ジャック・ザ・リッパーvs荊軻 2

 遥か昔。

 中国最初の皇帝たる始皇帝しこうていに滅ぼされる事を恐れた燕の者達は、一人の流浪人に暗殺を託した。

 名を荊軻。

 荊軻は燕の貴族の首と地図とを手土産に始皇帝に近付き、あと一歩まで迫ったものの、最後には失敗して惨殺されたと言う。

 ――本当に?

 喧嘩を売られればすぐに逃げる。勝てないと見定めればすぐに逃げる。

 そんな荊軻が、仮に莫大な大金を報酬として支払われたとしても、何も無しにただ殺されるだろうか。

 彼女には少なからず、生き残る算段があったのではないだろうか。

 その証拠が、のちに処刑される事となる出生不明の始皇帝の子息ではないと、誰に断言出来ただろうか。

「美しいな。貴公は。汚物に塗れても、血に濡れても、貴公は変わらず美しい」

 その言葉さえ、差し伸べられる手さえ、彼女にとって策の中だとしたら。

ちんめかけになれ」

 そのような未来を想定していたのなら、彼女は紛れもない完全犯罪の遂行者だったであろう。


  *  *  *  *  *


「し、始皇帝の妾……?!」

「本人曰く、な。もし事実なら、歴史が引っ繰り返る。ケッケッケッ! いいじゃねぇの! 歴史改竄失敗者! 我ながら良い文句を考え付いたもんだぁ!」

「はぁ……」

 歴史には刻まれていない事だし、始皇帝が召喚された記録もない今、確認のしようもない話だが、事実であったなら大惨事だ。

 開戦早々に嘔吐しまくり、今も建物の陰に隠れて催している血塗れ女が、仮にもかの始皇帝の側室だったなんて、安心院は信じたくない気持ちでいっぱいであった。

「ふぅ……スッキリした。さて、どうしたものか、な」

 ところどころに感じる。

 既にこの都市は罠だらけ。陰で粗相をしている間に、相手は準備を整えたらしい。

 過去、ジャック・ザ・リッパーの試合は全てストリートファイト。街の形状はその時によって変わるが、彼の得意とする十九世紀ロンドンを舞台にしたものが多い。

 そして、どのような舞台でもジャックはまず撤退する。

 対峙も対面もタイマンも、最初はしない。まずは様々な場所に罠を張り、敵の捕縛、無力化を試みる。

 これを世間では“罠張り紳士ジャック・ザ・ハンター”と呼ぶらしい。

「さて、どんな罠を張ったのか……吐いてスッキリした事だし、見せて貰おうか」

 一歩飛び越え、二歩目で断ち切る。

 敢えて自ら起動スイッチである糸を切って作動させた罠は、荊軻の上から大量の屋根瓦を落とし、生き埋めにせんとしてきた。

 が、荊軻は軽やかな身のこなしで躱す。

 たった今まで酔い潰れ、嘔吐していたとは思えない足捌きで、屋根瓦の隙間を縫うように進んでいく荊軻の体は、塵の一つも被らなかった。

 そうしてまた一歩進んだところで、次なる罠を発動させる糸を踏む。

 一つ目を避けたと安堵したところで、繰り出す一歩目に狙った位置。踏み込んだ荊軻の側面から飛んでくるナイフの群れは、背をのけ反らせて躱す荊軻の上を通り過ぎる。

 倒れそうで倒れない絶妙な姿勢を保った荊軻へと、降り注いでくる一本の大鋏おおばさみ。落下時に先端が先に落ちるよう、刃の方を重い材質で作った特殊加工されたそれは、ジャックの思惑通りならば、荊軻の胴体を両断しているはずだった。

