第36話

      三十六


      夫


 もやもやした気持ちのまま家に帰ると、玄関に、今朝出ていったはずの沙月の靴があった。こんなに早く帰ってこれるものなのだろうか。

 リビングやキッチンにいなかったので、自室にいるようだ。部屋の前まで行っても物音がせず、ノックをしても返事がない。勝手に扉を開けて良いのか少しの間逡巡したが、やはり心配の感情が勝った。

 扉を開けると、沙月は今朝出ていった服装のまま眠っていた。掛け布団は半分くらいしかかかっておらず、シーツもぐしゃぐしゃだ。ひどい汗をかいている。

 タオルを取ってきて額や首筋を軽く拭いてやると、少し楽そうになった。片膝をついた状態でその顔をしばらく眺めていると、やはり沙月のことを愛おしく思う感情がどんどんと膨れ上がっていった。

 リビングに戻り、ソファに座ってテレビをつけた。バラエティ番組をボーっと見ながら今日あったことを頭の中で反芻する。

 呉谷が生きていた。それも今日、私は彼に会ったのだ。二人きりで。結局、彼に会ったことは誰にも言わないことにしたが、そのせいで、加藤や鈴木愛香、そして呉谷の両親を裏切ってしまったという罪悪感が募ってくる。

 それにしても、呉谷が話していた話は本当なのだろうか。鈴木愛香と呉谷は本当の夫婦ではなかったという。そのことについてずっと考えていると、だんだんと分からなくなってきた。

 本当の夫婦とは何だ。私だって沙月とは式も挙げていなければ、互いの親族同士が顔合わせをしたわけでもない。

 私達の結婚には、互いの合意という脆いものがそこにあっただけだ。もちろん入籍はしている。だが、それにどんな意味があるのだろう。

 確かに呉谷に愛香への愛はなく、結婚相手だという思いはないのかもしれない。ただ、愛香の方は呉谷を愛しているのだろうし、夫婦であると思っているのだろう。私も同じだ。私も沙月を愛しているし、沙月と結婚していると思っている。

 しかし、それは私の思い上がりではないのか。沙月がどう思っているのかを私は知らない。沙月の感情を私は感じ取れない。

 冷蔵庫から出したミネラルウォーターのペットボトルを額に当てながら、私はソファにさらに身を深く沈めた。



      妻


 目覚めると、だいぶ楽になっていた。家の中から物音がしたので一瞬背筋が凍ったが、すぐに勝廣が帰ってきているのかと思い直す。

 階下のリビングまで降りると、勝廣が夕食を作っていた。

「やあ、目が覚めたかい。随分早くに帰ってきたんだねえ」

 何かを炒めながら、勝廣がそう笑いかけた。

「うん。意外とちゃんと人がいたから、普通にお焼香だけで帰ってきちゃった」

 眠りに落ちる前に、ぼんやりとしていた頭で考えた言い訳を話す。勝廣は疑う様子もない。

「もう少しで晩御飯ができるよ」

 勝廣は微笑みを浮かべたまま、沙月にそう言った。

「うん」

 普段特に何も感じなかったが、今日はその笑顔にほっとする自分がいる。自然に笑えている自分がいた。

 そこは心地よい場所だった。



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