『桜の木の下には死体が埋まっている』というのは有名な言葉だけど、案外最初にその一文を生み出した人物は、本当に桜の木の下に死体を埋めていたのかもしれない。


「うわぁ〜!」


 その庭を見た時、私は思わずそんなことを考えた。


「中から見てもすっごい!」


 千夏ちなつが開けてくれた門から中に入った由香里ゆかりははしゃいだ声を上げる。その後ろに続いた私はというと、四角く塀で囲われた殺風景な庭の中に空を覆い隠さんばかりに花を広げた桜の巨木を声もなく見上げていた。


「まさか、ここの桜が千夏んのだったなんて。知らなかったわぁー!」

「へっへーん。だてに旧家じゃないんよ、向井むかいん家は」


 最後に入ってきた千夏は偉そうに胸を張るとシャラシャラと指に引っ掛けた鍵束を回してみせた。古めかしい鍵は、この庭に唯一取り付けられた門を開くための鍵である。


『帰り道に立派な桜の木があるんだけど、うちらの背丈より高い塀に囲われてて、どんな所に植えられてる桜なのか分からないんだよね』という話を由香里が振ってきたのは、今日のお昼休みのことだった。興味を示した私と千夏が詳しい話を聞いてみると、途中で千夏が言ったのだ。


『多分それ、うちで管理してる「御方おんかたの桜」だわ』と。


「じゃあなんでここの桜を千夏ん家が管理してるのか、ちゃんといわれも言えるんですかぁー?」

「え、えぇ? それは……そのぉ……えぇ?」

「千夏ん家、ここの隣にあるとかじゃないでしょ、確か。飛び地をわざわざ千夏ん家が管理してるんなら、何か深い訳があるんじゃないのぉ?」


 由香里のごもっともな言葉に千夏はあからさまに狼狽うろたえた。途端に泳ぎ始めた視線は明らかに『理由は知りません』と言っている。


「ま、まぁいいじゃん! お陰でここの桜、独り占めできるんだし!」

「まぁ、そうだけどねー」


 明らかな言い訳に由香里は存外あっさりと頷いた。多分由香里的には普段見れなかった塀の向こう側を知れて、今が盛りとばかりに咲き誇る桜を堪能できたから、もうそれで十分だったんだろう。


 ──それにしても。


 私は門から数歩入った所で足を止めて庭全体を眺める。


 ──本当に、桜だけしかない。


 庭の面積自体はそこそこに広い。公園として整備したら、ブランコとシーソーと砂場、ついでに雲梯うんていを置いてまだ余白が残るくらいの土地面積だろう。


 だというのにこの空間には桜しかない。門から入って少し奥まった場所に桜が植えられていて、あとの土地は野の草に覆われただけの土が広がっている。それでいて土地の境界を示す塀は堅牢だった。定期的にメンテナンスをしていて、決して崩れることがないように気を配っているんだなと見ただけで分かるたたずまいだ。


 まるで、何かを外の世界から隔離しているかのように。


 まるで、何かを外の世界に解き放たないようにしているかのように。


 ……そうであった場合、ここに閉じ込められているモノは『桜』以外の何ものでもない。


「こんにちは」


 そんなことを思った瞬間、すぐ隣から予期せず声が聞こえた。反射的に肩を跳ねさせて飛び退るように声の方を振り返れば、いつの間にか傍らに見慣れない女性が立っている。


「良い日和ひよりね」


 思わず私はとっさに友人二人の方へ視線を飛ばした。桜に夢中になっている二人は、唐突に現れた第三者には気付いていない。


「あら、そんなに警戒しないで?」


 そんな私の意図が視線の動きだけで分かったのだろう。女性はクスクスと忍び笑った。


「今日は良い日和だし、貴女というマレビトにも出会えた。それに免じて、貴女とお友達は無事に帰してあげる」


 その言葉の真偽を確かめるように、私はじっと女性を見つめた。


 長い黒髪をポニーテールに纏めて、薄く灰色がかった白い着物を纏った、妙齢の女性だった。金糸銀糸で亀甲文様が織り出された袋帯に真っ赤な帯締のコントラストが鮮烈で、春の柔らかな光がそこだけ鋭く反射しているような気がする。


「……貴女はどうして、にいるのですか?」


 彼女の正体をうっすらと覚っている私は、警戒心を隠さないまま女性に言葉を向けた。そんな私にニコリと女性は微笑む。


「だってわたくしはここで芽吹いたんですもの。わたくし達は、芽吹く場所を選べないわ」

「芽吹いた?」

「あら。わたくしを品のないヨシノなどと一緒にしないで頂戴な。わたくし達は、たった一粒の種から枝を広げる、誇り高き神坐カミノクラよ」


 その言葉に私は思わず桜の枝先を見上げる。確かに彼女が言う通り、枝先には花だけではなく新芽の赤みがかった緑が見えた。


 染井ソメイ吉野ヨシノと違って、山桜は花と葉を同時に広げる。そして種を結ばない染井吉野とは違い、種を結び、子孫を繋ぐ。


 桜と言えば染井吉野。実を結んでも次を生めない染井吉野は、挿し木でしか株を増やせない。だから誰かが言っていた。『桜がそこにあるということは、誰かがそこに何かを願って桜の苗木を植えたからだ』って。