「っと」

 ずる、と足を滑らせる。

 身をのけ反った状態だったためそのまま倒れてしまった荊軻のすぐ側を通り、石造りの地面に突き刺さった。

 腕の力と腹筋とで飛び上がり、起き上がった荊軻はわずかに切れた髪の毛先を見て一言、あぁあ、とだけ漏らす。

「酷いな。そこらの髪結い床で直るだろうか。まるで馬の尾のようだと、褒められたんだぞ? の髪は」

「拙?」

「拙……?」

 先ほどまでと自身を呼称していた荊軻だが、と自称した事で何やら雰囲気が変わる。

 凄んだ訳でも威圧した訳でもない。

 木枯らしに吹かれて集まった枯葉の山が、と弾けながら少しずつ燃えていくような、そんな感覚。

 涼やかで静謐で、しかして内部に若干の熱を籠らせた荊軻の匕首が、凛として、ゆっくりと新円を描いた。

 そして描いた後、動かない。

『荊軻。謎の円を描いた後動かない。これは何かの術か? 異能か? ともかく何かをしようとしてる事だけは確かだ! しかしその間にも、ジャック・ザ・リッパーは更なる罠を張り巡らせていく!!!』

 柄に括り付けていた紐で鋏を回収。

 ジャックの行く先に張り巡らされた罠の数々が、荊軻に攻めも守りも逃げも許さぬ包囲網を作り上げていく。

 それらを理解したうえで、荊軻は動かない。

 寧ろ自身を囲う包囲網の完成を、静かに待っているかのようでさえある。ようやく動いたと思っても、すり足で半歩。その程度。

 新円を描いて、すり足で半歩進む。それを二度、三度と繰り返した荊軻は、深く息を吸い込んでから、吐いた。

「参ろうか」

 猫のように四足を突いた状態から、駆ける。

 罠を起動させる糸を次々と匕首で斬り捨て、発動される罠などほとんど無視して進んでいく。

 足場が砕ければ高く跳び、着地した先に罠があれば疾く駆け抜けて、迫り来る凶器の全てを紙一重ないし、髪一重で躱していく。

 肩で空を切り、白く濁る息を置き去りにして霧の中を疾駆する荊軻の体が、とある建物内部へと窓ガラスを割りながら自身によって投げ入れられた。

 眼前には、コーヒーを嗜むジャックの姿。

 血の色とも呼んでも遜色のない家具ばかりが並ぶ空間に、黒衣を纏った死神らしき男がコーヒーを飲む姿は、さながらもう既に何人か殺し終えた後の一服を思わせた。

「どうです? あなたも一杯」

「拙との戦いは、り甲斐がないか。舐められたものだ。あれしきの罠で仕留められるほど、拙は獣じゃありゃしんせん……!」

 飛び込もうとして、吹き飛ばされた。

 いや、違う。飛んだのは荊軻自身だった。ジャックが自らを囮として設置した罠の存在に、間一髪で気付いたが故の回避だった。

 が、回避さえ想定済み。

 後ろに飛び退いた荊軻が踏んだ糸に結ばれていた彫像が左右から倒れて、荊軻を巻き込まんとしてくる。荊軻は左右で順に襲い来る彫像を蹴って真上に跳びながら回ると、砕け散った破片を取って投げつけた。

 先に荊軻がかかりそうになった罠を起動する糸にかかり、ジャックの目の前に大量のナイフが突き刺さる。

「なるほど。愚直に飛び込んでいれば、ハリネズミは必然。拙にあの愛くるしさを求められても困りおす。いや何、助かりんした」

「それが、あなたの本性ですか。中国の暗殺者」

「さぁて。どうだったでありゃしょうか。何にせよ、安心しなんし。拙の姿を見られたからには生きて返さぬなどと、わらべのような脅しゃしやしんせん。人ぁ死ぬときゃ、ただ死ぬだけでありんす――」

 その口で囁く。

 その口で告げる。

 自らの異能を開放する開号かいごうを。皇帝ネロを四度殺し得た異能の発現を。

 再び新円を描く匕首から垂れた黒が、滴り落ちて床に波紋を広げる。

 直後、ジャックが寒気を感じて足元を見ると、暗闇に紛れて見えなくなっていたジャックの影だけがくり抜かれたように消え、光が差していた。

「何か? どうか、しんしたか?」

「何をしたのです……」

「さぁ。答えはご自身で確かめると宜しおす。ただ、あまり猶予はありゃせんよ? もうすぐ日の出……そのままだとあんさん。塵と消えますえ? だってあんさん、悪魔なんでありんしょ?」

 血色の荊軻の双眸が、ジャックの心の臓腑を貫いたが如く見抜く。

 このとき初めて、笑いもしないで淡々と死を宣告する荊軻に、ジャックは恐怖にも似た感情を抱いたと言う。

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