第38話

      三十八


      夫


 素早く車に乗り込み、エンジンをかける。呉谷もすぐさま後部座席に滑り込んできた。

「出してくれ、行き先は後で言う」

「あのなぁ、タクシーじゃないんだぞ」と言いながらも私は唯々諾々と従う。

 制限速度を少し超過しながら数分、私達は長い高架道路に入った。後ろを振り返ってもついてくる車はない。そこまで来て、呉谷はやっと安心したようだった。

 呉谷の指示通りに高架を抜けて、山道に入る。呉谷はさらに先に進むように言ってきたが、私は舗装もされてない脇道に入って停車した。

「で、わけを話してもらおうか」

 私は身体の向きを変え、後ろを見る。

「おい、こんなところで止まられても困るよ。俺が言ったところまで行ってくれ」

「ダメだ。言わないとこれ以上は協力しない。お前は何をそんなに怯えているんだ?」

「んん……」

 私が詰め寄ると、呉谷は目をそらして変な呻き声をあげた。

 しばらく悩んでいるようだったが、「そうだな……」と言ってから呉谷はようやくその重い口を開いた。

 呉谷が言ったところによると、勤めていた会社内で干されてしまった彼は、会社を通さずにコンサルティングの仕事を受けるようになった。

 そのような中でクライアントの一つに「シン・アライアンス株式会社」という、詐欺やマルチ商法を行う反社会的組織があった。

 その組織は、最初から犯罪行為を含んだ活動内容を明かしたうえで呉谷に仕事を依頼してきたという。最初はもちろん突っぱねるつもりだったが、正規の仕事が減っている中で、その高額なギャランティーに惹かれ、呉谷は最終的にその仕事を引き受けたそうだ。

 呉谷がその組織で行った仕事は多岐に渡る。文書の改ざん、資金洗浄、口の堅い各種業者との仲介……

 呉谷自身は組織の人間とはほとんど会ったことがなく、メールでのやり取りのみの関わりであったが、その仕事内容の広範さから考えると、呉谷は十分組織の重要メンバーとなっていた。

 呉谷の尽力に加え、現場で陣頭指揮を執る東城という男が切れ者であるため、その組織はまだそれほど警察に目をつけられているわけではない。

 しかし呉谷は段々と重罪人になっていく自分が恐くなってしまったらしく、逃亡した。組織の秘密を多く握っている呉谷が、勝手に姿をくらませるのは許されない。今でもそいつらは呉谷を捜している。

 以上が私が呉谷から聞いた事の顛末だ。今まで聞いていた話と違いすぎるうえ、矛盾も多かったため、私はもっと沢山のことを彼から聞き出したかった。しかし、私と呉谷の話はそこで中断されてしまった。私の携帯電話に着信が入ったのだ。



      妻


 車中に連れ込まれた沙月は、郊外のシン・アライアンス株式会社のビルに再び連れて行かれた。そこから約二時間、いつも通り二人の玩具になる。何故か今回は、いつにも増して嫌だった。この二人の身体の感触が、息遣いが、不快で仕方がない。

 学生時代、呉谷に処女を捧げたのを皮切りに、貧しい生活をしていたときも身体を売ったことはあった。

 こんな人生になるとは、子どもの頃には誰も思わない。今となっては遠い過去、思い出すことも容易ではない少女の時の沙月は、今の沙月でいることに耐えられないだろう。

 耐えられないことを耐えられるようにするには、自らの価値観や倫理観なんてものを無理矢理変えてしまわなくてはならない。そしてそれを変えるには、自分の一部を死なせることだ。それは羞恥心かもしれない。自尊心かもしれない。それを沙月が悟ったのはいつのことか。

 貞操の問題だけではない。度重なる人生の苦難の中で、生き抜いていくために、沙月は自分の様々な感情を死なせていた。どうにでもなれという諦めと開き直りが定着した時に、沙月は多くのことに動じなくなったのだ。

 だからこそ、沙月は今回、大いに戸惑った。辛いのだ。今までは感情を殺せば辛くはなかった。ただ今回は感情をうまく殺せない。心のどこかで、沙月が残っている。

 事が済むと、家から少し離れた家がまだ少ない通りで、いつも通り弾き出されるように車から降ろされる。この日の沙月は、明らかに口数が少なかったが、この二人が気付く様子もない。

 まだ日差しも強い中、沙月の心は暗く閉ざされていた。とぼとぼと歩いていると、ふと無性に勝廣の声が聞きたくなった。

 今まで、勝廣の仕事中には、電話を掛けたことはなかった。勝廣なら、タイミングさえ合えば極力出てくれるだろうが、それでもどうなるか分からない。出てくれなかったらどうしよう。


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