第41話

      四十一


      夫


 呉谷のことについて、沙月に訊ねる勇気は私にはなかった。だから私は駄目なのだ、それは分かっていた。本音で話せない夫婦は夫婦と言えるのか。

 モヤモヤは常に残っている。しかし、私の休暇が明けてからは溜まっていた仕事に忙殺され、そのことをあまり考えずに済むようになっていた。

 最初は持っていた、逃げてはいけないという気持ちも、帰宅後に沙月と過ごす普通の生活を積み重ねていく中で段々と消えていく。あえて消していったという表現が正しいかもしれない。

 最後に呉谷に会ってから三週間ほど経って、久しぶりに加藤と会うことになった。普通に飲みの席への誘いだったが、話題はほとんど一つに絞られた。まだ呉谷は見つかっておらず、愛香はもう彼の生存を諦めているのだという。

 強い罪悪感が私を襲ったが、結局、私が呉谷と何度か会ったことは遂に言えなかった。そもそもまだ無事でいるのかもわからないし、本当に危険な組織に狙われているのであれば、軽々しく呉谷の生存を口に出して良いのかという思いもあった。

 だが、呉谷のことを一旦忘れてしまえば、沙月との関係は最近非常に良好になってきた気がする。お互い、自然に笑い合っている時が増えた。本当の夫婦生活とは、こういうものかもしれない。

 だが、私の見ていないとき、ふとした瞬間に沙月の表情にいつもより深い憂いが表れているときがある。だが、顔を合わせている時は本当に屈託なく笑っているので、きっと気のせいだろう。

 もし、沙月が過去の出来事で悩んでおり、今の生活の中で少しでもそれを紛らわすことができているなら本望だ。いつの日か、沙月の憂いを全て吹き飛ばせるような私でありたい。



      妻


 また一週間程経ち、再びあの二人からの〝呼び出し〟があったときだった。それまでは、犯されているときも、ほとんど暴力は振るわれなかった。沙月自身、特に抗いもせず身を預けていたからだろう。

 ただ、その日は違った。沙月にそのつもりはなかったが、無意識のうちに抗っていたかもしれない。身体を強く叩かれ、つねられ、噛まれた。いつも戯れ程度にそういったことがないではなかったが、めずらしく嫌がる沙月に興奮しているようだった。

 危機感が徐々に強くなっていった。ただでさえ孤立無援、このままエスカレートしてしまえば無事に帰れなくなるかもしれない。

 大柄な方の男と正対で向き合っている時だった。最中に、男が上から首を絞めてきた。贅肉がたくさんついた重たい両手が、沙月の喉を押さえつけるように掴む。

不意だったので肺には元々ほとんど酸素が残っていなかった。一気に苦しくなり、目を開けているはずなのに視界が真っ黒になる。

 一分ほど経って、男はげらげら笑いながら手を放した。ぎりぎり意識を失わなかった沙月は、解放された瞬間激しく咳き込んだ。虫の息の沙月を見て、男の笑い声がさらに大きくなる。働かない頭で、これはまずい、沙月はそれだけを強く思った。

 沙月はまだ馬乗りにされたままだった。また男の手が沙月の首の方に伸びてくる。まただ、と直感的に感じた沙月は、主張しない程度のネイルが入った少し長い爪を、無意識の内に、男の腕に突き立てていた。

「痛ぇっ!」

 男が両腕を抱え込むようにおさえて、一瞬だが、数センチ飛び上がる。下半身が自由になった沙月はその隙をついて、右膝を男の睾丸に勢いよく叩き込んだ。

 股をおさえて男が横に転がった。男が自分の上からどいた沙月は、這って自分の服を取りに行った。もう一人の男はさっきから部屋にいなかった。この隙に、逃げなければならない。

 沙月は急いで最低限のものを身に付け、部屋の扉を少しだけ開けて外を伺った。この日の呼び出しは、以前、東城もいたオフィスビルのようだった。ただ、今日は人の気配がない。

