第2話 出禁の客

「く、葛葉くずのは、そう怒るなよ。綺麗な顔が台無しだ──」

「お黙り! 耳が腐る!」


 この前、瑠璃るり珊瑚さんごがふたりして飛び降りた時よりもずっと重くて大きな音だった。階段の下から聞こえた苦しげな声は、男の人のもの。となると、事態はおのずと知れる。


(葛葉姐さんがお客を突き落とした……!?)


 千早ちはやは、白糸しらいと織衣おりえと目を見交わすと、手にしていた針と布をひとまず置いて、階段のほうへ向かった。騒動は見世中に轟いたのだろう、あちこちから襖が開く音と人の声が聞こえてくる。


「塩じゃ、塩じゃ」

「早う、分けておくれ」


 千早の目の前を、瑠璃と珊瑚の稚児髷ちごまげが駆け抜けていく。葛葉の命令を律儀に遂行すべく、くりやに急いでいるようだ。そして階段の下では、洋装の紳士がしきりに腰を叩いている。彼が、塩を撒かれようとしている葛葉の客なのだろう。


(お怪我はないかしら……あ、でも、助けたら姐さんが怒るのかしら)


 酔客のいざこざならともかく、花魁が客を叩き出すなど月虹楼に来てからは初めてのことだった。何をすべきか、見て見ぬふりを貫くべきなのか──おろおろと、意味もなく左右を見渡す千早を余所に、白糸と織衣はあっさりとしている。


里見さとみ様じゃ。お狐の──葛葉姐さんの同胞はらからなのだけど」

「なあに、毎度のことよ。犬も食わない痴話げんかじゃ」

「そ、そうなんですか……?」


 言われてみれば、里見なる紳士は確かに吊り上がった細い目をしていて、狐の化身と言われても頷ける。でも、それはそれとして、葛葉を怒らせることができるなんて良い度胸だ。綺麗なだけでなく、とても怖い気性の人でもあるのに。同族ならではの気安さでもあるのかどうか。と、そんなことを考えていると、視線を感じたのか里見は千早たちのほうへ顔を向けた。


「──おい、内所に帽子と洋套マントを預けてるんだが。この格好で追い出したりはしないよな?」

「はいはい、ただいま」


 拝む手ぶりの里見に応じて、白糸がくすくすと笑うと内所へと足を向けた。頼まれた通り、洋套を持ってくるのだろう。一方の里見はあちこちさすりながらこちらに近づいて来る。どうやら、彼も馴染みの客だけに、花魁ではない下働きとも顔見知りらしい。織衣が里見にかける声も向けるま眼差しも、ごく気安いものだった。


「災難でございましたなあ、里見様。芝鶴しかく姐さんに央善おうぜん和尚がお出でで賑やかだから、葛葉姐さんも虫の居どころが悪かったのやも」

「そうかもな。いや、仕掛なんぞ古臭い、洋風のドレスでも来てみたらどうだ、って言っただけなんだがね」


 里見が肩を竦めたちょうどその時、山盛りの塩を盛った茶碗を抱えた瑠璃と珊瑚が戻ってきた。小さい手に塩を握りしめて、里見に思い切り投げつける。


「葛葉姐さんの命令じゃ」

「恨まないでおくんなんし」


 えい、えい、という掛け声と、ぱらぱらという音と共に、里見の黒い洋装に雪のような白い塩が点々と落ちる。当然、床にも零れるのを見て取って、織衣が盛大に顔を顰めた。


「ああもう、後先考えずに──誰が掃除をすると思うている」

「あ、それは私が──」


 客や花魁が足の裏を汚しては一大事と、千早は箒と塵取りを取りに身体を翻しかけるけれど──里見が、彼女の腕を捕まえた。織衣が、瑠璃と珊瑚に気を取られて下を向いている隙に、見世の喧騒に紛れる囁き声が千早の耳に忍び寄る。


「君、花蝶かちょう屋の千早だろ? 神隠しに遭ったって評判の」


 違います、と咄嗟に言えなかったのは、たぶん大失敗だった。ううん、何を言っても、千早の顔色が答えを物語ってしまっていたかもしれないけれど。息を呑んで立ち竦む千早を、里見はうんうんと頷いて見下ろしたから。


「いや、月虹楼に人間の新入りが来たっていうからもしやと思ったんだが。本当に神隠しに遭ってるとはねえ」

「な、何をしようっていうんですか……」


 にんまりと笑う里見の目は、糸のように細くなっている。そんな笑顔でも、細面の整った顔でも油断できないと思ってしまうのは狐のあやかしだと聞かされたからだろうか。洋装といい、言葉の内容といい、あやかしというより人間みたい、と思ってしまうからだろうか。今の千早は、もう人よりもあやかしのほうを信じるようになっているようだ。これ以上は関わり合いにならないように、距離を取ろうと、したのだけれど──


寿々すずお嬢さんが君のことを心配してるよ」

「え──」


 思いがけない名を聞いて、千早はまじまじと里見の胡散臭い顔を見つめた。千早の存在を知っているだけなら、吉原の噂に耳を傾けていれば、あり得ることだ。先ほどの書生たちのように、彼女の行方や懸賞金とやらが好奇心の的になるのは、理解できる。


(でも、お嬢様のことを知ってるなんて……!?)


 良くないことだと思うのに。千早の足は、じわりと里見に近づいてしまう。彼女を逃がしたりして、寿々お嬢様こそ叱られてはいないのか。花蝶屋は、どうなっているのか。勢い込んで、尋ねそうになってしまう。……そうしないで済んだのは、千早に理性があったからでは、なかった。


「ささ、里見様。預かりものをお持ちしましたよ」

「葛葉花魁がすみませんねえ。これに懲りずに、何卒なにとぞ──」


 千早と里見の間に割って入るように、黒い洋套を広げた白糸に、番頭の四郎しろうまでが帽子を掲げて駆けつけてきたのだ。花魁の高慢や我が儘の尻ぬぐいも見世の者の役目のうちだから、機嫌を取りに、ということだろう。膝立ちで歩いているのでは、と思うほど四郎の頭の位置は低かった。


「構わんさ。気の強いところも好きで通ってるんだから。また忘れたころに機嫌を伺うさ」


 鷹揚に頷く里見の姿は、大見世の上客に相応しいものではあった。おおらかで、見世の者に当たるでもなく、花魁を立てて──それが狐の化けの皮に過ぎないのかどうかは、千早の目では見抜くことができない。


 棒立ちになってしまった千早に流し目をくれて、里見はにい、と笑った。口の端が耳元まで大きく裂けた気がして、千早は小さく飛び跳ねる。端整な里見の顔が、一瞬だけけだものじみた獰猛さを覗かせたから。


「私はあやかしだからね。人の金には興味はない。だが、たまには人助けをしようって気になることもある。葛葉への土産話になるかもしれないし──」


 洋套を、蝙蝠コウモリのように翻して羽織りながら、里見はまた千早の耳元に口を寄せた。


「明日、月が沈むころに見世の前へ出ておいで。寿々お嬢さんに会わせてあげよう」


 そして、千早の答えを聞く前に、彼はもう背を見せていた。漆黒の洋套の張り具合は、彼の自信を示すようで──彼女は言われた通りにすると、確信しているとでも言いたげだった。

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