一等星と狂犬と聖女

第26話生まれ変わった燐火

 淵上高校の乙女たちにとっては死活問題だ。なにせ、俺たちは『魔の者共』と戦うために長時間屋外で戦わなければならない。お肌のシミなど、年頃の乙女にとって許せるものではないのだ。


 暑さのせいか、放課後になっても生徒たちはなかなか教室から出ようとしなかった。冷房の効いた教室から暑い廊下に出るのは、それだけで気が重いのだろう。

 一年生の教室でもそれは同様らしく、放課後の教室には多くの生徒が残っていた。


「ゆうかー、あついよー」

「か、果林ちゃん……暑いなら離れてよ……余計暑いよ……」


 優香ちゃんの幼馴染、小野寺果林が、優香ちゃんにじゃれついていた。頭部をぐりぐりと優香ちゃんの胸に押し付けている。まるで犬みたいだ。

 あつい、と口にしながらも、優香ちゃんもまんざらでもない様子だ。


 その様子を眺めながら、俺は特に躊躇いなしに一年生の教室に侵入した。一部の生徒が俺に気づいて驚いたような顔を見せるが、無視する。

 俺は目の前の幼馴染をどうしたらいいか分からずまごついている優香ちゃんに後ろから近付いた。


「優香ちゃん、私も暑い」


 ひし、と優香ちゃんの後ろから抱きつく。彼女の制汗剤の匂いが鼻をくすぐった。


「ええー、もっと暑いよー……って燐火先輩!?」


 びくん、と体を震わせた優香ちゃんが振り返る。


「うん、優香ちゃんのおねーさまだよ」


 彼女の背中に頭をぐりぐりと押し付けながら、俺は答える。いい匂いだ。


「ちょっと、先輩そんなキャラじゃなかったじゃないですか! 離れてください! 皆に凄い目で見られてますって!」

「優香ちゃん、私がいるのに他の女に目を向けるなんて、悪い子だね」


 咎めるように、ぐりぐりと頭を押し付ける。


「天塚先輩が陥落してる!? 優香、いったい何をしたの!」


 小野寺果林が凄い表情で優香ちゃんを問い詰めている。まるで浮気してきた夫を問い詰める妻のようだ。


「べ、別に何もしてないよ。ただいっぱいお話して、お互いのことを深く知ったっていうか」

「優香ちゃんは私の全てを受け入れてくれた。私たちは本当の義姉妹になった」

「ええ!? ……それってまさか……まさか!」


 愕然とした表情で、小野寺果林は固まってしまった。まるで、大切なものを気づかないうちに誰かに奪われてしまったような顔だ。


「小野寺さんの想像通り、私たちはお互いに全てを詳らかにした。夜通り語り合って以来、知らないことはない」

「わあ、わあああああああああ!」

「むぐ……」


 優香ちゃんの柔らかい手のひらが俺の口を塞いだ。


「どうして燐火先輩は毎回誤解されるような言葉を選ぶんですか! 普通に話をしただけです!」


 口を塞ぐ優香ちゃんの手をそっとどかして、俺は言葉を紡ぐ。


「でも、優香ちゃんは私の全てを受け入れてくれた。ありのままの、裸の私を」

「だからっ! 言葉選びに悪意があるんですって!」

「はだかの……はだかのわたし……ゆうかもはだか……」


 小野寺さんが焦点の合わない瞳でブツブツ呟いている。KO寸前といったところか。


「もう! ふざけすぎです! 私だって怒ることくらいあるんですからね!」


 優香ちゃんが怒る……怒る……蔑み……お仕置き……うおおおお! なんだそれ、見たいぞ! 


「へえ、じゃあ優香ちゃんはどうするの?」


 興奮のままに、俺は優香ちゃんの顎を掴み、ぐいと顔を近づけた。

 みるみるうちに優香ちゃんの顔が真っ赤に染まる。熟れたトマトみたいな顔色は、初々しさを感じさせる。


「それは……その……口をきいてあげません」

「……」


 ……ちがうっ! そういうのじゃない! もっとあるじゃん! 

