十一の巻「破戒」

「猫又急げ、早う早う!あの野槌めわしの術が効かぬ、蛇神に勘付かれ……ぐわっ!!」

 途端。槌の輔が蛇骨婆の胸元に飛び込み喰らいつきました。毒を持たないはずの野槌、ですが槌の輔がその牙から流し込んだのは、蛇神から与えられた灼熱の鬼火。蛇骨婆の胸は見る間に焼け爛れ、声も無くその場に崩れ落ちます。そしてその体は青い炎に包まれて、瞬く間に白い骨だけを残すのでした。

「婆様!ちくしょう、よくも!!」蛇骨婆の死に逆上した猫又は、姫をその場につき飛ばしました。そして、仲間の亡骸の上で自分をじっと見つめている野槌に向かっていったのです。

 ああ、思えばこの時、猫又は大変なしくじりをしてしまったのです。もしこの時、彼女がそのまま姫を盾にとっていたとしたら。地上の蛇神もは出来なかったのでしょうに……

 猛り立った猫又はしかし、たちまちその足を止められてしまいます。

「この!何だいこいつら!!離せ!!」

 蛇骨婆の術で一時蛇神の支配から離れていた地下の蛇達が再び蠢き出して、一斉に猫又を狙って集まり始めたのです。そしてあるものは地面から飛びかかり、あるものは洞の天井から落ちて、またあるものは足元から這い上がり、猫又の体に取り付いてその動きをふさごうとするのでした。

 女妖の中でも猫又は狩の腕自慢です。土蜘蛛にもその点一目置かれて、それで姫を捕えることを任されたほど。ですから蛇も一匹や二匹なら、いささかも動ずる彼女ではなかったでしょう。現に猫又の宙に振るう両手の爪は、彼女に襲いかかる蛇たちをすでに何十匹と、体に取り付かれる前に切り伏せているのです。ですが。蛇神の洞の宮に残されていた蛇たちの数は際限もなく、到底防ぎきれるものではありませんでした。やがて猫又は身体中を蛇にとりまかれ動きが鈍くなっていきます。

 そして、その時、さらに。

 今まで深い暗闇に閉ざされていた洞内の空中、まさに猫又の目と鼻の先に突然、蹴鞠ほどの大きさの青緑色の光の玉が出現したのです。それは淡い優しい光だったのですが、光の近さのせいで。闇を見通す猫又の鋭い眼は、鋭いがゆえにたちまち眩んでしまいます。あっと一瞬叫んだ拍子に足元の蛇たちにつまづいて倒れると、猫又は地面ですでに川の流れのようになっている蛇たちの流れに呑まれ、あちらに押し流されて行ったのでした。

 その様子を固唾を飲んで見ていた姫の後ろから。

「姫様!こちらへ!早くお逃げにならないと、さぁ!」

 現れた一人の女房。

「私の術は、猫又には長くは持ちませぬ。あの蛇たちの足止めもおそらくは……

 早く!ここから外に逃げるのです!」

 密かに洞の宮に忍びこんでいた妖は、猫又と蛇骨婆の他にもう一人。それは、あの蛍でありました。


 天が叫ぶ、雷鳴と風の唸り。最前まで雲一つなかった月夜が突然の嵐に変わる、それは蛇神の呼んだ天変地異。

「うぬ等……うぬ等うぬ等うぬ等!!よくもその穢れた手で吾が姫を……許さぬ!

 滅びよ、いや、死ね!!」

 黒雲から空を引き裂いて落ちた、電光一閃。蛇神は呼んだ雷を自らの体に落とす。蛇神に纏わりついていた毒蛾の群れは一瞬で灰になり、妖達も黒焦げの骸に。

 蛇神の喉笛に喰らいついていた大百足。大力で日ノ本の妖一と謳われた彼も、その衝撃に思わず怯み力を抜いてしまった。その刹那。今まで身動き一つしなかった蛇神が、押し寄せる津波のような力で己の首を振りまわした。

 大百足の蛇神にも劣らぬ巨体が、そのひと振りで宙を舞う。その一瞬の、悪夢のような光景。あんぐりと口を開けて見上げた毒蛾主が我に返ったのは、大百足が落ちて地に叩きつけられた地響きによって。