 だけどそれは、染井吉野に限っての話。


 古来からこの国に根を張ってきた『サクラ』は、もっともっとしたたかかだ。


 そして気位が高いサクラの中でも、そういうサクラの方がより矜持が高くて扱いづらい。……いや、『扱う』なんて考えること自体が、もはや不敬にあたる。


 『』の『坐すクラ』木。


 彼らの存在そのものが、ヒトなどよりずっと高位に在るのだから。


「……質問を、変えます」


 もはや彼ら自身が神とも言える。そして樹木から生じたモノは、元が大いなる存在である分、接し方を誤れば多大なる災害を生みかねない。


「この『庭』は、貴女の望み、なのですか?」


 ヒトの子は、その『災害』を『タタリ』と呼ぶ。


「いいえ?」


 ニコリと笑って答える女性の瞳は、決して笑っていなかった。真っ黒な瞳の奥は飢餓がうごめいていて、私を見つめる視線には舌なめずりをするような寒気が満ちている。


 そう、まるで。飢えた獣が、久々に目の前に現れた獲物を見るかのように。


「元々は、わたくしに贄を捧げるための斎庭さにわ……いえ? わたくしの庭を狭めて、ヒトが生きる世界を広げるための檻、だったかしら?」


 己を『神坐カミノクラ』だと言いながら、女性は滴る血の美味しさを知っている獣の瞳を隠そうとはしていなかった。


 彼女にとってヒトは、己の世話人ではなく、己の信徒でもなく、ただの獲物なのだと分かってしまうくらいに。


「最初にわたくしにヒトの身を捧げてきたのはそちらだったくせに、そちらの事情で勝手に閉じ込めてしまうなんて……酷い話じゃない?」


 私は女性に対して何も言えなかった。ただにじむ冷や汗を隠したまま、視線をそらさずにいるだけで精一杯。


 そらした瞬間に、下手なことをした瞬間に、私は客人マレビトから彼女の供物に成り下がる。


「……今でも、貴女は」


 そう思ったはずなのにポロリと言葉が零れ落ちてきたのは、どうしてだったのだろうか。


「『外』を、望んでいるのですか?」


 私の問いに、女性はスッと瞳をすがめた。たったそれだけで空が陰って、一瞬空気が冷える。


「どうなのかしらね?」


 顔に浮かべた笑みは崩さず、ただ瞳の奥にあった感情だけをかき消して、女性は静かに私に答えた。ヒラリと、風がない空気の中を桜花がひとひら舞い落ちるような、そんな静謐さで。


「わたくしがこの庭に囲われている間に、ヒトは随分変わってしまったようだから。……今更外に解き放たれても、わたくしはその目まぐるしさで枯れてしまうかもしれない」


 昔はヒトが殺されようが、野垂れ死のうが、誰も騒ぎ立てなどしなかった。この桜の木の下にどれだけのかばねが埋められようとも、事件にはならなかった。


 だけど、今は違う。


 そのことを、彼女は知っているという。


「わたくし達にとってはあっという間のことなのに……ヒトの子の世は、本当に目まぐるしい」


 最後に彼女は一度だけ、己の姿を下から見上げて、うっそりと笑った。


「まるで、花びらが散る間に見る夢のよう」


 その言葉が音として私の耳に届いた時、彼女はすでに姿を消していた。まるで夢の名残のようにヒラヒラと、私の傍らを桜花が散っていく。


 ……この国には、怖い花がたくさんある。


 例えば藤は、絞め殺しの木。山の中に一本あれば、その山に生える木々を全て己の糧に降して咲き誇る。


 例えばシキミは、猛毒の木。愛らしい花も、実も、葉さえもが、人をも殺す毒を孕んでいる。


 彼岸花は毒の花。椿は首落としの木。鬼灯ホオズキは鬼がヒトの子の魂を入れて遊ぶ実。榊は神の依代ヨリシロ


 この国は、怖い植物であふれている。


 ……それでも。


 それでもヒトの子は、死体が埋まっている木はサクラだとした。


 その、理由は。


「ももっち、堪能した?」


 ハッと顔を上げると、いつの間にか千夏と由香里、二人ともが私の前にいた。思わず目をしばたたかせると、二人は少しバツが悪そうに眉尻を下げる。


「モモが堪能したなら、もう帰ろっかって話になってさ」

「え……」

「何だかさ、怖くなってきちゃって」


 己の両腕を己でさすりながら、由香里はチラリと、何かに怯えるかのように背後を振り返る。ただ桜だけしかないこの庭には、振り返ってみたところで桜しかないというのに。


「桜がこんなに威圧的だってこと、知らなかったや……。普段はさ、色んなモノの中に溶け込んでるから『うわぁ、綺麗だねぇ』で済むんだなって、この庭を見て思ったよ」

「ここは案外、そんな桜の魔力を隠しとくために作られたのかもね。相変わらず、うちの家が管理してる理由までは分かんないけども」

「それ、案外正解なんじゃない?」


 二人の言葉に、私は改めて桜を見上げた。


 同時に、思う。


 ──桜の下には、死体が埋まっている。死体から養分を吸い上げて咲く花は、桜でなければならなかった。


 なぜなら。


「……綺麗」


 儚くありながら凛として、神々しささえ感じさせるその様が。


 ヒトのタマの緒を引き千切って無理やり持っていってしまうくらいに、美しいからだ。


 魅入られてしまった私は、ただぼんやりと桜を見上げ続ける。


 そんな私達にヒヤリと笑いかけるかのように、またひとひら、桜花が散った。

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