうん……?」


 千早の熱意が、伝わったのかどうか。寿々お嬢様は、首を傾げてから、それでも小さく頷いてくれた。


「……お父さんに、詳しいことをそれとなく聞いてみるわ。話を持ってきたのは誰なのかとか、いつまで諦めないつもりなのかとか……明日、またここに来られるかしら?」


 問われても、千早には是非を判断することはできない。目線で朔に尋ねると、でも、彼も同じく目線で構わない、と返してくれる。千早は、明日またこの人と出かけることができるらしい。そうと気付いて、また頬に血が上るのを感じながら──千早は、改めてお嬢様に力強く頷いた。


「はい。大丈夫です」

「そう。じゃあ、今くらいの時間に、会いましょう。早いほうが、良いでしょうしね」

「はい。ありがとうございます……!」

「それと」


 勢い込んで首を縦に振った千早に、お嬢様はさらりと付け加えた。


「貴女に持たせた荷物の中に、煙草入れがあったでしょう。お母さんの形見っていう。あれ、私にくれないかしら」

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