十の巻「妖の戦」(その三)

(御大将、妙だ、蛇神めまるで手応えが?)

(これでよい。迷わずこのまま引け)

 一方の掌で蛇神に糸を放ちながら、一方の掌は大百足の尾に触れている土蜘蛛。大百足の動揺は、霊気の流れによって心の声として伝わってくる。そして土蜘蛛は同じやり方で冷静に指図を返す。蛇骨婆の言葉は嘘ではなかった。そう確信を得て。

(蛇神は何故大人しく我らについてくるのか。この洞の中では我らと争えぬからだ。すなわち外に出てからが本当の勝負。抜かるな……!)

 そう、地上までは最早わずか。


 一人、洞の宮に取り残された姫。鬼火で洞を明るく照らしていた蛇神が去ったその場は、漆黒の暗闇に包まれています。

 姫は闇は全く恐ろしくありませんでした。しゃがみこんだその場は、蛇神が残した蛇たちが渦を巻くように取り巻いて、時折姫の足に体をすり寄せます。そして姫の胸には槌の輔。見守ってくれる彼らがいるなら、と。

 ですが。姫は震えておりました。寂しさと不安に。

 人の世の全てを捨てて、そして初めは自分の命も捨てるつもりで、それでも。愛しい蛇神に一目会うだけのために、それを今生最後の望みと思いこの洞の宮に来た姫でした。ですが、待ち受けていたのは思ってもみなかった蛇神からの破格の寵愛。地の底でのこの二月余りの日々、姫は、本当に幸せだったのです。

 ですから、尚更今。その蛇神が側にいないこと、それがこれほどまでに寂しく切ないものなのか、姫は改めて思い知らされたような気持ちなのです。

 そして、二人だけの世界のはずであったこの洞の宮に、入り込んだ者とは?

 去る前に、蛇神は姫に侵入者たちについて多くは伝えませんでした。化生の者であるということ、それを伝えて姫を恐れさせたくなかったからです。ですが、都人たちがあれ程までに恐れていた蛇神の洞の宮に敢えて入り込もうなどどいう者がいるなら。それはいずれ只者であろうはずがありません。なればこそ、蛇神はああして慌てるように出て行ったのですから。不安に駆られた姫が、しかしいくら考えてもそれ以上進まない思案を、何度巡らせた時でありましょうか。

 その時。

「ひゃは!ひゃはは、おったぞ!あそこじゃ猫又よ!」

「この暗い中であたしより目が早いとはねぇ、流石は婆様。あれかい?ふぅん……?」

 姫の目の前は、相変わらずの一面の闇。そしてその闇はその時まで、針を落とすほどの音一つ無い静寂に満たされていたのです。それを突然切り裂くように姫の耳に飛び込んで来た、毒々しいその二つの声。姫の胸は驚きに射貫かれ、早鐘のよう。

 あの蛇骨婆と猫又が、とうとう姫の居場所にたどり着いてしまったのでした。


 月の光に照らされた夜空。星々の輝きも加えて、それは透き通るように。地の底から蛇神を曳き、地上に這い上がった土蜘蛛と大百足は、眩しさにまたたいた。

 一方、その隙を突くかの様に。

 蛇神は長大な全身の半分以上を未だ洞の中に残したまま、しかし、これで充分姫から離れたと見たのだろう、己の首に巻かれた糸に鎌首を曲げて喰らいついた。振り解こうとしたのである。

 土蜘蛛はその様を見て、自ら素早く己が放っている糸を掌から切り離した。霊気の塊で形作っていたその糸は、たちまち青い炎で燃え落ちるように、溶けて消えた。

 月下に対峙する、蛇神と土蜘蛛。

(いる……かなりいる……この倭には、まだこれほどの化生の者共がいたのか)

 蛇神は素早く周囲に目を配る。木陰あるいは樹上、岩陰あるいは地に身を伏せて。彼女が引き摺り出されたその場の、月の光の届かない闇に半ば溶けながら、待ち受け囲繞する妖達。

(だがこの数、まさか……本気でこの吾と事を構えるつもりか?)

 蛇神は思っていた。蛇神の洞の宮に紛れ込んだ二人の化生の者達、身の程知らずな愚か者が、たいした考えも無くたまさかやって来たに過ぎないのだと。それなら追い払うのも簡単であろうと。だがこの様子では、彼らは最初から彼女と争うことをもくろんでいたらしい。

(馬鹿な……!)

