三の巻「燃える都」

 瀬戸の海の東の行き止まり、摂津国つのくに渡辺津わたなべのつの港に「竜」が現れた、と。都に聞こえて来たのは、その日の夕刻、まだ日の落ちる前でありました。

 大内裏に駆け込んだ摂津の国司からの急使は、人も馬もしとどに汗に濡れ、息も絶え絶えの有り様。朱雀門を過ぎてすぐに、馬から転がり落ちるように降りてその場に倒れ込み、それでも必死の大声で人を呼ばわります。何事なるやと駆け寄った大内裏の役人達に向かって彼が懐から取りいだした文、そこには国司の印形と震え乱れた文字でただ一行、「主上、急ぎ都より逃れられたし」と。そして使者は言うのです。

「もう時はございませぬ、竜は間も無くこの都に……渡辺津も難波津なにわづも……何処もことごとく申した!どうか主上にお伝えを!!」

 無論、にわかには信じられない話です。都の周りには今、そんなものの姿はおろか、気配すら感じられません。しかし、使者の文にある国司の印形に偽りはなく、その異様な文はただごとではありません。そして何より、使者の恐怖に震え歪みきった面。その場に集まった諸官が顔を見合わせた、まさにその時。

 都の南の端、羅城門の外から、凄まじい地鳴りと共に地が大きく揺さぶられるのを、都人全てが感じたのです。諸人は思わず跪き、家の内では柱に、外では塀に縋り付くと、誰もが南をさして振り返りました。

 ああ、そこに。

 地割れの中から忽然と、羅城門を遥かに高く超えて、鎌首をもたげ都を見おろしている白い竜、すなわち蛇神の姿。太宰府を水に沈めてから、かの者がこの都に現れるまでは、わずかに三日ばかりのことでした。


「何とも小さな『城』よ、これが倭の都であるか。ふふ、こんなものであろうな、この小さな国では。だが『君子は南面す』、それは唐と変わらぬか。さだめし、あれに見えるがこの国の王の宮であろうぞ。

 ……さて?いかにしてくれようか?ふふふ……」

 蛇神は目を細め、口の端を軽く歪めた。「ほくそ笑んだ」のである。

「北の奥の正面に王の宮、道を挟んで西と東に人間の住処。しかしどうやら東の方がずっと栄えている。人間の巣がより大きく、そして混んでいる。西はちと荒れておるな……」

 そびえ立つその巨大な体の高さから、都の様子を一望。蛇神の目は、遥か遠くを、しかも虫眼鏡を使うように克明に捉えていた。右に左に首を振って、都の様子を仔細に品定めして。

「よし。このまま南より、西半分をながら宮まで参るとしよう。どのみち、かくまで寂れているのだ。無くなったところで、人間共にとってもどうということもあるまい。半分が分相応よ。

 東半分は残す。に、な……

 倭の王も見てみたい。気付かれぬよう、途中は地の中を進んで来たのだが……逃れてしまうかもしれぬな、あまり丁寧に潰していては。

 いや、それもまたよし。追うも、逃すも吾の思うがまま……」

 蛇神はその言葉の通り、まず羅城門を薙ぎ倒し都に入ると、朱雀大路をややしばし北進したのち、ふいと西に向かった。そして都の西の端に着くと、また北に、東に、そして朱雀大路を北に進み、また西へ。雑巾がけでもするように、蛇行しながらじわじわと内裏に迫っていった。

 途中。家々を、牛車を、馬を、人を。唐棹で稲穂を叩くように、天高くから勢いよくその巨体を倒してのしかかっては、また鎌首をもたげて、次の的を探す。蛇神の進むところ、何もかも踏み潰されてささらと化してゆく。のように!

 蛇神にとっては、そのふらふらとした進路は予定通り。だが、間近に襲われる人々にはそれは気まぐれにしか見えない。西に東に北に、追われる人々の阿鼻叫喚の渦はたちまち大きくなり、その混乱が、逃げようとしながらも自ら逃げ場を塞ぐ。

 そして、時は夕暮れ。人々はそろそろ灯明を灯し、晩の食事を炊ぐためかまどに火を入れはじめていた。しかし蛇神に追われ、それを捨てて逃げる。番人を失った火はそこかしこに燃え移り、やがてどこからともなく、大きな火の手が上がり始めた。

「ほ、これはよく燃える……ふむ……?」

 蛇神は家々に火が燃え移る様子に気づき、ふと動きを止めた。最前から、蛇神は内心面倒を感じていたのだ。寂れた西の京、とは言え大内裏に近づけば次第に「人の巣」の数が増していくことに。

