新釈ナルキッソス

瑞取 旬

 

 自分で言うのも何だけど、私は可愛い。

 今はちょうど鏡の中で私の顔に化粧が施されている。陶器のような素肌を筆が撫で、二重の瞼に色が乗る。私は美人だから、薄化粧でも十分だ。そんな自信家なところも本当に可愛い。つややかな黒髪をざっくりと一つに束ねて前髪を整える。いろんな角度から念入りに出来栄えを確認し終わると、鏡の中の私が僕に向かって挑戦的に口角を上げた。ああ私には敵わないな、今日も綺麗だよ。僕は私が大好きだ。

 晴れた空を見て、日焼け止めを忘れていることに気づく。皮膚ガンが怖いなんて言い訳して、日焼け止めクリームは夏の間欠かさず塗っている。色白の腕にクリームが線を描き、ほっそりした指がするすると肌の上を滑る。官能的な指先の動きを、僕はふわふわと夢を見ている気分で眺めた。

 身支度を終え、一人暮らしのワンルームを出て大学に向かう。蝉しぐれの中、夏の日差しが半袖シャツから覗く二の腕を白く輝かせる。身体の線を拾わない黒のシャツは肌の白さと女性らしい柔らかな曲線を強調する。参ったな、何を着ていても私は可愛い。僕の趣味で買った武骨な腕時計すら私の華奢な手首を一層際立たせる。女の子の身体だ、どう見ても。

 文字盤に目を落とすと遅刻間際の時間だったので走り出す。道中の窓には束ねた髪を揺らしながら走り抜ける私が映る。振り子のように揺れる毛先が白い首筋を見え隠れさせて悩ましい。僕の視線に気づいたかのように私が窓の中から微笑みかける。大丈夫、今日も私は綺麗だよ。


 何とか教室に滑り込むと同時に講義が始まった。走って疲れたせいか、それとも寝不足のせいか、睡魔が襲う。うつらうつらしているうちに講義が終わったようで、遠慮がちに呼ぶ声がする。

「……なる」僕にとっては唯一の親友、こうの声だ。

 他愛のない話をしながら江向と食堂で昼食をとる。食器を片付けていると江向がこの後の予定を聞いてくる。

「僕──」と言いかけて慌てて言い直す。「私、これからバイトだから」

 江向はそうか、と頷いたあと、

「『僕』でいいのに」と独り言のように呟いた。


 バイト先のレストランには余裕で着いた。制服に着替えてテーブルのセッティングを手伝う。今日は貸し切りでの予約があって、いつもより装飾が華やかだ。

 お客さんが入ってきたので営業用の笑顔を貼り付けて接客する。仕事の邪魔にならないように、僕はそっと窓ガラスを盗み見る。日が落ちて暗い窓には明るい店内がよく映る。大丈夫、いつも通り私は可愛い。私の笑顔を直接見られるお客さんたちが僕は少し羨ましい。

 廃棄するのは忍びないからと、装飾に使った花は簡単な花束にしてスタッフ皆で持って帰る。胸に抱えた白い百合が良い香りを放つ。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。どこか現実味のない光景をぼんやり眺めながら、僕はふとそんな言い回しを思い出す。簡素な白い花束は憎たらしいほど私によく似合っていた。

 

 家に帰って荷物を置いて、僕はベッドの端に私を座らせた。カーテンの隙間から漏れる街灯の明かりが私の肌を照らし、白い手足が暗い部屋にぼんやりと浮かび上がる。ああ綺麗だ。髪を束ねていたゴム紐をするりとほどいてやって、肩から零れ落ちる黒髪をそっと指先で梳く。綺麗だ、現実とは思えない。ひんやりとすべらかな太ももをゆったりと撫でる。今夜も僕の私は綺麗だ。

 指先が柔らかな二の腕を這い、首筋まで駆け上る。私の緊張が僕には手に取るようにわかる。当たり前だ、僕は私なのだから。大丈夫、怖くないよ。僕は私に話しかけながらそっと首に手をかけた。

 じわじわと首を絞めると私の息遣いが段々浅くなっていく。肌が火照って長い髪が纏わりつく。私が倒れ込むとベッドがぎしりと軋んだ。逃げないで、大丈夫。首に沿わせた手に力が入る。

 もらった百合は花瓶に挿して窓辺に置いてある。もがくように手を伸ばすと肉厚な花弁に指先が触れ、濡れた柔らかな感触が伝わってくる。握りしめると短い爪が白い花弁を割り裂いた。

 濡れた肌に細い指先がゆっくりと沈み込む。私が呻き声をあげた。駄目だよ、静かにしてなきゃ。――そう、良い子良い子。

 首にかけた手は爪を立ててますます私を絞め上げる。意識が薄れていくのが心地良い。

 潤んだ瞳も、声を立てまいと噛みしめた唇も、首筋につくだろう赤い痣も、僕が直接見ることは叶わない。きっとさぞかし綺麗だろう。僕らはあまりに近過ぎた。

 生ぬるい風がカーテンをふわりと揺らす。百合の花弁がぱさりと落ちた。


 気づけば僕は泣いていた。こめかみを伝う熱い涙と、爪を立てていた首に残るひりひりした痛みが、ずっとふわふわ夢見心地だった僕の意識を現実に引き戻す。

 窓の外から虫の音が聞こえる。風が僕の髪を揺らして額をくすぐる。百合の甘い香りがかすかに漂う。五感全てがはっきりと僕に届く。日中は他人にしか思えなかったこの身体が、今は僕のものだ。

 乱れた服を整えて、僕は外へ出た。熱のこもったコンクリートを裸足で踏みしめると小石に足裏をくすぐられ、僕は思わず笑ってしまう。今日はどこへ行こうかな、やっぱりあの池がいいな。一歩踏み出すたび、ゴツゴツしたぬるいアスファルトや酷暑でしなびた雑草が足裏に触れるのがくすぐったくて嬉しくて、僕は小さく笑い声を上げながら歩いた。