 一方。

 無論、土蜘蛛は蛇神を滅ぼすつもりであった。しかし。

(蛇骨婆の言う姫、その者がこちらの手に落ちれば、勝負はいずれこちらのもの。

 ……ここは時を稼ぐのが得策、なればこの際我らの名分なり、蛇神に聞かせてやるのも一興というものよ)

 彼は気付かない。いや、強いて自らの心に蓋をして見ないようにしていたのかも知れない。自分が実は、蛍のあの言葉に影響されていることを。そう、何はともあれ、彼は争う前に蛇神と言葉を交わそうとしたのである。

「聞け蛇神よ、我こそは……」

 しかし。

ね」

 蛇神は、土蜘蛛の言葉の続くのを待たなかった。

「うぬが何者で、何の用で吾が洞の宮に忍び入ったか。吾は知らぬ、知る気も無い。ただ、この場をね」

 まるでにべもない、だがしかし。それは蛇神にとっては最大のであり、

 気に入らない者は、殺す、滅ぼす。それしか知らない彼女にとって、「交渉して穏便に事を済ませる」などということは全くの未経験、気が遠くなるほどのなのだ。しかし、今の自分には、姫とのあの誓いがある……

(脅かして追い払うのはどうか)

 当然それも考えた。だが、自分にその手加減が出来るのだろうか?蛇神はそれも不安だった。ひとたび彼女がその力を振るえば、どんな相手でも容易く死ぬ。それは数千年の間彼女が体験し記憶に刻まれた当然の、あまりにも当然の事実。すなわちそれ以外の結果を彼女は想像すら出来ない。

(それに此奴らは、人と違って心が読めぬ……妙な力で壁を作っている。人が相手なら、考えを先回りしてやるのであるが……)

 蛇神の読心の通力。それは人間には当たり前に通用するのだが、同じ読心の技を持つ妖達は、それを防ぐ技も心得ている。いやむしろ、霊気の流れで言葉を紡ぎ意思を通じ合うことに慣れ親しんだ妖達は、その能力だけで言えば蛇神よりはるかに長けていた。蛇神はその数千年の生涯において、誰とも、一度も親しく言葉や心を通わせたことがなかったのだから。

 この時、蛇神は一時の好奇心で彼らに着いてきてしまったことを後悔していた。

 そう、一言で言うなら。彼女は困惑しきっていたのである。心の余裕を失っていたのである。最早一刻も早く、この無意味な対峙を終わらせたい……

 自分が彼らを殺してしまわないうちに!ただその、切なる一心。

 だが土蜘蛛には無論、蛇神のそんなは理解出来るはずもない。屈辱に面を朱く染め、顎を食いしばる。額にむくむくと浮く血の筋。いかに心そのものは読めないといっても、蛇神にも相手の怒りは自明だ。このままでは向こうから攻めてくる、そうなれば応戦せざるを得ない。如何にすべきか?

(……そうだ、『ほとけ』だ……)

 蛇神はふと思い出す。天竺で、唐で。彼らに似た多くの化生の者達が、ほとけの教えに仕えていたことを。ここ日ノ本より先に仏教の洗礼にさらされたそれら外国とつくにの妖達、その多くがいち早く仏教に帰順し、自らを護法の半神として人間に崇拝させることで、その存在を保っていたことを。

(おそらくこ奴らも……)

 もちろん、蛇神自身はほとけの教えに心から帰依しているわけではない、半信半疑にも届かない。だが最愛の姫がそれを信じ、ほとけの示す掟を受け入れているならば、これからは自分も同じこと、と。

 そしてなにより、ほとけの名を借りれば、この場を無事切り抜けられるであろうと!

「安心するがよい。吾はうぬ等とは争わぬ。吾はほとけを信じる者なれば」

 そう言ってしまったのだ。そう、それが土蜘蛛にとっては宣戦布告も同然であることを、蛇神は知らなかった。聞いた土蜘蛛は、むしろ平静を取り戻す。

(そうか蛇神め、彼奴は唐から来た……既に仏の力に屈していたのか。ならば!)

 蛇神が仏教を奉ずる者であるなら、自分達とは決して相容れぬ。

「もはやこれまで……かかれ、皆の者!!」

 蛇神を囲む闇が、ざわざわと波うち、動き出す。


 誰もいないと思っていた闇の中から、女妖おんなあやかし二人の突然の声。姫はとっさに逃げようと立ち上がりましたが、猫又の足音はまるで聞こえず、驚くほどの素早さ。その時にはもう、猫又は姫のすぐ背後に忍び寄っていました。猫又の腕の中で、羽交い絞めに捕らえられてしまった姫。そうして猫又は、姫の背中側から肩越しに、頬ずりでもするような目つきで姫の顔を眺めまわします。

「お前が蛇神のお気に入りの娘なんだって?へぇ……あれも見掛けによらないねぇ、こういうのが好みなのかい、蛇のくせに!」

 猫又の生臭い息が姫の顔を撫でます。そのおぞましさと恐ろしさ。姫は必死で振りほどこうとしましたが、まるでかないません。

「それにしても婆様、この鱗はどうしたわけだい?こいつは人間のはずだろう?」

 動けない姫の鱗の肌を、今度は蛇骨婆が近づいて、血の気が無いような冷たい掌でべたべたと撫でまわしながら言います。

「ひゃは!それは蛇神が自分の鱗を一枚剥いで、この娘に植えよったんじゃ。一枚一枚、ちま、ちま、とな。奴め、よっぽどこの娘が気に入ったってこった!