「潰すもいいが、それは途中の港町でもう存分に……いささか飽いた。ならば焔で追い立てるも一興、高みの見物も出来るか。よい。

 ……風を呼ぶとしようぞ」

 忽然と都に、激しい南風が吹き始めた。地水火風を自在に操る、蛇神のその通力。たちまち地上の炎は勢いを増し、全てを薙ぎ払う。巻き起こる業火の嵐の中、蛇神自身はそれをものともせず、ゆうゆうと北へ、大内裏に向かって這い進んでゆく……


「お願い、車を止めて、お願い!」

「姫様、なりません!もう火の手が近づいているのです。それに道がどんどん混んで……このままでは車が立ち往生してしまいます。早くお逃げにならなくては!」

 燃える都。西の京、右京では南から北へ、その苛烈な炎は、人々を追うように燃え広がります。蛇神は実のところは、巧みに風を操って、朱雀大路から東の左京には炎が広がらないようにしていました。しかしそんなことが当の蛇神以外の誰に分かりましょう。大納言の姫の住む館のあった左京でも、どの大路も小路もすでに、逃げ惑う人々の群れで、身動きも取れなくなろうとしているのです。

 そして姫を乗せて逃げる牛車も、その中に。

 なのにどうしたことでしょう、姫君は、牛車の後簾うしろすだれを食い入るように掴んで離さず、しかもあろうことか、車から降りようとしていたのです。

「止めて、降ろして下さい!」

「なりません!姫様どうか、お気をお鎮め下さいませ!!」

 焦る柏木は、同じ牛車の中で必死に姫をおなだめしようとします。ですが、普段はあんなにおとなしやかで素直な姫君が、この時ばかりは、まるで彼女のいうことを聞き入れません。そして声も枯れるばかりに泣き叫ぶのです。

「見える!あそこに、見えるの!!もっと近くで……降ろして!!」

 後簾を透かして、姫君は「何か」にすっかり、目もお心も奪われているご様子。このままでは走る牛車から飛び降りかねません。しかし辺りは道を埋め尽くした車、馬、人の波。悲鳴と怒鳴り声がごうごうと渦を巻き、貴賤富貴を問わず、立ち止まる者は倒され、倒れる者は容赦なく踏みつぶされています。こんな中にか弱い姫が巻き込まれてはひとたまりもないでしょう。かくては、と。柏木は前簾まえすだれを半ば上げて、車の外に手招きしながら呼びかけます。

「誰か!姫様がでいらっしゃいます!かまいません、車に上がってお抑えいたすのです!」

 その時牛車は車副くるまぞいの者達の他に、大納言家に仕える侍が取り囲んでお守りしておりました。高貴な姫の乗る車、常なら男の家来が中に乗り込むなどあってはならないことですが、柏木も最早そうは言ってはいられなかったのです。その求めに応じて、大納言家に長く仕え、侍の中でも特に一目重きを置かれた練達の者が一人、ながえを素早く飛び越え「御免!」と一声、前から牛車に飛び込みます。柏木と素早く目を交わしうなづき合うと、侍は姫の肩に手をかけて車の中央に引き寄せようとしました。

(これは……!)侍は驚きます。か弱い姫君の、思いもよらぬその抵抗、その強さ。簾を掴んだ両手の指は、御自分の掌に食い込んでしまいそう、そして侍の手を振り解こうと身を右に左によじるその勢いも、まるで、罠にかかったばかりの猪や虎もかくや、と思われる程。侍は、これでは遠慮は出来ぬと腹を決め、引き倒してもままよとばかり、ぐいと一気に力を込めます。姫の体は堪らず下がりました。

 しかし姫の手は、固く前簾を掴んだまま……!

 そしてとうとう前簾は引き千切れてしまったのです。逃げ惑い、逃げ場を失ってお互いを押し潰し合う、人々の地獄のような有様が、光景が、遮るもの無しにたちまち牛車の中に飛び込みます。

「ひい!」それまで姫のため気丈に振る舞っていた柏木が、その浅ましくも無残な光景に、堪らず声をあげ怯みます。侍もうむむと息を呑み、今度は素早く姫の前に回り込んで、抱きかかえるように姫を護ろうとします。

 しかしその姫は。

 侍の肩越しに、そして目の前に広がっているはずの地上の地獄絵図を透かすように、遠い眼差しで【何か】を、うっとりとした目つきでご覧になっているのでした。

「ああ、あそこに……見える、なんて、なんて……!」

 姫君のご覧になっていたもの。轟轟と燃え盛る炎に照らされて、右京の空高く揺らめく、巨大な陰……

(続)

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