十二の巻「吾が妹に」(その一)

 仄暗い鬼火の揺らめく、ここは蛇神の洞の宮の最奥。蛇神はその時、夢を見ていました。花、星、海。様々な幻が彼女の眼から暗闇に映し出され、そして同じ眼でそれを見ています。それは以前は蛇神の仮初の安らぎの時間だったはずでした。

 でもその時。

 蛇神は震えていたのです。彼女の心を脅かす何かから逃れるために、それらの幻が必要だったのです。一体何から?そう、蛇神は今、洞の片隅から視線を頑なに逸らしています。

 そこにあるもの、そこにいるもの。

 地面には、こんもりと小さな土饅頭が一つ。突き立てられた木札に泥で書かれた文字は「槌の輔」。そしてその傍にひっそりと座る一人の人影。蛇神の鬼火がうっすらと照らすその顔はまさしく、あの蟲愛づる姫君。

 いったい何故、死んだはずのあの姫がそこにいるのでしょう?

 いえいえ、それよりも。

 可憐な面影こそ紛れもなくそれはかの桜姫、ですが、その姿は一体どうしたことなのでしょうか?

 時は遡って。それは蛇神と土蜘蛛との、あの戦の夜のことです……


 蛇神が呼んだ雷雲から、やがて雨が降り始めた。

 鬼火燃える蛇神の石の眼は、涙に潤うことはない。その涙を流したことのない蛇神に代わるかのように、天が泣く。

「ああ姫、姫や……どうして……何故だ……」

 空を仰げば無情の雨、地に眼を落とせばそこに、泥水にまみれた姫の無残な骸。誰に問うことも出来ず、答えも返って来ないその問い、だが蛇神は虚しくそれを繰り返した。そしてようやく、彼女はそれを問うべき存在に思い至る。

「ほとけ……ほとけか?吾が姫との誓いを、殺すなというほとけの戒を破ったゆえか?ほとけが、吾を罰したと……だが何故だ?!」

 黒い雨雲に覆われ、今は姿を消している月。天を仰ぎ蛇神は探す、それがほとけの化身であるかのように。

「ほとけよ!!これが吾への罰だと言うなら、何故姫の命を奪うのだ?!何故姫が死なねばならぬ?!」

 姿を隠し続ける月に、ほとけに。幾度同じ問いを投げたのであろうか、蛇神はようやく気づいた。まさしく、のである。

 姫の曰く。仏とは、真理に向けて目を開かせる者。真理を指し示す者、真理を悟らしめる者、そして真理への道に入らしめる者。

 命とはかけがえのないもの。その単純であるがゆえに絶対の、この世の真の理。

「そうだ……吾は知らなかった。気が付かなかった。決して死なぬ身のこの吾には思いもよらなかった。

 虫も、魚も、鳥も獣も、そして人も。死んでは産み、減っては増える。吾の眼には、全て一塊の同じ群れとしか見えていなかった……だが、姫は、吾が妹は数多の人の中にただ……ただ一人!他に替えなど決しておらぬ!!

 いや……姫だけにあらず……

 すなわち、すべての命には他に替えがないのだ……

 ほとけよ、だからお前は「決して殺すな」と……

 ならばこの幾千年、吾のしてきた事は……?

 そしてほとけよ……よもやお前は……それを吾に知らしむるために、姫を……?」

「悔いる」という感情。蛇神はそれを初めて感じた。あの大百足の剛力にすら小動もしなかった彼女の全身が、今この時、ねじ切られるような悲痛に震える。

 しかし、蛇神は敢えて天のほとけを糾する。

「解せぬ!断じて!それならば、命を失うのはこの吾であるべき!ほとけよ!

 ……命に替えはない。それが天の理であるならば、ならばそも、この吾はなんだ! 決して死なぬ石の蛇、こんな者は……吾こそが、この世にあってはならぬ!

 ほとけよ!お前が天地の定めを知り司る者であるなら!今こそ、この無理をこそ正せ!世にあるべきでないこの吾の命に引き替えて、あるべき姫の命に替えよ!!

