第42章 2015年 ~あなたは、へヴィメタルを愛していますか?-2

 酔いとまどろみの中に割り込んできた小さな塊を、なぜかこのときはすんなりと受け入れることができた。シャンプーの匂いなのか、そもそも彼女自身が発しているのか、甘く心地良い香りが鼻腔に届いてくる。そのまったりとした雰囲気に溶けこんで眠りに落ちてしまいたい、と単純にそう思い、目を閉じる。

 そんなおれの気持ちに反して「ねえ」と少しかすれたささやき声が、すぐ耳元から聞こえてきた。


「ねえ。起きてますよね」

 それでも目を閉じているおれの頬を、ふわりと漂ってきた空気と髪の先がくすぐり、思わず寝返りを打った。


「ねえってば。ハルキさん……あ、そうかそうか。なるほどね……」

 背中のほうで、もぞもぞと動きながらぶつぶつと呟いているのは、榛原胡桃だ。おそらくは前と同じ、ワンピース型のパジャマに身を包んでいるのだろう。ときおり背中に感じられる柔らかい感触と共に、布がこすれ合う音も耳に届いてくる。


「お姫様の眠りは、やっぱり王子様のキスがないと、覚めないのであった」

 なにをいっているのか。

 そっと細く目を開けてみると、案の上、胡桃の顔が目の前に迫っていた。おれは顔をそむけて、ぐるりと体を転がす。

「ああ、可哀そうなハルキ姫様。苦しいのね。――でも大丈夫。胡桃王子が助けに来たからには、ヘヴィメタルウォーリアーでもなんでもどんとこい、ってね」

 ヘヴィメタルウォーリアー、という言葉に、一瞬にして目が覚めたおれは、体を起こした。


「ヘヴィメタルウォーリアー」

「そう……それって、なんですか?」

薄明りのなかで、大きく胸元を開いた白いワンピースの胡桃が首をかしげている。

「それって、おれがいったんだっけ?」

 こくり、と首を縦に振る胡桃が、

「ついさっき。寝言かな。ヘヴィメタルウォーリアーになる覚悟はあるのかあ……って」

 妙に演技的なその調子がコミカルで、思わず笑みを浮かべてしまう。

「で、なに? それ?」

「わからないが」と、おれは即答し、続けた。

「ヘヴィメタル症候群であっちの世界にいってしまうと、二者択一問題が降ってくる、って知ってるよな?」

「あ、うん……そうですね……」

 歯切れ悪く、なにかを逡巡しながら答え、それでも胡桃は先を促してきた。

 起こしていた体をもう一度横たえると、もそもそと這い寄ってきた胡桃がその体をもたせかけてきて、頭をおれの腕の上に載せた。

 自然な流れで、その髪に手をやり、その小さな頭を抱いてやる。

「二者択一問題の、最終問題がそれだったんだ。ヘヴィメタルウォーリアーになる覚悟はあるか……って」

「それで、ハルキさんの答えは?」

「もちろん、イエス、と」

「そうですか……それで、どうなったんですか?」

「そうだな。それで、この体になったんだけど……」

「……男になることが、ヘヴィメタルウォリアーになることなんですか?」

「いや、そうじゃなくて実は――」

 いいかけて、やめた。

 性別が変わる、というだけでも荒唐無稽なのだ。これ以上非現実的な話をしても、仕方がない。


「それで……へヴィメタルウォーリアーになって、なにをどうするんですか?」

 おれがそうするまでもなく、胡桃の方から微妙に話題を変えてきた。

 どちらにしても、答えにくい質問ではあるが。

 少し沈黙していると、

「どうするんですか?」と催促の言葉が、耳元でささやかれた。

「わからない」おれは答える。

「けっきょく、おれはそれでヘヴィメタルバンドをやめたんだ。ただそれだけだ。本当は、ヘヴィメタルウォーリアーになって、世界を救う覚悟はあるか……と、そういわれたんだったかな」

 思い出すと、そうだったような気がする。

「世界を救う、とはまた凄いスケール感ですね……と、それはそうとして」

 胡桃の手のひらが、おれの胸の上を撫でるように動いている。

「それでどうしてメタルバンドをやめたのか、それがわかりません」

「それは――……」

「女でも男でも、メタルはメタルです。ヘヴィメタルは、永遠に不滅なんです……そうでしょ?」

「ああ……」

 なぜだろう。

 なぜおれは、ヘヴィメタルをやめたのだろう。


「ハルキさんは、きっといつかまた、ヘヴィメタルをやります。だって、ヘヴィメタルウォーリアーなんでしょ? それがメタルをやらないなんて、そんな馬鹿な。だって、メタルが好きなんでしょ? なんといっても、ヘヴィメタルはただの音楽じゃありません。ヘヴィメタルは、神の音楽なんです。それを簡単にやめられるはずはありません。きっとまた、ヘヴィメタルをやる時がきます」

 一息にいい切った胡桃の吐息が、耳たぶにかかる。

「そう……わたしも……」

 さらに、言葉をつづけてくる。

「スラッシュメタル四天王といえば……メタリカ、メガデス、スレイヤー、そして、もう一つは何か。一番、パンテラ、二番、アンスラックス……さあどちらか?」

「なにを……」

 答えは当然二番のアンスラックスだ。そんな常識問題は、答えるまでもない。

 ただ、その問いを発する目の前の少女の意図が、わからなかった。

「わたしに降ってきたのは、この二者択一問題です。覚えているのは、ですけど」

「ああ……あのときの――」

 胡桃もあの〈シャガールの残像〉のライブのときに、ヘヴィメタル症候群になりかけ、そしてすんでのところでこの世界に戻ってきたのだ。

「あの二者択一問題に答えていけば、わたしもなれますかね?」

「どういう意味だ?」

「だから、ヘヴィメタルウォーリアーに、なれるかな、と思って」

 おれは答えない。

 なれるか、なれないか、そんなこと、わからない。

 ヘヴィメタルウォーリアーなど、ただのおれの妄想なのかもしれない。じっさい、あれから、なにも起こっていないのだ。世界を救う、など、正常な社会人に聞かせられるような言葉ではない。

 さらに追及されるかと思っていたが、意外にも何も言ってこない。おれも黙ったまま、目を閉じる。

 しばらくすると、腕の中から小さな寝息が聞こえてきた。

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