十二の巻「吾が妹に」(その二)

 あの恐ろしい夜の戦が、惨たらしく幕を閉じた後。変わり果てた姿の姫を誘い、蛇神は再び地下の洞の宮に逃げ隠れました。

 何から逃げたのでしょう?そう、仏の目から。

 こうして洞の暗闇の中に戻った今でも。蛇神は、どこか天高いところから仏に見下ろされ覗かれているような気がします。

(吾はほとけが畏ろしい……そうか、畏れというのは……)

 こんな気持ちを言うものか、と。蛇神はそれを生まれて初めて知ったのです。一度は死んだ姫を蘇らせた仏の神力、それもさりながら、しかもその姫の今の姿。あの時自分はすぐ傍にいたというのに、蛇神にはどうすることも出来なかったのです。

 幾千年の間、万能無敵と誇り驕っていた自分の力を遥かに超えた、仏という者。

 蛇神は思い浮かべながら、首を縮めて震えていたのでした。

「不実……いかにも。吾は不実であるな……」

 重い口でようやく姫に言葉を返した蛇神でしたが、その眼は姫から逸らしたまま。蛇神は姫を見ることが出来ないのです。いえ、眼を逸らしたところで、その姿は眼の裏の奥に焼き付いて消せないのですけれども。だから先程まで蛇神は、自ら幻を映してそれを見て自分を欺こうとしていたのでしたが。

 姫のあの美しかった錦の鱗の衣、けれど、今やそれは姫の体に取り憑いた百蟲たちにすっかり覆い隠されているのです。胸から背に、そして裏返って腹に、巻き付き張り付く百足の甲。それは這い回ることも出来ないのに、長い角をゆらゆらと振りかざし脚をざわめかせています。肩から胸元、首筋にとまった毒蛾達は、胴の半ばを姫の体に埋め、脚を失い飛び立つことを止めたはずなのに、時折その翅だけをひらひらと。そして蝦蟇の脚が、蝙蝠の羽が、蟷螂の鎌が。姫に取り憑いた妖たちの体の一部が、体中のそこかしこにでたらめに生えて蠢く、その浅ましさ、恐ろしさ。

「そなたのその姿、それは吾の破戒の罪ゆえ、それなのに!吾は今、姫や、そなたを見ることが出来ぬ。不実である……!!」

 はらわたのねじ切れるような苦しい声で、蛇神がそう答えると。姫は返してこう言ったのでした。

「蛇神さま。『美しい』とは、『醜い』とは、そういうもの、そういうことなのです。美しいものを見ては惹かれ酔いしれ、醜いものに出会っては寒気を覚え吐き気に苦しむ。五蘊盛苦ごうんじょうく。どうにも抗えないものであるからこそ御仏は八苦の一つにそれを数えられました。ですから。

 今の私の姿を見て、醜し見苦しと蛇神さまが思われること、私はそれを嘆きはいたしません。お忘れではございませんね?初め、毛虫かはむしのような身の私は、それを覚悟して蛇神さまのもとに参ったのです。全ては元に返っただけ。

 不実と申し上げるのは、そのことではございません。あなたがそうして一人、何もかもご自分のせいにしてしまわれること、私にはそれが口惜しいのです。連れない思し召しだと思うのです。それをあなたの不実と申し上げているのです」

「……?」

「蛇神さま。御仏は慈悲深いお方でございます。誰にも罰をお与えにはなりません。全ては因縁果報、因、すなわち己の行いがそれに相応しい報いを返すだけ。ですが私の因と蛇神さまの因は決して別々のものではございません。そこに妹背の契りという決して切れない縁がある、そうではございませんか?

 蛇神さまはあの夜、確かに不殺生の戒を破られました。けれど此度のそれは、私を護るため。蛇神さまが私のためにお怒りになったからでございます。なればこそ!御仏も私に破戒の果報の一半を担げと思召したのに違いありません。

 蛇神さま。かくも見苦しくなり果てたこの私を、あなたはお見捨てにならず、なおもこうして再び洞の宮に、お傍にお招きくださった。

 私はそのあなたのお情けを嬉しく思っているのです。心の底から。

 ですが、だからこそ。そうしてあなたが今の私のこの姿を、ご自分のみの罪咎としてご覧になってお苦しみになられることが、私にはつらく寂しいのです。

 蛇神さま、どうか。半荷を降ろして、それを私に共に担わせて下さいませ」

「姫に吾の罪の一半を?ああ!姫や姫や、吾には出来ぬ!!」

「蛇神さま……」すると、姫は重ねてこう言ったのです。

「嘘をおつきになってみてはいかがですか……?」

「……姫?嘘をつけ、とは?」

「なぜ人は嘘をつくのでしょう?それは、人の心はいくつもの違う思いに染まり、それぞれが本当の思いでありながら、食い違ってしまうから。一つの思いに正直であろうとするなら、別の思いには逆らったことを言わなくてはなリません。

