三章 月虹楼の馴染みたち

第1話 白糸と織衣

 月虹げっこう楼の軒先を掃いていた千早ちはやの手元が、翳った。現世──人の世とあやかしの世の狭間に揺蕩うこの見世には、浅草寺の鐘の音も大文字楼の大時計の音も聞こえない。それでも陽が沈み切るにはまだ早い時間だというのに不思議なことだ。でも、あいにくというか何というか、千早はとうに不思議には慣れていた。傾く太陽を遮る巨大な影の心当たりも、ちゃんとある。


 千早は箒を持った手を止めて、顔を上げた。首が痛くなるほど、顎の先が真正面を向くほど目線を上げて、やっと視界に入る高さから、浅草寺の仁王像もかくやのぎょろりとした目が鎮座している。凌雲閣とは言わずとも、大文字楼くらいは軽く見下ろせるのではないかという背丈のその客は、墨色の袈裟を纏っていた。現世ならさすがに堂々と妓楼を訪れることはない僧侶の姿だった。だからやはり、ここは人の世界ではないのだ。


「千早あ。今日も精が出るなあ」

央善おうぜん様、今夜はお早いですね」


 地を這うような低い声がお腹から響くのを感じながら、千早は額に手をかざしてその客──央善和尚に挨拶した。この人も、もちろんあやかしだ。ものの本では、大入道とか、見越し入道とか呼ばれていて、夜道に現れては巨体で人を脅かすということになっている。そうして、人を食い殺すと言われることもあるのだけれど、千早が見た限り央善和尚は陽気で気前の良い上客だった。あやかしの世に紛れ込んだ人間で、姐さんたちに比べれば見た目も冴えない芸もない彼女にも、気さくに接してくれるくらいに。


「宵も早いうちから起きられるのはお前のお陰よ。──ほら、西洋の菓子をやろう」

「あ、ありがとうございます……?」


 央善和尚は、見上げるほどの巨体をひょいと屈めて、丸太のような指先で摘まんだ「何か」を千早の手に握らせてくれた。英字が印刷された小さな紙の箱に、外国の子供と犬が遊ぶ絵が精緻に描かれている。外箱だけでもうっとりするほど綺麗なのに、振ると微かに音がするのは、甘いお菓子が入っているのだろうか。クッキーとかキャンディとかいう、寿々お嬢様のご相伴でごくたまに口にすることができた、魅惑の味が?


 ごくりと唾を呑み込んだ千早の意地汚さを見下ろして、央善和尚はからからと笑った。山のような巨体から発せられる笑い声で、月虹楼の暖簾がゆらゆら揺れる。


「そこで驚かせた奴が落としていってなあ。女に貢ぐつもりだったろうに、ありゃあ怒られるな」

「それは……お気の毒でしたね」


 忍び寄りつつ薄闇の中、ぬっと現われた大男に腰を抜かす人のことを思って、千早は悪いとは思いつつ笑ってしまう。人の世の吉原が今、どうなっているかは「こちら」にいると分からないのだけれど。夜が暗い徳川の御代に返ったように、モノノケの噂が騒がせているのかもしれない。千早が「こちら」に来たことで「あちら」との境目が薄れているとか──それもまた、彼女自身にはよく分からないのだけれど。


 と、月虹楼の店の中から華やかな声が上がった。


「あらま、入道様、早くお上がりなんせ」

芝鶴しかく姐さんがわっちよりも首を長うしておりいすよ」

「おお、そうかそうか」


 央善和尚は、狸の芝鶴姐さんのお客なのだ。ろくろ首の姐さんが、文字通りに首を伸ばして和尚の腕に絡みつくと、見上げるほどだった体躯がするすると縮んで、どうにか月虹楼の暖簾を潜れるくらいになる。どういう仕掛けかは分からないけれど、あやかしは姿が決まっていない……らしい。庭での月見の席なんかでは、和尚は元の大きさのままで、姐さんが肩に載って耳元で歌ったりするらしい。それはきっと、浮世絵さながらに荒唐無稽で奇っ怪で、けれど夢のような素敵な光景なのだろう。


 でも、今の千早が美しい幻想に浸ることはできなかった。上機嫌で階段を上っていった央善和尚と入れ違いで、小柄な影が店の奥から出てきて、そっと千早の袖を引いた。


「千早、掃除はもう良いから早くお入り。客人がたが来られるころじゃ」

白糸しらいとさん──はい、ただ今」


 千早の立場は居候兼雑用で、妓楼としては客の前に出せる存在ではないのだ。たまたま顔を合わせる機会があった和尚や、ほかの何人かのあやかしの客は、面白がって構ってくれるけれど、甘える訳にもいかないし、千早を受け入れてくれた朔への裏切りにもなってしまう。


 箒とちりとりを抱えた千早の背に、月虹楼の前で足を止めたらしい者たちの声が届いた。


「あれ、こんなところにこんな見世があったかなあ」

「新しくできたんじゃないのか」


 書生風の、若々しい声だ。吉原で遊び慣れていないから月虹楼の風情ある見世構えにも気付かないのか、気後れしたり揚げ代を気にしたりする様子もなく、足を進めようとしているようだ。人目を憚らぬ若者たちは声も大きかった。


花蝶かちょう屋の半玉はまだ見つからないんだな」

「明治の代に神隠しか。もう二十世紀になるんだろうに」

「神隠しな訳ないだろう。人さらいか駆け落ちだ」

「ああ、その辺に隠れていないかなあ。仕送りを擦っちまってさあ」

「懸賞金をかけるくらいだからよっぽどの美人なんだろうな」


 好き勝手言い合う彼らの声に振り向かぬよう、肩が跳ねてしまったのに気付かれぬよう。千早は必死に息と足音を殺した。


(大丈夫……本当の私は美人なんかじゃないし……)


 世の境目を越えたところとはいえ、吉原にとどまっているなんて、誰も想像だにしていないはず。だから大丈夫だと、自分に必死に言い聞かせる。でも──


(懸賞金って!? 私はそんなに高く売れる予定だったの……!?)