 部屋の中を振り返る。まだ男は呻き声をあげてうずくまっていた。沙月は急いで部屋の外に出た。普段、廊下でも目隠しをされていることが多いため、どっちに行けば良いのか見当もつかない。

 沙月はとっさに右の方に走り出したが、その勘はものの見事に外れてしまった。行った先にエレベーターがなく、行き止まりになっている。

 沙月は焦って、それまで走ってきた道を振り返った。まだ誰も追いかけてきていないが、この道を戻りたくはなかった。少し冷静になって見てみると、もう少し先に、また右に曲がる廊下があった。無心でその角を曲がる。

 もう少し先で再び曲がり角があったので、そこを回り込むと、数メートル先にエレベーターが見えた。

 良かった…… 安堵のあまり少しスピードが落ちた。その右腕をガシっと大きな手が掴む。沙月が慌てて振り返ると、さっきまで苦悶の表情を浮かべていた男の顔がすぐ近くにあった。油断した沙月は、エレベーターの手前にあった通路を見逃していたのだ。

 思わず悲鳴をあげそうになった沙月は、すぐに自由な方の手で自分の口をおさえた。ここは敵の本拠地だ、悲鳴を上げると敵を増やしてしまう。

 男の手を振りほどこうと、何度も腕を振り回し、唯一手に持っていた小さなハンドバッグで何度も殴りつけたが、男の握力はさらに強くなっていく。痛い。潰されそうだ。

 男が自分の方へ沙月を引き寄せる。沙月はバッグを捨て、必死に男の顔を叩いた。すると、その指の内の一本が丁度男の右目に食い込み、男が悲鳴を上げた。その手が少し緩む。

 そのタイミングで履いていたハイヒールで男の足を踏んでやると、それほど高いヒールではなかったが十分痛かったらしく、男は完全に手を放した。

 男から丁度目を背けた先に非常口の扉があったので、沙月は咄嗟にそこに入り込んだ。扉を開けてすぐに「三十階」の表示が見えた沙月は一瞬たじろいたが、すぐに意を決したように階段を駆け下りた。

 十階分ほど降りた時に、後ろから荒い息遣いが聞こえ始めた。恐る恐る見上げると、もうさっきの男が沙月から見える位置まで降りてきている。焦った沙月はさらに足を速めたが、二分後には完全に追いつかれてしまった。踊り場のところでちょうど再び腕を掴まれそうになる。

 その瞬間だった。右足首の鋭い痛みと共に、沙月の体勢が大きく崩れた。ハイヒールを履いていたせいで足をひねったのだ。しかし男の方も、体重をかけて腕を伸ばした先に沙月の身体が急になくなったため、一瞬その身体をよろめかせた。

 沙月はその瞬間を逃さなかった。咄嗟の行動だった。足の痛みも忘れ、恐怖や怒りなどの感情が湧く前に、脅威を排除するために身体が動いていた。全身全霊の力をかけて男を突き飛ばしたのだ。

「うおっ!」という軽い叫びと共に、男が狭い階段を転げ落ちていった。最後に グシャ という聞いたことのないような音を立ててその身体が止まる。動かなくなった。

 沙月もその場でへたり込んで、しばらく動けなかった。足の痛みがぶり返した上に、今何が起こったのか、自分が何をしたのか、自分でも理解ができなかった。しばらくは男がまた階段を上ってくるものと思っていた。しかし、その兆しはない。

 数分後、沙月は恐る恐る階段の下を覗き込んだ。男が変な体勢で倒れている。よく見ると、身体と頭の位置がおかしい。首が変な方向に曲がっている。

 沙月はゆっくりと立ち上がった。少しでも右足に体重をかけると、またとてつもない痛みが走る。手すりにもたれかかりながら、沙月はそろそろと階段を下りた。

 倒れてる男に近付いてみても、どう見ても呼吸をしている感じがしない。嫌々ながらその首筋に手を当ててみる。脈はなかった。

 沙月は青ざめた顔で、さらに階段を下りていった。



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