第42話

      四十二


      夫


 今日は沙月の誕生日だ。私は数ヶ月前から特注のネックレスを用意していた。受け取りのため、仕事を定時で切り上げて店に立ち寄る。

 沙月は物欲がそれほどない。前回の誕生日は再会した直後だった。その時は何も考えずにそこそこ有名な新進のブランドで、流行りのバッグを買ったが、今回は大いに悩んだ。

 これだけ一緒に暮らしていて、普段の会話の中から沙月が欲しがっているものを割り出そうとしたがなかなかうまくいかなかった。

 一度、随分前に何か欲しいものがないかと彼女にそれとなく探りを入れてみたことがある。その時、沙月は少し考えてこう言った。「普通に暮らしていけてるだけで十分かな」

 私は何と言えば良いのか分からなかった。まだまだ彼女のことを理解できていないのだろう。何をあげれば沙月は喜んでくれるのか、それすらも分からない、情けない話だ。

 だからといってアクセサリーを贈るのは短絡的だと言われるかもしれないが、これからたくさんの贈り物をしていって、彼女のリアクションを見ていくしかないだろう。



      妻


 弾き出されるようにビルを出た沙月は、軽くよろつきながら見慣れぬオフィス街を歩いていた。今のところ追手はまだ見えない。しばらくは放心状態だったが、少しして、ぞわっとあの時の感触を思い出した。どうしよう、人を殺してしまった。ついに来るところまで来てしまった。

 確かに、今まで真っ当には生きてこなかった。今までの人生でなしてきたことの大部分が、人には話せないようなことばかりだ。ただ今までは、いくら何でも人を直接傷つけたことはなかった。

 それなのに、初めて犯した重犯罪がいきなり殺人だ。不道徳に生きてきた報いを受けたのだろう。世の中の大部分の人が、貧困や犯罪と無縁で生きているはずなのだから。

 沙月はいつにも増して深い孤独感に襲われていた。これから、誰も助けてはくれない。助けを求めるわけにはいかない。奴らは死に物狂いで沙月を探すだろう。逃げなければならない。

 どうやって? まず一番にどうしても勝廣の顔が思い浮かぶ。駄目だ。一番知られたくないのが勝廣なのに。

 かといって、普通に勤めている夫に、何の事情も話さずに一緒にどこか遠いところに引っ越そうなどと言ったらそれこそ笑い話だ。警察に行っても同じこと。あなたのお名前は? ご家族は? こんな優しい口調じゃないだろう。

 一人で電車に飛び乗ってどこか行けるところまで行ってみようか? 呉谷のように失踪して、逃亡生活に入るのだ。どうせ今までの人生も、その大半が人から逃げるように孤独に暮らしてきた。

 そんなことを考えていても、やはり勝廣の存在がずっと沙月の頭の片隅から消えなかった。その面影がどんどん大きくなる。

 とぼとぼと歩いていると、ちょうど正面に地下鉄の駅へ続く階段が見えた。駅名も聞いた事もなく、どこに通じているのかも分からない。沙月の歩みが少し遅くなった。一度はその入口を通り過ぎる。数メートル程歩いた後、沙月は意を決したように振り返った。

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