 やっぱり、あやかしよりも人間のほうが恐ろしい。絶対に見つかってはならないと、決意を新たにしながら、千早は月虹楼の一階奥、使用人のための区域に逃げ込んだ。


      * * *


「千早は、筋が良いねえ」

「うんうん。もう目が揃っている」

 千早の手元を覗き込んで、白糸と織衣おりえが目を細めた。地味な色味の小袖に、きっちりとした島田髷の「お堅い」装いながら、いずれも品良く艶のある佇まいのこのふたりは、月虹楼の「お針」だ。花魁たちは裁縫などしないから、季節に合わせての仕掛の仕立て直しや、下着の繕いは彼女たちの仕事になる。

 ほかにも、料理番や風呂番、力仕事を担当する若い衆がいるのは人の世の妓楼と変わらない。世の狭間で客を待つ体の月虹楼だから、客引きがいないのは違うと言えば違うかもしれない。


「いえ……私なんて、まだまだ手が遅くて」


 千早が雑巾一枚を縫う間に、白糸と織衣は次々に繕い物を片付けている。雑巾なら何枚あっても良いから、とは言われているけれど、切った布を真っ直ぐ縫うだけでは褒められて得意になっていて良いとは思えなかった。花蝶屋では手遊てすさびにつまみ細工を拵えることもあったけれど、あれは時間と根気さえあればそれなりの出来になるものだし、針と糸も使わないから話が違う。


(こんなことで、私、外で生きていけるのかなあ)


 掃除くらいは、花蝶屋でもまあやっていたけれど。炊事も裁縫も、手伝ってみると驚くほど気を配ることが多くて頭がはち切れそうになる。手伝っているのか、本職たちの時間を取らせて教えてもらっているのか分からなくなる。しかも、この見世の者たちはみな、自分の持ち場にこの上ない誇りを抱いているようだから、同じ熱意を持ってその仕事にあたれるかどうか。千早には分からないことだらけだった。


(ひと通りの家事ができれば、どこかで女中として雇ってもらえるかしら)


 情けないほどふんわりとした展望だけど、それでも花蝶屋に残って売られるよりは、自分の意志で行動しているだけだいぶマシなのではないかと思う。たぶん。


「そうは言っても、瑠璃るり珊瑚さんごは糸にじゃれつくばかりで裁縫なんぞしやせんし」

「葛葉姐さんは面倒じゃと放り投げるばかりでなあ」


 いかにも目に浮かぶ光景だった。白糸と織衣は嘆かわしげに顔を見合わせて整った眉を寄せているけれど、千早の口元は思わず緩んでしまう。


こいという字にはふたつも糸が入っているというのに」

「縁にも通じるし、のう。廓の者が糸を疎かにするのはいかがなものか」


 溜息を交わしながらもふたりの手が止まることはまったくなくて、しかもその動きの流麗なこと、ただの並縫いをしているだけでも上手の踊りを見ているようだ。縫い目も、ミシンを使ったように整然としている。


「おふたりは、お裁縫が好きなんですね……」


 ひとつの芸になるのではないか、というほど素早く正確な針の運びに見蕩れながら呟くと、白糸と織衣は顔を見合わせてくすくすと笑った。


「それは、もう」

「あたしは蜘蛛で、織衣は蚕のあやかしだもの」

「え?」


 目を丸くした千早に、手ぶりで仕事を続けるように促して、ふたりはにこやかに頷き合っている。


「糸を吐くのは羽虫を捕らえるためだとばかり思うていたのに。武蔵野の農家で屋根からぶら下がりながら、人はおもしろいことをすると眺めたものよ」

「あたしなんかはきょうだいみんなで煮られたのよ。なんで、どうしてって思ったけれど──あたしは、綺麗なものを作っていたのねえ」


 絹の生地を撫でて呟く織衣の眼差しは妖しくて、思わずどきりとしてしまう。でも、その内容は恐ろしい。あやかしの見世に来て初めて、恐怖を感じたかもしれない。花魁のように装ってはいなくても、とても綺麗なふたりが虫の化身だということも。絹糸を取るために蚕の蛹を煮殺す人間の所業も。何を言ったら良いか分からなくて、今度こそ千早は手を止めてしまった。顔色も青褪めているだろうに、白糸も織衣もにこにこと微笑んでいる。


「あやかしは、人の真似事ばかりよ。この見世だって、そう」

「人は思いもよらないことをするから──あんたはどうなるのか、楽しみねえ」

「わ、私──」


 どうにか相槌だけでも打とうと、どうにか口を開いた時──二階から、「何か」が転がり落ちる音と振動が響いた。同時に、凛と澄んだ、けれど不機嫌に尖った女の声が。


「二度とその顔をわっちにお見せでないよっ! 瑠璃、珊瑚、塩を撒いておやり!」

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