「駄目じゃ……これは到底敵わぬ……御大将、退きましょうぞ!」

 土蜘蛛の元に青い顔で駆け寄ると、毒蛾主はそう進言する。

「いや待て!取り乱すな、婆殿と猫又が戻れば……」

「間に合いませぬ!!その前に皆打ち死にするだけですぞ?!それに何故急に蛇神がああも荒れ始めたのか、我らの策を悟られたに違いありますまい。そしてしくじった。逃してしまったか、殺してしまったか……御大将!!」

 それが真の忠言なのか、ただ己の命を惜しんでの言葉か。複雑な渋面の毒蛾主の本心はこの期に及んでもまだわからない。常に誰にも理解されない自らの不徳に自嘲を込め、いまだ逡巡する顔の土蜘蛛に、彼はしびれを切らして吐き捨てる。そしてまだ命のある妖達に呼びかけた。

「御大将、御奉公もこれまで……付き合いきれぬわ!!皆の衆、逃げるのだ!死んではかなわぬ、皆逃げようぞ!!」

 だがその瞬間。蛇神が唾を吐くように口から一滴の鬼火を撃ち出す。ほんの小さな米粒のような炎の玉、だが射られた途端に毒蛾主の全身はたちまち炎に包まれ、その場に焼け崩れた。

「己が主を見捨てるか、見下げ果てた奴。一足先に死ね。なに、いずれ皆お前と同じところに送ってくれる、先達になるがよい!!

 ……いや?くく、吾としたことが、これは違ったか……」

 蛇神の目が、見上げる土蜘蛛にぴたりと合う。

「兵を率いるは、将の務めよな……?」


「あなたはいったい?どうして私を助けてくださるのです?」

 地上への出口に向かって、姫と蛍は連れ立って逃げて行きます。そして猫又からひとまず逃れられたとはいえ、未だ怯え戸惑う顔の姫に、蛍は手早く語ります。日ノ本の妖のこと、土蜘蛛のこと、彼の思いとその企みのこと。そして自分が何者なのか。

「姫様、あなたは私のことを覚えてはいらっしゃらないでしょう。ですが私は姫様のことを、御恩を忘れたことはございませぬ。私は蛍、そう、死んだ蛍たちの霊が集まって化生した妖。かつて大納言さまのお屋敷のお庭に、夏の一夜の催しにと放たれた蛍も、のです。

 姫様、あなたは。次の日の朝、力尽きてお庭に落ちた私達の亡骸を手づから拾い集められて、弔ってくださった。あの時のあなたのお涙、私は決して忘れませぬ。

 今私は、かの日の蟲愛づる姫君様に、その御恩をお返ししたいのです。それと。

 大殿様を!私のご主君土蜘蛛様をお救いしたいのです。

 もう一度!この私が大殿様をお諌めいたします、必ず!ですから姫様、なにとぞ蛇神殿をお鎮めくださいませ。それはあなた様にしか出来ませぬ。どうかなにとぞ……この蛍、たってのお願いに存じます!!」

「あなたは、ご主命に逆らってまで私を……?」

 姫の顔から怯えの色が消えてゆきます。きりりと頬を引き締めて、蛍に。

「わかりました。私も、蛇神さまにこれ以上無益な殺生をしていただきたくはありません。必ずおなだめ申し上げます。さぁ行きましょう」

 こくと頷きあった二人。ですが。果たして間に合うのでありましょうか……?


 天からは絶え間ない落雷。そして、高く鎌首を掲げた蛇神が、口から次々と吐く鬼火の弾。辛くもかわし続ける土蜘蛛であったが、次第にその場は炎と煙に満たされ、逃げ場は奪われていく。その場にいた他の妖達はどうなったのか。最早、土蜘蛛にはそれを慮る余裕は無い。自分を追っているはずの蛇神、だがその攻め口は雑。だから土蜘蛛はかわし続けていられるのだ。毒蛾主を殺した際の、あの鷹の目を射抜くような技とまるで違う。

(蛇神は今このわしを弄っておるのだ……この隙に!)

