第5話 名取柚李は約束をしているのである。

 人間の瞳が映しているものと、動物の瞳が映しているものは異なる。


 たとえば、犬の場合は、周囲のものを青と黄色のみで見ている。

 同様に、猫は青と緑の二つの色が見えているといわれている。


 だから、そんな彼らが、ルカが、急に鮮やかな世界を人間の瞳を通して見ることができるようになると、脳に負担がかかって当然なのだ。


 柚李はさすがに三日以上眠り続けたら麻路に連絡しようかと思っていたのだが、ルカが眠って三日目、姉つながりの友人・せとかからお茶の誘いがきた。


 だから、とりあえずそちらに向かい、心配だったがルカのことはまた後で考えようと後回しにした。心配だったが。


「でさ、ぼくは普通に普通の接し方してたんだよ。なのに先週突然別れを告げられて……」


 柚李は少年の話を右から左へ受け流しながら、コップに水滴のついた水を一口飲む。


「一体ぼくが何したっていうんだよ!」


 コップをもとの位置に戻すと、その右手が水滴で濡れた。

 ファミレスにいる柚李は、目の前に座る童顔の二十八歳男性の失恋話を聞いていた。


「ただ、大事にしようと思って、毎日電話して、毎日メッセージ送って、朝は家まで迎えに行って、彼女の職場に送り、定時になったら職場まで彼女を迎えに行って、家まで送って…………。ぼくめっちゃ尽くしてると思うんだけどな」

「それが良くなかったんじゃないですか」

「これのどこが良くないんだよ意味わかんない」


 柚李には、改善点がいくつも挙げられたが、彼——せとかは自身の行動を振り返ってもなお、いまだそれに気がついていないようだった。


「つまりね、ぼくが悪かったんじゃなくて、彼女の方がなんか問題を抱えていたんじゃないかと推測する。ね、そんな感じしない?」

「ごめんなさい。馬鹿ですか?」

「失礼な」

「だから先に謝りました」

「……ぼくのどこが馬鹿なんだよ?」

「尽くすったって、限度があるんですよ。せとかさんのは限度超えすぎですよ」

「だって好きだったから……」


 彼はそう言って頬を赤らめた。


「会えないときこそ愛を育むっていうじゃないですか。適当に放っておくのも大事だと思います」


 せとかは軽くため息をつく。しかしそれは、柚李に対してではなかった。


「ぼくっていつもダメだよねぇ。すぐフラれちゃってさ。もう何回目って」

「学習しないからじゃないですか?」

「やっぱりゆずくんとは反りが合わないなぁ」

「同感です」


 本当のことをいえば、彼の話は柚李にとってどうでもいいことだった。彼はこんなにくだらない話をするために柚李を呼んだわけではない。


 こんなふうに、本題がなかなか始まらない人は一定数いる。だから、こういう人には……。


「失恋の話がひと段落ついたようなので、僕は帰ります。家で待っているのがいるので」

「え、彼女? 彼氏? 妻? 夫?」

「ペット」

「韻踏んだ?」

「帰ります」すくっと柚李は立ち上がる。

「待って待って待って待って」


 せとかは柚李の両肩を押さえつけて無理やり柚李を座らせた。


「失恋したっていうのは伏線だよ、柚ちゃん。話はここからだよ」

「伏線?」


 そう問い返すと、せとかはテーブルの上に伏せていたスマホを手に取って、操作したのち画面を柚李に見せた。


「そう、フラれて哀しいぼくの前に現れた、かわいい子犬たちよ……」


 画面には、生まれて数ヶ月も経っていない六匹の豆柴の子犬が、一列に並んで眠っている写真が映し出されていた。


 柚李は反射的に身を乗り出して画面を注視する。


「なにこれめっちゃかわいい……え、天使なの? 今すぐ撫でたい抱きしめたい隣で眠りたい……」


 せとかは柚李の反応に苦笑すると、ジャジャーン、と通販番組のセルフ効果音を出し、満面の笑みで言った。


「こちらの豆柴たち、ただでプレゼント〜」

「いや、お金払わせてください。これがタダなんて考えられない。豆柴の価値は有料だ」


 せとかは、え〜? と言いながら他の写真も柚李に見せていく。ぬいぐるみのようなつぶらな瞳がカメラを捉えている。


「せとかさん犬飼ってましたっけ?」

「飼ってないよ、こないだ拾った」

「拾った? 六匹?」

「だって公園の芝生のど真ん中に怪しげな段ボールあったら中気になるじゃん」


 せとかはスマホを一旦テーブルの上に置いた。


「随分大胆な動物投棄ですね」柚李は本気で捨てた犯人に苛立ちを覚えていた。

「投げてはないけどね? まあ、可愛いから全員連れてきちゃったけどやっぱり六匹はキツくてさあ、いま色んな人に声かけて引き取ってもらってんの。できるだけ生活に余裕がある人で、お金持ってる人にね」