 池の周りはフェンスに囲まれていて、それを覆い隠すように雑草が生えている。僕は雑草の切れ目を探して錆びたフェンスにもたれかかり、池を眺めた。水面を渡る風は妙に冷たくて、少し汗ばんだ肌には心地良い。蛙の鳴き声と時折電車の通る音だけが辺りに響いている。

 フェンスの上端を鉄棒に見立て、ぐいとよじ登って覗き込むと、私が池の中からこちらを見上げていた。

 月が綺麗だよ、私。見えるかな。

 僕はこっそり私に話しかける。まばらな街灯と月明かりでは暗くて表情まではわからない。

 ああ触れたいな。僕が手を差し伸べると池に映る私にもこちらに手を差し伸べる。もうちょっとで届きそう、さらに身を乗り出すとぐらりと視界が振れる。あと少しで指先が水面に触れるところで、後ろに強く引っ張られる。背後から抱え込まれるようにして、どさりと地面に座り込んだ。

「……危ない」

 耳元で聞き慣れた低い声がする。

「いつもすまないねぇ、江向くん」冗談めかして言うと、声の主はため息を一つついて、

「それは言わない約束でしょ……成木くん」といつも通りの返事をした。

「今日は遅かったね」僕は江向に後ろから抱きしめられたまま話しかける。

「間に合わないかと、思った……」僕の身体に回された腕に力が入る。表情の乏しい江向が感情を見せるのは珍しい。多分僕相手だけじゃないかな、つい嬉しくなってしまう。良くないな。

 固く抱きしめられて江向の体温が背に伝わってくる。温かい。包み込まれる感覚に安心して、私の肩から力が抜ける。悔しいな、僕にはできない。

 夜風が吹き抜けて、髪が首の爪痕に触れる。痛、と思わず首筋を押さえる。

「また怪我したのか」江向が僕の顔を覗き込むのでつい目を逸らす。

 しまった、また心配をかけてしまう。でも今更か。江向の手をとって私の首にあてがう。

「こうやると気が紛れるから」江向の手の上からぎゅっと私の首を握るようにする。江向の手で絞められているような錯覚に陥る。

 死ぬならこうやって殺されたいなあ。ぼんやり呟くと、それは俺が嫌だと江向は僕の手をほどき、

「死にたいのか」と平板な声で問いかける。

 死にたくないわけがなかった。僕はこんな姿じゃないはずなんだ。成長とともに柔らかな丸みを帯びていく身体がどれだけ嫌だったか。日に日に女性らしい美しさを増す身体がどれだけ魅力的だったか。白い手首を包丁ですうっとなぞると赤い血がぷつりと染み出す様すら蠱惑的で、僕はどうすればよかったんだろう。身体に恋をした。今までどうしようもなかったし、これからもきっとそうだ。

 江向は何も言わない。散々聞かされた話だからというのもあるけれど、僕が私を傷つけたとき、いつも江向は良いとも悪いとも言わずただ黙って話を聞いて、時折山びこのように言葉を返す。江向のそばは居心地が良い。江向の存在は僕にとって唯一の救いだった。

 腰に回された江向の腕をぺちぺち叩いてみる。熱くて筋張った腕は当然びくともしない。いいな、と無意識にこぼす。こんな身体がよかったな。羨ましい、僕も江向みたいならよかった。私とは別に、僕にこんな身体があったなら、私を抱きしめているのは僕だったはずなのに。

 江向は少し考える素振りをしてから、

「俺の身体は成木のものだと思ってくれて構わない」と答えた。「それで成木の気が紛れるなら」

「本気で言ってる……?」僕が恐る恐る尋ねると、

「いいよ、好きにして」江向の凪いだ瞳が僕を捉える。

 好きにして。よくもまあ簡単に言ってくれる。頭の中でぷつりと何かが切れる音がした。

 向き直って左手で江向の顎をつかみ、こちらへ顔を向けさせる。右手で江向の両目を覆い、私の顔を近づける。好きにさせてもらうよ。最後にぼそりと宣戦布告すると、江向の唇に私の唇を押し当てた。

 の舌が江向の唇を押し開き、中へと侵入する。江向が僕の身体になるってのはこういうことなんだ。僕は私と恋人でありたいし、逆もまたしかりだ。ねえ、わかってて言ったの? 息継ぎの合間に詰るような台詞を吐く。私が悦んでいるのがわかる、だって私は僕だから。僕ではだめなんだ、他人じゃなきゃだめだ。

 僕にとって江向は親友だ。私にとっては何だろう。


 気づけば江向の肩に顔をうずめて泣いていた。江向が手の甲で口を拭う気配がする。とてもじゃないが顔を上げられない。顔をうずめたまま、僕はごめん、ごめんね、と謝罪を繰り返した。

「成木、大丈夫だから。俺がいいって言ったんだ」そっとあやすように江向が言う。「俺は成木が生きてさえいればそれでいいし、そばにいられればそれでいい」

 不意にふわりと体が浮く。江向が僕を抱き上げて歩き出した。

「自分で歩けるよ」僕が足をバタつかせて抗議すると、

「靴を履いてから言いなさい」と江向が正論で返す。

 黙って運ばれていると、伝わってくる体温と程よい揺れが眠気を誘う。

「……寝ていい?」

「鍵は」

「胸ポケット」

「俺が取るのか、それ」

 僕は寝ぼけまなこで家の鍵を取り出すと、江向の胸ポケットにねじ込んで睡魔に身をゆだねる。

 おやすみ、また明日。もしも明日があるならば。

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