 蔑みの目で見るとか、罵倒するとか、ビンタするとか、腹パンするとか、鞭打ちするとか、首絞めるとか、色々あるじゃん! 


「まあ、分かったよ。冗談だよ冗談。小野寺さんも安心して」


 落胆を隠して、俺は呼びかけた。優香ちゃんの本気で怒ったところ、一回くらい見てみたかったんだけどな。絶対普段とのギャップで凄く良い感じになると思うんだよな。


 俺の言葉でようやく揶揄われたことに気づいた小野寺さんは、安堵のため息を吐いた。


「なんだ……はあ、天塚先輩も冗談とか言うんですね」

「燐火先輩の冗談は分かりづらいからね……」


 あはは、と笑う優香ちゃん。


「そう、私の冗談は分かりづらい。……優香ちゃん、大好きだよ」


 声音を変えて、優香ちゃんに想いを伝える。表情は真剣に、目は真っ直ぐに彼女を捉えたまま。


「その、それも冗談なんですよね?」


 優香ちゃんが赤面しながらも、確認してくる。

 俺は、できるだけ優雅に微笑みながら、答えを返した。


「もちろん、本気だよ?」


 君のために死にたいと思う程度には、俺は本気だ。

 優香ちゃんが黙って顔を逸らす。


 あ、小野寺さんの表情が死んだ。目がグルグルしているし、口はぱっくり開いたままだ。

 まるで意中の人が目の前で取られた瞬間みたいな顔をしている。最高だ。ご飯三杯はいけるね。


 一年生の教室を出て、優香ちゃんと二人で廊下を歩く。今日は二人で一緒に鍛錬をする日だ。現在、俺と優香ちゃんは週に4日程度は一緒に鍛錬に励んでいた。


「それじゃ優香ちゃん、今日も暑いけど頑張ろうか」

「はい。……その、燐火先輩はあんなセリフ言っても冷静な顔ですね」


 そう言う優香ちゃんは、少しだけ顔が赤い。さっきの俺の告白でも思い出したのだろうか。


「優香ちゃんには私のもっとも醜いところを教えた。今更恥ずかしいことなんてない」


 あれ以上に隠すべきことなど、他にないだろう。


「醜い……先日のお話のことですよね。その、よく分からなかったのですが、先輩の『痛いのが好き』ってどういうことなんですか?」


 純粋な瞳で、優香ちゃんが問いかけてくる。

 ……なんだろう。優香ちゃんみたいに優しい子に説明するのは凄く気が引けるな。こう、白地の布に墨汁を垂らすような背徳感がある。


 そうだ、分かりやすい説明方法があった。


「こういうのが好きってこと」


 俺は小太刀を抜き出すと、己の左腕に勢い良く刺した。刃は深々と突き刺さり、二の腕のあたりから、鮮血が噴き出す。


「なっ……なにやってるんですか!?」


 痛み。それと同時に、快楽物質が俺の脳内を支配した。


「これで私は幸せ。こういうのがマゾヒスト」

「いやっ、限度があります! 普通の人はこんなことしません!」

「私は自分に価値がないと思っている。傷ついて当然」

「ッ……『癒しの光よ、彼の者に安寧を──キュア』」


 何か言いかけた優香ちゃんは、しかし先に治癒魔法を使った。

 それを見た俺は、言いようのない幸福感に包まれた。ああ、俺は痛みを感じられて、優香ちゃんは俺を心配してくれている。最高じゃないか。


「ごめんね優香ちゃん。無駄に力を使わせて」

「そんなことどうでもいいです! 燐火先輩は私に謝る前に自分を大切にしてください!」

「でも優香ちゃん、私は醜いから、今優香ちゃんに心配されていることを喜んでいる。価値のない己が認められている気がして、安心している」

「そんなこと……そんなこと、当たり前です」


 ああ、優香ちゃんはまだ俺のことを良く分かっていないみたいだな。でも、詳しく説明するのも難しい。


「だから、優香ちゃんが心を痛める必要なんてないよ」