「欲しいですけど僕お金持ってないですよ」

「それは大丈夫、沙優は持ってるから。君になら百億出す」

「百億は絶対持ってないですよ」

「彼女なら欲しいって言ったら借金してでも出すよ。大事な弟だもんね?」


 悪戯っぽい笑みをこちらに向けてくる。


「じゃあ沙優さんにも持ちかければ……」

「沙優んち、ペット不可じゃん」

「そうだった……」

「だからね柚くん、一匹引き取ってよ」

「欲しいのは山々なんですけど、でも僕、一匹いるんですよ……」


 せとかはにっこりピースを添えて言う。

「大丈夫! 一匹も二匹も変わらないから〜!」

「そうですかねぇ」


 ふと、家を出る前、ソファの上でぐっすり眠っていた白猫が頭に浮かぶ。


 ——いつになったら目が覚めるのか……。


「にしてもきみのような人間が猫を飼うなんて珍しいこともあるんだねぇ。てっきりぼくは犬にしか目がない野郎だと思ってたのにさ。それに、沙優に友達を紹介したんだって? 沙優のほうが自慢げだったよ」

「沙優さんと毎日連絡取ってたりするんですかあなたは」

「もちろん、少なくとも二日に一回はね」

「付き合いたてのカップル並みじゃないですか」

言わないでよ」

 豆柴、どうする?


 と、いつもの調子でせとかは訊いた。

 柚李は正直に言えば欲しかった。だが、家にいるのは自分だけではない。せっかく言葉の通じる同居猫がいるのだ、相談してからでも良いだろう。


 そう思って、柚李は写真だけを送信してもらい、しばらく眺めた。

 沈黙。とくに目立った会話もなく、静かに時間が過ぎていった。


 注文していないのに長居するのも申し訳ない。

 無料の水を飲み終えて、席を立った。


「豆柴、ちょっと考えてあとで連絡しますね」


 柚李は会釈してその場を立ち去ろうと一歩踏み出したときだった。


「ねえ、柚くん」

 せとかの悲しげな声が頭に響いた。

 柚李は振り返る。


「まだ沙優のこと、沙優さんって呼んでるの?」

「本人の前ではちゃんと姉ちゃんって呼んでますよ」

「そりゃよかった。沙優はけっこう気に入ってるんだよ、きみのこと」

「それは、わかってますよ」

「もう五年ねぇ……早いねぇ……びっくりしたよねぇ沙優が突然二十歳の弟拾ってきたって言うんだもの。それも瀕死だよびっくりだよ」

「せとかさん僕と会うといつもその話しますよね」

「嬉しいんだよぼくは。柚くんが生きててさ、沙優が幸せそうで」


 せとかは俯いた。彼の表情が一気に曇った。柚李には彼の小さい背がもっと小さく見えて、まさか泣いているのかと思った。


「さっきの失恋話、また彼女死んじゃったんだよねぇ……」


 せとかはひとつ、柚李と約束していることがある。


 せとかの恋愛には、ある規則性がある。せとかは容姿も完璧で、性格がどうあれ、こっぴどくフラれることはない。せとか自身も、話し合いでなんとか解決しようとする。実際、前回の彼女が一度話し合いが成立して1週間ほど、彼女と連絡を取り合わなかった時期があった。


 ただ、せとかと付き合った女性は早かれ遅かれ自殺する。

 それを知っているのは柚李だけだった。


 せとかはひとつ、柚李と約束していることがある。




 それは、せとかが沙優を好きにならないこと。



「今回の女性は、けっこう頑張ったと思いますよ」


 柚李はせとかを真っ直ぐに見て言った。


「だってせとかさん、彼女のこと守ろうとしたんでしょ。自殺させないために、ずっと一緒にいたんじゃないの」

「それはそうだけど……」

 死んじゃったし、とせとかはばつの悪そうな顔で視線を落とす。


「彼女といた時間が楽しければいいじゃないですか。楽しければ、失敗じゃないです。逆に、せとかさんから見て、彼女は辛そうでしたか?」

「いや…………よく笑って抱きしめてくれた」


 うつむいたせとかの目尻にはかすかに涙が溜まっているように見えた。


 柚李は何も言わずに立ち去った。

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