第37話

      三十七


      夫


 三日後、再び呉谷から連絡があった。また違う知らない番号だったが、指定してきた待ち合わせ場所は同じだった。

 沙月に何て言い訳しようか。前回は偶然沙月がいなかった。私は普段の日常を思い返す。私は普段、どんな理由で外出しているのだろうか。何と言えば自然なのだろうか。

「ちょっと会社に行ってくる。俺じゃないと処理できない問題が起きたみたいなんだ」

結局そう言ったが、声が震えているのがバレないか心配になる。

「行ってらっしゃい」

いつもと同じように、ネクタイを締めるのを手伝ってくれる。疑われてはいなさそうだ。

 運転席に座り、エンジンをかける。待ち合わせの時刻まであと一時間だった。前と同じ道を通り同じ店へ。今回も呉谷は先に来ていた。

「今度は何なんだ?」

 呉谷と会うのも、本当はもう嫌なのだ。

「うん。ちょっと協力してほしいことがあってな」

「お前には協力しないと前に言っただろう。黙っているだけでも俺には苦しいんだ」

「そうか、やっぱり黙ってくれたか。さすが、良いやつだな」

 やはり、私は彼の掌の上で転がされていたのだ。

「そんな難しいことじゃないんだ」

 呉谷は私が眉をひそめるのにも構わず話を進める。

「ちょっと車で運んでほしいところがあるんだ。俺は今、なかなか自由に動けないから」

 思っていたよりハードルが高い頼み事だ。

「嫌だよ。何で俺がそんなこと……」

「頼む! お前しか頼れるやつがいないんだ」

 そうストレートに頼まれると、困ってしまう。

「もう無理だよ、呉谷。協力はするから一回皆に会おう、愛香とも話し合ったらいいじゃないか。俺とか加藤も立ち会うから」

「それはダメなんだよ! 何回言ったら分かるんだ!」

ダンッとテーブルに両手をつき、勢いよく呉谷が立ち上がった。声のボリュームが急に大きくなる。それまでの態度とは打って変わって、苛立ちを隠そうともしない。だが、すぐ我に返ったように「すまん」と座りなおした。

「どうしたんだ、呉谷。愛香一人が問題なら話し合えば済む話だろう。他に何か姿を隠さなきゃいけない理由でもあるのか?」

「い、いや… そういうわけじゃないんだ」

そう言う割には、目に見えた焦りがそこにあった。

「なあ、何があるんだ。話してくれ、呉谷。愛香の話では、お前が暴力団と揉めてるっていう話だったから、俺たちは焦ったんだぜ」

「何でもないんだ。本当に何でもない……」

 その時だった。それまでは挙動不審にきょろきょろと辺りを見回していた呉谷が急に立ち上がり、私の陰に、窓から姿が見えないように身を隠したのだ。

「どうしたんだ!」

 私が身を乗り出すように呉谷の方を振り向くと、

「そのままでいてくれ! 自然に座っててくれ」と焦った声で呉谷がそう言った。

 私が目線だけで窓の外をそっと伺っても、何も不自然な様子は無い。

「どうしたんだよ。」

 今度は小声で訊いてみる。

「いや、ちょっと会いたくない知り合いがいるのが見えたんだ」姿勢をキープしたまま、呉谷も小声でそう言う。

「お前がトラブってる相手か?」

「そういうわけじゃないんだけどな」

だが、その声は震えていた。

 数分後、呉谷は注意深くだが、私の向かいの椅子に座りなおした。

「なあ、頼みがあるんだ」

また唐突に呉谷がそう言う。

「今度は何だよ」

「俺を送ってくれないか?」

 また断ろうと思った。しかしさっきから呉谷の様子が少し変わっていた。何か事情があるのだ。呉谷の切迫した態度に圧されて、私はその頼みを了承するしかなくなってしまった。



      妻


 仕事に行った勝廣を見送った後、一通りの後片付けを終えた沙月は、ソファで一息ついていた。

 勝廣がいなくて寂しかった。今までは、勝廣を仕事に送り出すことは自然なことだった。家事をしながら勝廣の帰りを待つことも自然なことだった。ただ今日は無性に寂しかったのだ。

 相変わらず監視生活は続いていた。この生活が始まってから、かなりの時間が経っていた。なぜこれほど沙月を監視し続ける必要があるのか。もう、あの二人も沙月達の声を真剣には聞いていないように思える。

 呉谷にまつわるトラブルに巻き込まれてから、沙月はずっと気が張り詰めていた。心が休まる暇がない。おかしくなりそうだった。

 寝よう。もう何も考えたくない。寝ている間は何にも気を遣わなくていい。何も考えなくていい。ベッドがある自室に戻るために階段を上がろうとすると、玄関にある郵便受けが、かすかな物音を立てた。嫌な予感がする。

 無視しようと思った。何度も階段を上がりかけたが、その足は最終的に扉の方に向かっていた。前にも入っていたことのあるような小さな紙切れ、そこには「こい」の二文字だけ。

 今までは麻痺していた感情が湧き上がってきた。私は何なのだ、奴隷なのか。しかし沙月の表情は変わらなかった。感情が表情と直結しなくなったのはいつからだろう。今回の騒動から? いや、もっと昔からなのだろう。

 表情が変わらないと、感情も勝手に冷めていく。沙月は数分後には外出の準備を始めていた。

 いつも通りの駐車場に、いつも通りのミニバンがあった。呼び出されるとき以外はもうこの道を通ることもない。いつも通り後部座席の扉が開く。

「よう、旦那が出かけたらしいな。寂しいかと思って呼んでやったよ」

 もう返事をするのも億劫だった。

「おいおい、えらく元気がないな。やる前からそんな調子じゃ困る」

 そう言って後部座席にいた大柄な方の男が手を伸ばして沙月を中に引っ張り込み、自分の唇を沙月の顔に押し付けた。



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