第3話 新緑に映える朱塗りの鳥居

 瑠璃るり珊瑚さんごに切火を切ってもらって、月虹げっこう楼の暖簾をくぐって。はじめと歩くことしばし──千早ちはやは、気が付くと人の世に帰って来ていた。人の気配というか息遣いというか、何となく騒がしく気配が感じられるから分かるのだ。でも、辺りの景色は千早が馴染んだ吉原のものでは、ない。


(空が、広い……!)


 妓楼が肩を寄せ合うようにひしめく吉原では、青い空も星空も、建物に切り取らてごく狭かった。それに、周囲の緑が目に染みる。これも、吉原──特に、中見世に過ぎない花蝶かちょう屋ではなかったことだ。四季折々の彩りを整えるのも、相応の広さの庭がなくてはできないことだったから。


「ここ──どこですか? あれは浅草寺せんそうじじゃないですよね。あの、川は……」


 額に手をかざして、千早は左右をきょろきょろと見渡した。どうやら彼女たちは、大きな川を望むお社にいるらしい。土手には人と人力車が、川には荷物を載せた小さな船が、何人も難題も何艘も行き交っている。川の向こう岸には寺院と思しき瓦屋根が見えるけれど、浅草寺でないのは明らかだった。千早が見慣れた凌雲閣りょううんかくは、はるかに小さく遠くにちらりと見えるだけだから。


(浅草があっちのほう、っていうことは……?)


 千早が東京の地図を頭に描くことができる前に、朔は答えを教えてくれた。


「あれは回向院えこういん、川は隅田川だ。両国橋は、あっちだな」

「回向院……あの、相撲の?」

「そう。江戸の御代から賑やかだったな……」


 どこか遠くを見る眼差しをした朔は、千早の手を取るとまた歩き出した。三十年以上も前のことをさらりと語ることにも驚くけれど、それよりも手に感じる温もりが大問題だった。


(手……手!?)


 きっと、参拝する人が絶えないお社なのだろう。辺りの草はきちんとむしられていたし、石やごみも落ちていない。なのに、動転した千早は足をもつれさせそうになってしまった。


「あ、あのっ」

「千早は狙われているんだぞ。万が一ということもある。離れないようにしていたほうが良いだろう」

「でも……っ」

「そのための、『この』格好だ。最近の若者はこういう格好をするのだろう?」


 振り向きざまに眩しい笑顔を見せられて、千早の顔はきっと猿のように真っ赤に染まっていただろう。みっともないし、恥ずかしい。それに、何を言ったら良いかも分からない。


(最近の学生さんやお嬢さんは、「こういうこと」をするものなの……!?)


 若い娘ではあっても、千早は普通の若者がどう過ごしているのかは知らないのだ。逢引という概念は知っているけれど、若い男女が手を繋いで歩いていたら、世間様は眉を顰めたりはしないのだろうか。人目につくのは良くないだろうと、頭では分からないでもないのだけれど。


(でも、言えない……!)


 手を放してください、だなんて。彼女を守ろうとしてやってくれていることなのに。……こんなに、胸が弾んでしまっているのに。だから、千早はほんの少し、ほんの少しだけ指先に力を込めることで頷きの代わりにした。

 石段を下りると、赤い前掛けをつけた一対の狐の像が朱塗りの鳥居を守っていた。狐の鼻先を通り過ぎながら、朔がふと、呟く。


「──この社はよく守られている。嬉しいことだな」

「はい。綺麗なところですね」


 改めて振り向くと、陽光に輝く瑞々しい緑に、鳥居の朱色がよく映えて眩しい。石段に落ちる木々の影の濃さ。静謐で、清らかな空気。鳥籠育ちの千早にも、どういう訳か懐かしいと思うのは、たぶん、お社とはこういうものだ、という認識が千早の中にしっかりとあるからだ。赤い鳥居と、狐の像。自然と手を合わせたくなる、神聖な──吉原にも、そんな場所があるのだ。


「吉原にも九郎助くろすけ稲荷がありますよね。何度かお参りしたことがあります」

「そうだな。千早にも会ったことがあるのだろうな」


 朔が頷いたのは、何も不思議なことではない。吉原にいて九郎助稲荷を知らない者がいるはずはない。でも、彼のもの言いはどこか不思議だった。何がどう不思議なのか──千早は、自力で気付くことはできなかった。


「あれは、俺の社だから」

「……はい?」


 だから、朔がさらりと告げたのは青天の霹靂へきれき、というやつだった。目を見開いて立ち止まってしまった千早を、手を軽く引っ張ることで促して、朔は足も言葉も吸勧めた。


「見世を構えて百余年、と言っただろう。そんな昔は、神仏に願うのは人だけではなかったのだ。人の世の賑わいに焦がれたあやかしも、俺を頼ることがあった。ことに、さほどの力のない虫や獣のあやかしは」


 今は明治の御代で、人力車が闊歩しているしすれ違う人の中には洋装の紳士もいる。神田の繁華街と思しき方角に目をやれば、電柱や電線も見て取れる。朔自身も、当世の書生風の出で立ちだ。


