第35話

      三十五


      夫


 待ち合わせ場所に指定されていたのは、少し郊外の国道沿いの、広い駐車場があって安っぽい張り紙でメニューが書かれているレストハウスだった。店の外には、野菜の市や名産品売りも併設されている。

 呉谷は一番奥のテーブル席に座っていた。人はほとんどいないのに、人目をはばかるようにきょろきょろしている。私を見つけると急いで手招きして呼び寄せ、向かいの椅子に座らせた。

「よう、久しぶりだな。よく来てくれた」

 珍しく呉谷が私に笑いかける。

「おい、そんなこと言ってる場合じゃないだろ。今までどうしてたんだ。お前が無事だってことをみんなに知らせないと」

「俺と会うって誰にも言ってないだろうな」

その時だけ呉谷の視線が恐くなった。声のトーンも一気に低くなって、ドスが効いている。

「あ、ああ。言ってないよ」

 呉谷のあまりの真剣さに、私は思わず狼狽した。呉谷に会うということを沙月に言うことができなかったが、それが正解だったのだろうか。

「よし。とりあえず、俺には今トラブってる相手がいる。それはたぶんお前も察してるだろう。今でもあいつらは俺を捜してるんだ」

「そういうことなら警察に言おう。護ってくれるかもしれない」

 私が携帯電話を手にして立ち上がりかけると、

「いやいやいや、待て待て待て。お前は勘違いをしてる。そんなきな臭い話じゃないんだ」と呉谷も慌てて立ち上がって私を制した。

「何が?」

「俺を捜してるのはそんな危険な連中じゃないんだ。お前も会っただろ? 愛香だよ。あいつが厄介なんだ」

 私は耳を疑った。聞いている話と全然違う。

「なんで? お前の結婚相手なんじゃないのか」

「あいつがそう言ってるだけだよ。確かにちょっと一緒に暮らしてたりもしたが、それはあいつが無理矢理家に押しかけてきたからだ。あいつはやばいんだよ。俺は昔からあいつに付きまとわれてきたんだ。お前は鈍いから気付いてないかもしれないけど、高一の時に初めて俺達は出会って、次の月にはあいつは俺に告白してきた。あいつにはそんなに興味がなかったから適当にあしらったら、そこから陰湿なストーカーだよ、裏ではな。表ではにこやかで清純そうにしてたけどな」

「嘘をつけ。お前のご両親もお前の嫁さんとして扱ってたぞ」

 この話を聞くと呉谷は少しの間その言動が止まった。表情が目に見えて曇る。だがすぐにさっきまでのトーンを取り戻し、

「そうなんだよ、それがあいつの恐いところでな。あいつは俺の周りから乗っ取っていった。俺の両親、同僚、友達にまるで自分が俺の妻であるかのように取り入っていったんだ。周りがどんどんそういう風向きに流れていったら俺もなかなか否定できなくなって、それでそういう既成事実が出来上がってしまったんだ」

 そう言われてから思い返してみると、確かに鈴木愛香の言動には不審なことが多かった。呉谷の失踪後すぐに行動を起こさなかったことも、呉谷と正式に入籍していたらそういうわけにはいかなかったのではないか。

 その割に、呉谷を一人で捜し出そうとするほど、呉谷への執着は深いのだ。

「だから、とりあえず愛香からは身を隠したいんだよ。だから愛香とか、加藤含めて誰にも俺と会ってることを言わないでくれ」

 呉谷の気迫に押されて、「わ、わかった」と答えたが、自分の中で納得は全然できていなかった。

「それで、ここから相談なんだが」

呉谷がそう言いながら姿勢を正す。

「何だよ?」

「そういうわけで今、俺は家に帰れないんだ。ただ身を隠してる間に手持ちの金が尽きてしまってな。他の口座のキャッシュカードとか通帳も家に置いたままだし、それに、警察に届けているのに俺の名義の口座を動かすわけにはいかないだろ? だから俺には金がいるんだ。貸してくれないか?」

「ええ! 何で俺が」

「頼む! もうお前しか頼れないんだよ。古い付き合いじゃないか。頼むよ」

「ダメだ。いくらそんな理由があったとしても、今も心配してるお前のご両親の手前、お前の失踪に手を貸すようなことをするわけにはいかない」

 それを聞いた呉谷は腕を組んでしばらく考え込んだ。足が小刻みに震えている。

「分かった! じゃあ、それならそれでいい。その代わり、金はもういいから俺と会ったことは誰にも言わないでくれ。お前一人の胸の内に留めておいてほしいんだ」

「うーん」

 私の心の中では激しい葛藤があった。事態が起きて以降、期間はすでに数週間に渡っている。

「とりあえず、それで頼むぞ!」

呉谷は有無を言わさぬ勢いできっぱりとそう言い放ち、荷物を持ってそそくさと店から出ていった。

 呉谷は私の性格をよく分かっている。私は、このような局面で独断で動けるような人間ではなかった。このまま私が呉谷と会ったことを誰かに告げてしまうと、彼を裏切ることになってしまう。

 私を呼び出す際に呉谷からかかってきた電話番号に、こちらから一方的に宣言してからみんなに教えてしまおうと思ったが、もうその番号は通じなかった。

 私は身動きがとれなくなってしまった。



      妻


 今日の要求は一段と激しかった。肉体的にも精神的にもボロボロになった状態で沙月が家に帰ると、勝廣はいなかった。

 勝廣がいない方が変な言い訳を考えなくても良いし、疲れ切った自分を偽って普段通り振る舞う必要もないから楽だ。これまではそう思っていた。

 しかし、なぜか今日は、勝廣がいないことでたまらなく寂しい気持ちになった。心細く感じた。なぜか、勝廣にそばにいてほしかった。

 なぜ勝廣がいないのか、それをじっくり考える余裕はなかった。一歩一歩が重く、のろのろとした足取りで部屋まで向かい、ベッドに横になった。眠りにはすぐに落ちたが、何度も苦しそうに寝返りを打つことになった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る