 ……替えよ……姫は言った、お前は森羅万象の救い主であると……姫はそう信じていたのだ……どうか……」

 忽然と雨が上がり、雲が切れる。現れた月影の、青く冷たい光。

 そしてその瞬間。蛇神の腹に突如生まれた灼熱。そしてそれは、彼女の喉元に上がってくる。口から喉へ、腹の底まで手を入れられて、をもぎ取られ掴み出されるような、そのかつてない感覚。耐えきれず大きく身もだえる蛇神の巨体が大地を揺さぶる。

「!」

 苦悶の声にならない叫びとともに、ついに蛇神は何かを吐き出した。小さな、人の掌に乗るほどの光る球体、一滴の溶岩のように燃えているそれは、蛇神の口から、姫の亡骸の間近に落ちた。雨に濡れた地面がその熱で煮え、それは冷え固まる。その場に現れたのは一箇の白くつややかで丸い石の珠。だがそうと見えたのはつかの間、たちまちそれは粉々に砕け散った。そしてはらはらと散ったその破片は霜のように宙に溶け消える。

 自分の体に何が起きたのか、自分が吐き出したそれは何だったのか。激痛の消えた反動で一瞬呆けていた蛇神がはっと我に返り、ぼやけた視界が元に戻ると。

 驚くべきことが起こり始めていた。押しつぶされた姫のあの無残な亡骸が動いている。初めは浜に打ち上げられた章魚ののたうつような、無意味で不自然な蠕動。しかしその亡骸は次第に形を整えて元の人の形に戻り、骨と節が許すべき正しい姿勢と動作を取り戻していくではないか。蛇神はつぶさに直観した。彼女の体内の無尽蔵の神秘の生命力、その一部があの白珠に宿って直接取り出され、姫に与えられたのだ。無論蛇神自身、これまでかつて、そんなことをしようとも、出来るとも思っていなかった。そのは、天が為したか、仏の神力か。

「おお……これは……これは……!!」

 姫が蘇る、その奇跡。驚きと歓喜に蛇神が心の愁眉を開いたのは、しかしつかの間だった。蛇神が己のその眼を疑うような、もう一つの出来事。次第に姿形を整えられていくと思われた姫の肉体、だがそこに、異様な変化が表れ始めたのだ。

 錦の鱗に包まれた姫の美しい肌に、巻き付き張り付いていくのは、百足の背の甲。

 はらはらと舞い降りては姫の体に浸みつき、飛ぶことを捨てる毒蛾の翅。

 そして、姫の頭にみどりなす髪を中から貫いて、簪のように伸び出る蜘蛛の脚。

 今、姫を蘇生させている蛇神の奇跡の生命力。だがそれにすがりつくように、その場で死んだ妖達の霊気魂魄が集まり、姫の体をその依り代とし始めたのだ。

「……よせ!寄るな、うぬ等、姫から離れよ!!」

 蛇神は狼狽し、手をこまねきただ叫ぶ。だが彼女にはそれを防ぐ何の術も無い。むしろそれをあざ笑うかの如く、姫の体にすがる妖達は増えていくばかり。

 ほとけ、

 蛞蝓なめくじ蝦蟇がま蟷螂かまきり蝙蝠こうもり、地虫、蠅に蛆。

 百虫をその身一つに溶けあい宿らせた、まさにその姿こそ【蟲愛づる姫君】!

 「……ああ……蛇神さま……」

 やがて目を開き、半身を起き上がらせ蛇神に片手を差し伸べる姫。

 その瞳は猫。爪には蛍の緑の光が灯っていた。

 月下に、再び蛇神の悲鳴が木霊した。


「……姫や」

 長い長い迷いとためらいの後で。自分の作り出す幻への、決して逃げ場の無い道行からやっと戻ると、姫からなおも眼を逸らしながら、蛇神は震える声でそう語りかけました。

「吾を憎しと思うか……?」

姫もまた、伏し目がちに蛇神に向き直り、こう言うのでした。

「……はい。お恨み申し上げております。蛇神さま、あなたの不実を……」

(続)

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