第5話 居候、はじめました

「あら、楼主様……!」

「もう、またズルく逃げるのでござんすね」


 さやさやと、実に優雅な衣擦れの音が、千早ちはやの左右を通って行った。葛葉くずのは芝鶴しかくが、楼主であるはじめのもとへ擦り寄っていったのだ。


珊瑚さんご瑠璃るりがどうするのか、ふと気になったところにあの音だ。驚いたが──機転を利かせたようだな」

「いえ……そんな、たまたまで」


 もちろん、禿たちが偶然、そして突然飛び出して階段を落ちた、なんてあり得ないのだけれど。本当のことは、楼主と花魁たちの前で言ってはならない。ふたりに序列をつけずに切り抜けるためにしたことだ、なんて口に出すことではないのだから。千早はたまたま帯留めを放ってしまって、それがたまたま「仔猫」たちの気を惹いてしまった、そういうことにしておかなくては。花蝶屋にいた時も、喧嘩をしている姉さんたちの間に猫の若菜を放ったり、ものを壊して泣きそうな半玉を庇うため、若菜に罪を被ってもらったりしていたから。そこから、思いついたことだった。


(だって、猫は可愛いから……叱られないし。叱られるなら、私になるし)


 たぶん、朔には千早の魂胆などお見通しなのだろう。禿と花魁を従えた美貌の楼主は、一幅の絵のように見事に様になっていて、気圧されてしまう。思わず目を伏せた彼女の耳に、くすり、と笑う吐息が届いた。


「何も考えずに生きてきたという割に、遣り手だな」

「それは自分のことというか──ええと、これでも、廓育ちなので。姉さんを立てるのも小さい子を庇うのも当たり前、というか」


 深く考えずにしでかしたのが「これ」なのだ、と。白状するような形になって、千早はますます顔が上げられない。鼻をくすぐる良い香りがしたことで、辛うじて朔が首を巡らせたことが分かる。


「縁とゆえあってしばらくいてもらうことにしたのだが──」


 朔は、彼の左右を固める葛葉と芝鶴に、かわるがわる告げたようだった。


「この調子なら心配いらないな。禿の教育にもなりそうだし──花魁も願ってもないだろう?」


 問いかけに応えて、銀の鈴を振るような淑やかで華やかな笑い声を立てたのは、芝鶴花魁のほうだった。


「わっちは、楼主様のお考えには否やはございいせんよ」

「それは、良かった。葛葉は?」


 千早がやっと、そして恐る恐る顔を上げると、芝鶴花魁は蕩けるような笑顔で朔にしなだれかかっていた。一方の葛葉花魁は、紅く染めた眦を吊り上げて、同輩を睨めつける。


「この狸めは、愛想ばかり振り撒いて……!」


 そういう彼女の繊手も、しっかりと朔の腕を捕えているのだけれど。もちろん千早にそれを指摘する勇気などなく、葛葉の鋭い目が禿を貫くのを見守るばかり。


「仔猫どもも、甘やかすばかりで。お陰でいつまで経っても聞き分けのないこと。座敷なんぞ出せやしいせん」

「ね、姉様……」


 白黒の三角の猫耳が、へたりと垂れた。着物の裾から覗いた尻尾も、同様に。

 遊郭の倣いも客や姉分のあしらいも、多かれ少なかれ叱られて覚えるものだ。御職の花魁ともなればその言うことは「絶対」で、無作法な禿に罰を与えるのだって当然のこと。でも、少なくともこの場のことについては千早が責を負うべきだ。


「あの──」


 禿たちを庇おうと腰を上げた瞬間──葛葉の涼やかな目が、ひたと千早を捉えた。御職の花魁の、凄みと色気がふんだんに乗った眼差しに、千早は半端な体勢で固まった。自身の美貌の威力を確かめてか、葛葉は艶やかな唇を、にい、と笑ませた。客を焦がれさせ身代を傾けさせる、値千金の微笑が、惜しげもなく貧相な小娘に向けられている。


「この、怠け者のの仔猫どもに、叱らずとも手管を教えられるなら──人の小娘にも能があるやもしれえせん。お手並み拝見と、構えることといたしんしょう」


 どこか含みのある言葉が怖くて、それに葛葉の美貌に圧倒されて。身動きひとつ取れないでいる千早に、朔はすいと足を進めた。常に裸足の花魁と違って、楼主は足袋を履いている。その白さが、目に染みると──余計なことを考えたのは、朔が膝をついて千早に目線を合わせたからだ。


「禿の躾に期待している──歓迎すると、葛葉はそう言いたいようだ」


 綺麗な人の、悪戯に微笑む目が間近に迫ったから、何を言われたか呑み込むのに、たっぷり数秒はかかってしまった。


(怒られない……受け入れて、くれた……!?)


 理解して、安堵と喜びが込み上げるまでに、さらにまた何秒か。察しの悪さに葛葉が顔を顰める気配を感じて、千早は慌ててその場に手をついた。


「え、えっと……恐れ入ります……? いえ、あの。ありがとうございます!」

「千早ぁ!」


 もう少し、口上を述べようとしたのだけれど。平伏した背中に小さな衝撃がふたつ、襲って千早は息を詰まらせた。瑠璃と珊瑚が、飛びついてきたのだ。


「ありがとう、ござりんした」

「見事なお手並みでありんしたなあ」


 見事、というのは、花魁たちを引っ張り出したことに対してなのか、それとも帯留めを振って猫の本能を掻き立てる技に対してなのか──禿たちのきらきらとした目からは、どちらともつかない。もう少し千早にじゃれつこうとするふたりを、葛葉花魁が呆れ声でたしなめる。


「油を売っているでないよ。はよう、来なんし」

「あい、姉さん!」


 先ほどまでしょげていたのはどこへやら、白黒の耳と尻尾が勢いよくぴんと立って、姉花魁のもとへ駆けていく。


「新入りに、月虹げっこう楼の夜見世を見せてやらねばなりいせんからなあ」

「酒に拠らずとも、裏で見ているだけでも──夢見心地にさせてやりんしょう」


 葛葉花魁と芝鶴花魁。月虹楼の御職を張るというふたりは、惜しみない笑みを千早に見えせてくれた。誇らしく、美しく、艶やかな──その表情を見るだけで、彼女たちが月虹楼に抱く矜持のほどが知れる。必ず客を酔わせ虜にするのだという、絶対の自信が。


 人間離れした──というか、文字通り人間ではない花魁たちに、禿に番頭、そしてたぶん、楼主も。あやかしが集う、不可思議だけれど美しく華やかな遊郭。千早は、当分はここで過ごすことになるのだ。

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