 ……じゃが、こうして間近に見るのはわしも初めて。少々癪じゃが、これはいい鱗だわ。惚れ惚れするのぉ」

「蛇神を御大将が始末したら、どうせこいつも用済み。婆様、皮でも剥いであんたのものにしたらどうだい?器量が上がるよ!

 そうだねあたしは……この可愛らしい顔をさぁ、この爪で!」

「待て待て猫又、ねずみをおもちゃにするのとは違う、今は大事な人質ぞぇ?」

「あはは!わかってるよ婆様、お楽しみは蛇神を殺した後さ。

 ……さぁお前!あたしらと一緒に、とっととこの穴の外に出てもらおうか?御大将が上でお待ちかねなんだよ!」

 猫又がそう強引に急き立てますが、突然のことに、姫は体を硬くして立ちすくむばかり。そして足元の蛇たちに、救いを求める視線を送りました。ですが、それを見透かしたように。

「無駄じゃわ。このわし、日ノ本一の蛇使い、蛇骨婆がここにいる限り!蛇どもは皆わしの味方……蛇神には今、お前の姿もこの場も見えてはおらん。

 蛇はな?賢いんじゃ。今この場で誰についたら自分の得になるのか、ちゃあんとわかっておるのよ。可愛いやつらじゃて。ひゃははは!

 ……おんや?」

 怯える姫を憎々しげにあざ笑っていた蛇骨婆でしたが、ふと気づいたのでした。

「この野槌……妙じゃな……何か……」

 それは姫の小姓、槌の輔でありました。猫又に捕らえられた姫が、腕の中から取り落とした槌の輔と、蛇骨婆の視線がその時、ぴたりと合ったのです。

「こ奴は……?いかん!猫又、蛇神に見られた!!」


 蛇神の目の前に雲霞のようにまとわりつき視界を塞ぐ、毒蛾の大群。両の掌から糸を放ち、渾身の霊力で蛇神を縛ろうとする土蜘蛛。巨大な牙で蛇神の喉元に食らいつく大百足。そして動きを止めた蛇神の体に取り付き、思い思いの得物や牙爪で攻めようと試みる無数の妖達。

 微動だにしない蛇神。側目には明らかな優勢と見える土蜘蛛とその支配の者達に、しかし実は焦りの色。

(なんたる……かくまで責めても……何一つ通じぬとは!!)

(御大将、御大将!此奴、強い……どうする御大将?!)

(焦るな大百足、それに皆の者!このまま抑えよ!!

 ……あの娘さえ捕まえてくれば……)

 蛇神の絶対無敵・神秘の石の肉体の前に、手立てを失う土蜘蛛。もはや勝利の鍵は一つだけ。神頼みをする人間たちを冷ややかにあざ笑ってきた彼が、彼らが、今はそれと同然の思いに襲われている。

 だが一方。

(どうしたらよいのだ、どうしたら……殺さずに済むのだ!)

 枯れ葉の山よりも、蹴ちらすのは容易い。だがそれは出来ない。

 蛇神は今、敢えてされるがままになっていた。この上は、彼女を攻撃することがどれだけ無駄で無意味なことなのか、彼ら自身に悟らせるしかない。確かにそれは、理としては最善で唯一。

 だが。彼女の感情が、彼女にこのままそれを続けるのを許せそうにない。

 蛇神の中にふつふつと湧き上がる怒り。

(吾は……争わぬと言ったのに!何故だ?!)

 自分の何が間違っているのか。自分に何の落ち度があったのか。

(いつも吾は……吾はこうだ、こうだった!何処へ行っても……うぬ等もか!!)

 それは蛇神の中に降り積もった、数千年の怨念。

(だから滅ぼしてきたのだ!何故耐えねばならぬ?!)

 このままでは、自分は必ず耐えられなくなる。そして彼らを殺してしまう……

 姫との誓いを破ってしまう!焦燥は蛇神も同じだったのだ。

 まさに、その時。蛇神の心中に映し出された映像。

 猫又に捕らわれた姫、そして姫を弄ぶ蛇骨婆の姿。

 姫の小姓として蛇神が選んだ槌の輔には、他の蛇達とは格別の通力を蛇神から与えられていたのである。すなわち蛇骨婆の支配は槌の輔には及ばない。己の力を過信した蛇骨婆には、それが見抜けていなかったのだ。

(これは……姫!まさか、まさかうぬ等……姫に、吾が妹に手をかけるか!!)

 そしてついに、蛇神の心の堰は切れた。

(続)



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