 でも、彼が語るのは遠い徳川の御代のこと、狐や狸が当たり前のように人を化かし、蜘蛛や蚕が人の営みを面白がる──そんな夢物語のような時代のことだ。人の世を歩いているはずなのに、彼女たちの周りだけが切り取られて時間が止まっているような、そんな奇妙な感覚に、千早は目眩がしそうだった。


「人のような暮らしがしてみたい。屋根の下での寝起き、多種多様の食べ物、色鮮やかな着物に賑やかな音楽。群れともつがいとも違う仲間との関わり──人に追われることなく、人を傷つけることもなく、人に紛れることができたら、と」

「だから、月虹楼げっこうろうを……?」


 月虹楼の暖簾に描かれた、三日月と束稲たばねいねの紋が千早の脳裏に浮かんでいた。あれは、楼主の本性を語るものだったのか、と今さら悟る。お稲荷様は、その名の通りに稲の神様だということだから。そう、それに里見を追い払った時の炎も、里見の素早い退散ぶりも腑に落ちる。お稲荷様の狐火に、ただの狐のあやかしでは敵わないからと、そういうこと──なのだろうか。


(じゃ、じゃあ、私……今、神様と……!?)


 思い至ってしまった瞬間、千早の掌が冷や汗でどっと濡れた。綺麗な人、世話になっている見世の楼主というだけでなく、さらに畏れ多い存在だったなんて。恥ずかしさも極まって、手を引っ張って逃げようとするのに──なのに、朔は千早の手をしっかり握って、逃がしてくれないのだ。


「そうだ。人の祈りには応じても、あやかしを顧みる神仏はいなかったから。俺くらいは、と考えた」

「あ──だから、私が助けて、と思ったから……?」

「そうだ」


 握った手の熱に心を乱すまい、きちんと話を聞かなくては、と。必死に相槌を打つ千早に、朔の嬉しそうな微笑みは目に毒だった。この人は──この神様は、捕まりかけて絶望していた千早の祈りを聞いてくれた。助けてくれた。自分の意志を持って生きたいという願いを潰えさせずに済んだのは、朔のお陰だ。いくら感謝してもし切れないし、恩が返しきれるとも思えない。


「人間も、昨今ではあれほど切実に願うのは珍しくなっているからな。だから、よく聞こえたし、応えた。嬉しかったんだ」


 なのにどうして、朔の眼差しはひたすら優しいのだろう。ちっぽけな人間の小娘に、感謝する気配すら漂わせているのだろう。


「そんな……私、普段はお参りもお供えもしなかったのに。大変な時に、神頼みするだけで……」


 千早は、本当に祈っただけだ。特別なことでもないし、大変なことでもない。人間の頼みごとなんて勝手なもので、神様からすれば面倒なものでしかないんじゃ、と思うのに。朔は微笑んだまま、ゆるゆると首を振る。


「最近の風潮だな。人の世が豊かになったのは良いことなのだろうが。……神仏もあやかしも、取り残されている。誰もが里見さとみのように賢く立ち回れれば良いのだが、そういう訳にもな……」


 里見を語る口調が、朔と葛葉でまるで違うのが意外だった。葛葉の話を聞いた時は、狡賢い印象を受けたのに、朔のもの言いはどこか羨ましげにも聞こえるような。


葛葉くずのは姐さんは今の人の世が怖くて、嫌だって……)


 千早には、分かるような分からないような。彼女自身も売られかけたけれど、それは昔からよくあることなのだろうし。西洋から美味しいものや珍しいものが入って来て、夜が明るくなって。何かと便利になったのは良いことのような気もするのだけれど。でも、明治の世の花蝶屋の娼妓たちよりも、古式ゆかしい月虹楼のほうが、何もかも綺麗でのびやかで落ち着くのも確かだった。


「楼主様も……その、今の人の世が……?」


 怖いんですか、なんて神様に対して聞けるはずもない。曖昧に濁した千早の、声にならない言葉を、けれど朔は聞き取ってくれたようだった。優しくて綺麗な微笑を、寂しげな気配がちらりと翳らせる。それはたぶん、肯定の証(あかし)だ、と思えた。


「見世の者たちの居場所は守ってやりたいのだが。いつまで持つかと思っていた。……千早のお陰で、もう少し踏みとどまれそうだ」


 それは──月虹楼がいつかなくなってしまう、ということなのだろうか。徳川の御代の倣いが少しずつ消えて、文明開化の波に押し流されて行っているように? 恐ろしい考えに、千早は今度こそ完全に足を止めてしまう。凍りついたように見上げる朔の笑みは、それでもとても綺麗で──同時に、寂しい。


「だから千早には本当に感謝しているし助かっている。出来る限りのことはしてやりたいとも思う。……だから気にしなくて良い。そう、言っておきたかった」


 朔は、もう千早の手を引っ張ることはしなかった。話すうちに、ふたりは大きな木組みの橋に辿り着いていたからだ。西洋風の洒落た欄干に記されたその名は、両国橋。隅田川にかかるこの橋で待っていれば、寿々お嬢様はきっと通りがかるだろう。

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