 それが、嘘の始まり。嘘の裏にも誠はあるのです。全ての心に一度に従えないのならば、いっそ一番大切な思いだけでも掬い寄り添うことを、人は願うのです。

 蛇神さまが今、心想い乱れてお苦しみであるなら。どうぞこの私に嘘を一つ、おつき下さいませ。それで蛇神さまの心が、たった一つだけでも安んじられますように。

 御仏はこうもお教え下さいました。『決して嘘をついてはならない』と。ただそれは、人に……衆生にとって嘘をつかないことが難しいからなのです。たやすく出来ないことだからこそ、御仏はきつくお咎めになるのです。けれど、お互い嘘と承知でつきつかれる嘘ならば、きっと悪因縁にもなりはいたしません。御仏もお咎めにはならないでしょう。

 難しいですか?そうですね、蛇神さま、あなたは嘘を何より嫌っていたお方。嘘のつき方がお分かりにならないのですね。私は嘘つきです。嘘の衣でずっと自分を偽ってきたのが私です。教えて差し上げましょう……こうです。

『蛇神さまは、虫たちを好むこの私の無聊を慰めようと、私の求めに応じて、野で虫を狩り集めて私にお授け下さった』のです。『集めた虫でその身を飾れ』と。

 ……そうでしたね?お忘れでしたか?」

 姫のその嘘、その裏に隠されたたった一つの誠。

(姫よそなたは、吾が罪の重さに苦しまぬように、と……自分のせいにせよと……ああ!それほどまでに……)

 不実不甲斐ないこの自分を、憎みながらも恨みながらも、なおも慕うその心が、蛇神には手に取るように見えるのです。あの夜に見上げた、雨雲の中から姿を表した月のように、煌々と輝いて。

「そうだな、姫よ……、吾は何をうっかりしていたのであろうな、そうであった……姫や」

 そう言って、蛇神は優しく声を震わせながら歌います。


 吾が妹に 吾が妹に

 宮で待ちたる 吾が妹に

 何をか土産に 帰りなむ

 山で狩りたる つや良きものは

 土蜘蛛の脚 百足の背

 みどりの髪に 飾らむか

 柳の腰に 結ばむか

 たれも見知らぬその姿

 吾のみぞ見ゆ


 吾が妹に 吾が妹に

 宮で待ちたる 吾が妹に

 何をか給はば 笑いなむ

 闇に狩りたる 奇しきものは

 猫又の目に 蛍の尾

 円けき瞳に 重ねむか

 真白き爪に 燈さむか

 たれも たれもまみえぬその姿

 吾のみのもの


 いざや いざや いざや帰らむ

 吾が妹のもと


 姫の頬を伝う涙。蛇神もまたすすり泣くように鳴いたのでした。

 そして。

「蛇神さま。どうか夢の続きをご覧になって下さいまし、蛇神さまのお心が安らぐように。諸国の美しい景色、花、私もあなたと同じ夢が見とうございます」

 自分を見る代わりにと、姫は言うのでしょう。蛇神は。

「ならば姫や、吾に聞かせておくれ。ほとけの事を。吾もほとけを信じてみたいのだ、姫や、そなたと心一つになるために。

 吾は聴きたい、それを、姫のその声で……」

「はい……」

 蛇神の映し出す幻を見やり、槌の輔の亡骸が眠る傍らの土饅頭を撫でながら。やがて姫は鈴虫のような声で静かに、観音経の偈を誦し始めたのでした。


 だがその時。

(……大殿様、大殿様、どうかそればかりは、どうか……)

(……蛍よ。先にお前の諌めに従わなかったこと。認めようぞ、あれはわしの過ちであった。わしが愚かであった。それがため、数多の妖が空しく露と消えた。何もかもすべて、このわしの咎。

 ……されど、ならばこそ!愚か者のこのわしが、愚かを重ねるべき……なんとしてでもあの夜の蛇神の無法無情に、せめて一矢を報いねばならぬのだ。

 蛍よ、此度も!わしを留めることは出来ぬぞ……!)

(ああ……姫様、お許しくださいませ……)

にいればいつか必ず機は訪れる。必ず……その時は!!)

 迫る怨念。しかし蛇神と姫には、その二つの声は聞こえない。

 彼らはにいるというのに……

(続)


 ※作中歌「いもに」

 YouTubeで … https://youtu.be/1VAXNxuWhlE

 ニコニコ動画で … https://www.nicovideo.jp/watch/sm15397221

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