第5話 楽しくて幸せで、でも──

「え……?」


 目を瞬かせながら、千早ちはや月虹げっこう楼に置いてある煙草入れを思い浮かべていた。蒔絵細工の見事な──亡き母が、千早は顔も知らない父から贈られたという品だ。花蝶かちょう屋から逃げ出す時、お嬢様が持たせてくれた荷物の中に、確かに入れてもらっていたのだけれど。


「あれを……どうして、ですか……?」


 お嬢様は、煙草なんか吸わないはずだ。もちろん、小銭入れとか薬入れとかに使えないこともないだろうけど。あまりに自然な笑顔で強請られて、さすがに千早も戸惑った。それに対する寿々すずお嬢様は、当然のことを言っているかのように笑みを崩さないのだけれど。


「だって、もう二度と会えないかもしれないでしょう。それこそ形見として、思い出に取っておきたいのよ」

「思い出なら、ほかの品でも良いのではないか? 引き換えでなければ教えないということか?」

「まさか。そんなことはないわ」


 目を細めるはじめと、笑顔のままで応じたお嬢様の間で、白刃が切り結ばれた気がしたのは千早の思い過ごしだろうか。


(なんだか、怖い……?)


 いや、気のせいに違いない。朔は親の形見を手放すのを案じてくれて、お嬢様は疑われたのが不本意なだけだ。よく知らない同士だからこその、誤解が生じているだけだ。事実、寿々お嬢様は寂しげに表情を翳らせて俯いたのだから。


「そうよね。お母さんの形見だし、とても綺麗な品だったもの。もったいないと思うのも、当然よね。無理を言って、ごめんなさいね?」

「いいえ……! 私も使うものではないですし、助けていただいた御恩もあるし……明日、持ってきます!」


 父はもちろん、千早は母の顔だってろくに覚えていないのだ。それならお嬢様に取っておいてもらうほうが良い。多少のお金にはなるかもしれないけれど、親の形見を売り払うのも後ろめたいことなのだから。だから、こうするのが一番良いはずだ。


「本当? ありがとう、千早……!」


 ほら、お嬢様もこんなに嬉しそうに笑ってくれた。だからこれで良かったのだ。


      * * *


 寿々お嬢様の背中が隅田川の土手を遠ざかっていくのを見届けて、朔はまた千早の手を取った。さっきのお社までの道をたどりながら、ぽつりと呟く。


「明日は、俺がひとりで出向いても良いな。あるいは、見世の者の誰かに行ってもらうか」

「え、なんでですか……?」


 お嬢様に会えた興奮に、握った手の温もりから湧き上がる気恥ずかしさ。夢見心地のふわふわとした足取りから急に引きずりおろされた気がして、千早は上擦った声を上げた。そんな彼女をちらりと振り向いて、朔はゆっくりと言い含めた。


「あの娘が親に言いつけたらどうする? 一度は逃がしてくれたとしても、気が変わるかもしれない。親に責められることもあるだろう」


 やはり、彼は千早ほどにはお嬢様のことを信じていないのだ。里見の時のように、千早が攫われてしまうかもしれないと考えているのだろう。


「……でも、もう会えないかもしれないので──」

「それも、分からないな。手紙を書くことも、吉原から離れた場所で会うことも可能だろうに」


 言われて、千早は目を瞬いた。お嬢様に言われたことをそのまま信じ込んでいたけれど──そうとは限らない、のだろうか。


(じゃあ、どうしてお嬢様は、あんな風に……?)


 草履が土を踏む音が、どこか遠くから響いているようだった。朔に手を引かれて歩きながら、千早は頭を靄の中に突っ込んだような気分だった。見通しが効かなくて、訳が分からなくて、心細くて。それでも必死に頭を働かせて、それらしい理屈を見つけ出す。


「お嬢様は、花蝶屋のひとり娘なんです。きっとお婿を取って見世を継ぐから、だから動き辛いと、思ったんじゃ」


 軽く眉を顰めた朔の表情からして、彼が納得していないのは明らかだったけれど。小さい子供に対するように心配されて気遣われているのを察してしまって、ついに千早は足を止めた。お社に至る手前の石段のふもとまで差し掛かったところだった。少しくらいの階段なんて何でもないはずなのに、なぜか、足を持ち上げるのが億劫だと思ってしまう。


「私……そんなに危なっかしくて、頼りないですか」


 俯いて呟くと、朔が当惑する気配が旋毛に降ってきた。彼女の願いを聞き取ってくれた神様を、困らせたくないのに。恩知らずな振る舞いを、したくないのに。でも、一度口に出してしまったことを取り消すことはできない。


「すまない。どうも人間はか弱く見える、のだろうな……。若い娘で、世間知らずだからでもあるのだろうが」


 朔の手が持ち上がって、彼女の髪を撫でてくれようとするのを感じて、千早はふるふると首を振った。子供扱いはされたくないのが、ひとつ。触れられるのが恥ずかしいのも。それに、何より──朔が謝る必要なんてどこにもないのに。


「とても良くしてもらっています。とても嬉しくて──楽しくて、幸せで。だから、守ってもらうばかりで申し訳なくて……!」


 思い切って顔を上げると、黒い瞳に間近に見つめられて息が止まる。月虹楼のこと、あやかしたちのことも、彼女のほうこそ力になりたいのに、言葉にすることができなかった。だって、朔に気を回してもらわなければ、何も気付かなかった千早なのに。どうしてそんな思い上がったことを言い出せるだろう。


(なんで私、こんなことを……)


 笑って、何でもないと言わなければ。綺麗な着物を着せてもらって、付き添ってもらったことにお礼を言って、帰らなければ。今の千早の家である、月虹楼へ。そして、今日こそ働かなくては。なのに、朔と見つめ合う格好で何も言えなくて──困り切った千早を掬ってくれたのは、石段の上から降る男の声だった。


「──楼主様! お迎えに上がりましたよ」


 いつもの黒い羽織をなびかせて、意外なほどに素早く段を駆け下りてくるのは、月虹楼の番頭の四郎しろうだった。昼間とはいえ、楼主が留守の間は見世を守っていたのだろうに、人の世まで出向くとはどうしたことだろう。


「四郎? 見世で何かあったのか?」


 石段を見上げる朔も、不審げに目を細めている。その間にも四郎は転がるような勢いで千早たちのところまで降りてきている。あやかしでも息を弾ませて汗をかくものだというのを、千早は今になって初めて知った。


「ええ、まあ。良からぬお客様というか──いえ、登楼するお客様ではないんですが」


 とにかく──膝に手をついて軽く屈んだ格好で、何度か深呼吸して息を整えてから、四郎はやっと口を開いた。千早たちを見上げる彼の顔は、今はのっぺらぼうではなくて、困ったような微笑を浮かべている。見世先に立つ彼は、どんな時でも笑顔を作るのが癖になっているかのようだ。


「怪しい方々が見世の周りをうろついていましてねえ。楼主様たちが鉢合わせすると、よろしくないかと思いましてねえ」


 でも、そんな四郎が口にしたのは、だいぶ不穏なことではないのだろうか。千早は、思わず朔と顔を見合わせた。

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