 とりあえず、伝えるべきことを伝える。


「燐火先輩」


 優香ちゃんの声は、ひどく冷たかった。その顔には、どこか怒りのようなものが見える。

 ああ、ようやく理解して、俺のことを軽蔑したかな。諦観と共に、そんな風に推測する。


 しかし、優香ちゃんの行動は俺の予想を大きく外れた。


「まだ分かっていないみたいなのでハッキリ言いますが、私はあなたが大好きです」

「えっ!?」


 不意に伝えられた言葉。真剣な表情には、冗談の気配なんて少しもない。

 おかしい。頬が暑い。胸がドキドキする。痛みを感じた時とはまた違う、温かみを伴う鼓動だった。


「クールでかっこいいところ。ちょっと不器用なところ。冷たく見えるけど、気配りを欠かさないところ。意外とお茶目で冗談が好きなところ。全部好きです」

「ゆ、優香ちゃん! 急にどうしたの!?」


 声が上擦る。優香ちゃんを直視できない。


「先輩は自分のことを嫌いかもしれませんが、私は先輩のことが大好きです。だから、先輩が傷ついたら嫌ですし、心配します。先輩が痛いのが好きとか、関係ないです」


 優香ちゃんの様子は、常の少し自信なさげな態度とは大きく異なっていた。己の言葉を少しも恥じることなく、ただ真っ直ぐに俺の目を見据えている。


「それでも先輩は、まだ痛いのがいいって言いますか?」


 問いかける彼女は、けれど俺の答えを悟っているようだった。


「……ごめん」


 今更やめられない。変われない。それが俺の答えだった。


「そうですか……なら」


 優香ちゃんの瞳に妖しい光が灯る。


「──私が、先輩を痛くしてあげます」


 優香ちゃんの細い腕が、静かに俺の首に触れた。首を包み込むように添えられた手は、ひんやりと冷たい。

 優香ちゃんの目が爛々と輝く。その目は、真っ直ぐに俺を見つめていた。



 ──ヤバい。何もできない。おかしくなってしまいそうだ。

 夏美に絞め殺されかけた時にも、こんなに興奮しなかった。

 吐く息が荒い。頭が沸騰しそうだ。薄っすらと涙が出てくる。心臓がバクバクと五月蠅い。


「──私を、殺してくれるの?」


 優香ちゃんのために死にたい。その願いがこんな形で叶うのなら、これほど嬉しいことはない。


 けれど、優香ちゃんは俺の言葉に大きく目を開いた。すると、それまで彼女が纏っていた冷たい雰囲気は消え去った。

 優香ちゃんは、静かに腕を下ろした。


「やっぱり先輩は……いえ、すいません。悪ふざけが過ぎました」


 優香ちゃんは肩を落としているようだった。


「先にランニングの準備してます。変なこと言ってすいませんでした」


 黙って去っていく優香ちゃん。彼女を見送った俺は、その場で先ほどの出来事を思い返していた。


 優香ちゃんのドS姿、たまんねえええええ! 


 まさか彼女があんな素質を持っていたとは。正直涎が垂れていないか心配だった。

 何よりも良かったのは、あの目だ。こちらを冷たく見据える瞳。たとえ俺をあの場で殺そうとも、なんとも思わないだろう、というほどの冷徹さが窺えた。

 それに、体全体で纏っていた空気が、独特の威圧感を醸し出していた。それは、逆らう気力すらなくしてしまうほどの圧力だった。


 すごかったなあ。彼女の手の感覚を振り返るように、己の首に手を当てる。


「おっと、まだ昼間だ。後で部屋でたっぷり振り返ろう」


 とりあえず、優香ちゃんとの鍛錬に集中しよう。俺は何度か深呼吸して興奮を少し抑えると、スキップしてしまいそうな気分で優香ちゃんの後を追った。

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