 皆逃げよ、と。

 先に死んだ毒蛾主の最後の言葉が彼の頭をよぎる。あの言葉を、どうして自分から口に出来なかったのか。土蜘蛛が自分の後悔にようやく気づいた、まさにその時。

「御大将!御大将!ここはこの俺が……皆をまとめてお退き下され!!」

 気を失っていたのか、あるいは体を痛めて動くことが出来なかったのか。蛇神に投げられたままそれまで地に巨体を横たえ、じっと動かなかった大百足。その彼が大顎を振るい、再び蛇神に立ち向かっていった。

「愚か。そのまま寝ておればよいものを」

 蛇神の首に喰らいつく大百足。蛇神はかわさない。動きもしない。

 いや違う、大百足にはわかる。蛇神の体は一寸たりとも。そして。

「……かっ!!」

 蛇神の気合一震。何の技を使ったわけでもない、その一声で。

 大百足の両顎の牙が粉々に砕け散った。

「吾の通力を間近に受ければ、この通り。技も術も要らぬ。役に立たぬ牙であったな。教えてやろうぞ、牙とはこう使うもの、知ってね!!」

 大百足の頭のすぐ下の節に蛇神が逆にくらいつくと、風で熟柿が自然に落ちたように、大百足の頭はあっけなく地に転がった。そして蛇神は鎌首を高く振り上げ、その上に叩きつける。

 その下に残ったもの。何の形の無い血だまりと、ただ名残に空しく地を這う二本の触角。

「……大百足!!」

 土蜘蛛の悲痛な叫びに、蛇神は、氷の冷笑で答える。

「愚か、愚か、愚か者。くく、かくまで愚かとは、嗤うを堪えぬ……うぬの如き愚かな将のために命を捨てるか。いや?己が将と仰ぐ者が如何に愚かであるか、見抜けぬあの者がそも愚かの極み……

 百足か?なるほど姿の通り!犬にも劣る虫けらよ、ははははははははははは!!」

 蛇神のその言葉で。土蜘蛛の中に蛇神への苛烈な怒りと憎悪が俄かに湧きあがる。

 いかにも、彼は確かに蛇神を滅ぼそうとしていた。だがそれはただ、自分の庇護する日ノ本の妖達を護りたい、その純なる一心であったはずだったのだが。

 自分の目の前で無残に殺されていくかけがえのない同胞たち、それを侮辱しあざ笑う蛇神。そう、己の力に酔いしれた蛇神は気付かなかった。彼女は土蜘蛛を追い詰め過ぎた。この瞬間、彼女は土蜘蛛にとってになってしまったのだ。

 そしてここでまた蛇神は、運命の分かれ道を間違った方向に進んでゆく……


「姫様、ご覧なさいませ、出口が!」「はい、急ぎましょう!」

 土蜘蛛が開けた、洞の宮と地上を結ぶ新たな洞。それを姫と蛍はようやく抜けようとしておりました。しかしどうしたことでしょう、蛍は怪訝に眉をひそめます。月明かりがあったとはいえ、今は夜だったはず。それが外から、夕焼けのように赤い光が洞の中を煌々と照らすではありませんか。そして、流れ込む異様な熱気。

 いったい何が、と、二人が思わず知れず顔を見合わせた時。

「……ようやくここまで来たのかい」

 猫又が二人の前に、洞の出口を背にして立ちふさがったのです。

「ま、あたしも今着いたばかりだよ。蛇どもに手こずらされちまったけど、どうやら先回り出来た。よくも婆様を殺しておくれだね?ここは通さない!見な!!」

 猫又が二人に投げてよこした物。それは、ずたずたに引き裂かれた槌の輔の亡骸でありました。

「そいつだけはちょいと厄介だからね……真っ先に殺してやったのさ。婆様の仇、お前達もこれからそうなるんだ!そっちの小娘は用が済んだら……

 でも蛍!!裏切者のお前は今すぐここで始末してやるよ!!前からお前のことはね、ずっと気に食わなかった。ろくな力も無いくせに、ちょいと小綺麗なだけで、御大将……土蜘蛛様のお側でいつも可愛がられてさ。本当はあたしの方が!ずっと土蜘蛛様のお役に立てるんだよ!それをお前にあの世でわからせてやる!!」

 猫又はそう猛り立ちます。姫を背後に庇おうとする蛍でしたが、その肩をずいと脇に押しやって。

「猫又。今はそんなことをしている場合ではありませんよ」

 凛と言い放ったのは、姫でありました。

「ご覧なさい、洞の外から見えてくるあの赤く熱い光。私は前にもあれを見ました。蛇神さまが都を焼いたあの夜の炎、あれとそっくりです。今、外はおそらく……

 黙ってそこを通して下さい、私が蛇神さまをお止めしなければ。

 あなたは!ご主君を、あなたの大切な土蜘蛛殿を救いたくないのですか?!」

 姫の思いもよらぬ剛毅な声と様に、猫又は思わず怯みます。

「……黙りな!!お前に……何でお前にあたしを指図出来る?お前から殺して……」

「私を殺せばどうなるか。いいでしょう、やってご覧なさい。私は元より、命を捨てる覚悟で蛇神さまの元に参ったのです。今私が生きているのは、蛇神さまからいただいたお情けのゆえ。この身この命はいつでも捨てられます。ですがその時は。

 あなたも、そしてあなたの土蜘蛛殿のお命も!共に蛇神さまの贄となるでしょう。

 猫又、あなたにその覚悟がありますか?」

 猫又が返す言葉を失った、まさにその時でした。

(猫又……猫又……頼む、御大将が……御大将が……頼む……!)

 猫又の胸中に響いたその心の声。首を落とされた大百足の断末魔です。そして洞の外で大きな地響きがずしんと一つした後、それはぱったり聞こえなくなったのでした。

「大百足……大百足!!ちくしょう!!」

 真っ青になった顔で踵を返し、洞の外に一人駆け出してゆく猫又。


 そこに猫又が見たもの。それは地上に現れた地獄の光景。そこかしこに累々と重なり横たわる、仲間達の焼けただれた亡骸。首の無い体を今はただ横たえる大百足。

 そして。火の海のただ中で、最早逃げ足も止まり膝を地に着いた土蜘蛛の姿。

「ああ!!御大将ーーーーーーーーー!!」

 叫び声を上げて駆け寄ろうとした猫又。だが蛇神はそれを目ざとく見つけると、今まで土蜘蛛を狙っていた鎌首をさっと向けて。

 猫又は逃れる間もなく、蛇神の顎に咥え込まれた。

(うぬ等が聞こえぬ声でこそこそ話す技、ようやく吾も覚えたぞ。さぁ、どうする?今なら吾は炎を吐けぬ。今なら……逃れられるぞ?)

 そしてじわじわと猫又の体を噛砕いていく。土蜘蛛をそう嘲りながら。

(こいつが死んだら次はいよいようぬだ!!くくく……さぁ、どうする!?)

(土蜘蛛様……あたしに構わないで……逃げて……!!)

 その最後の言葉と共に、猫又の首だけがぷつり斬りおとされて、土蜘蛛の目の前に転がり落ちた。

「ふむ……逃れなかったか、殊勝なり。だがやはり愚かは変わらぬな、将も臣も。下らぬ将を見抜けぬ兵に、むざむざ二度も兵の馘になる様を見る将。

 二度見てもやはり!!嗤うを堪えぬ!!ははははははははははははははは!!」

 地に落ちた猫又の両眼は濡れていた。無念の涙か、それとも。土蜘蛛はそれを拾い上げて胸に抱き、しばし瞑目した。そしてやおら蛇神に眦を決して向き直る。

「蛇神よ、よかろう!わしが愚かであったというその言葉、甘んじて受ける。

 だが!!皆をなぶり嘲ったことは断じて許せぬ!!この土蜘蛛、例えこの命を失っても!怨霊となって貴様を呪ってくれる。この怨み、必ず報いて見せようぞ!!」

「笑止よ。死んだ者に何が出来る。世迷言に付き合う吾と思うか?流石にもうよい、うぬにはもう飽いた。

 ……砕け散れ!!」

 天高く掲げた鎌首を、蛇神は土蜘蛛に向けて振り下ろした。

「……大殿様!!」「いけません、蛍!!」

 駆け寄る蛍、さらに追いすがる姫。

 勝利と血に完全に酔った蛇神は、この時、二人の姿に気づかない。蛇神の顎はそのまま地に叩きつけられたのだった。土蜘蛛と蛍、そして。

 己の最愛の姫をも、下敷きに巻き込んで。

 自分の顔の下で獲物の肉体が砕ける感触、だがいつもと何かが違う。その違和感に蛇神は、生まれて初めて感じる恐怖という感情に背筋を凍らせる。己れの鱗を分け与えた姫と結ばれていた、通力による存在の繋がる感覚、それがその瞬間ぷつりと途切れたのだ。

(……まさか?)

 震える蛇神が、鎌首をもたげ直して覗き込んだそこにあった物。

 それは血溜まりに浸ってたたらとなった、姫の無残な骸。

 雷鳴を、暴風の音を。今、蛇神の悲鳴がかき消してゆく……


 この続きは、十二の巻にあるでしょう。

(続)

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