二の巻「蛇神渡来」

 都を遥かに、ここは日ノ本の国の西の要、太宰府。

 かつては、海を越えてやってくるつわものに備えて防人が物々しく護りを固める要塞であったこの地も、京の都の華やかに栄えるこの頃ではすっかり長閑なもの。外国とつくにとの戦など今はとうの昔、かつての猛々しさを収め、代わって西国のまつりごとの要所として。無論都ほどではないにせよ、それに見合った華やかさ、賑わいをもって栄えておりました。

 その日までは。


「おい、あれは……何だ ?見ろ !」

 海に向かって物見の役を務めていた、二人の防人。ここ数十年来、すっかり形ばかりになってしまった、退屈な「哨戒」任務。こうしてうすら寒い海風にただ吹かれているのはいかにも馬鹿馬鹿しい。いい加減に切り上げて、仲間たちのいる詰所で白湯でも一服しようではないか、役場に戻れば牛馬の世話に掃除に、あれもこれも!われら「防人」にはやらなければならない「雑務」は他にいくらでもあるのだから、と。

 どちらからともなく言いかけた、その時。

 片方の防人が、洋上のそれに気づいたのである。

「水柱…… ?」

「大きいぞ !」

 彼らがぼんやりと眺めていたうららかな海。だがそこに、忽然と巻き上がった潮の柱。浜からはまだかなりの距離があるはずだが、すでにただならぬ巨大さがうかがえる。そしてどうやら、こちらに近づいてくるらしい。

 竜巻だろうか ?二人の防人は緊張した顔を見合わせる。もし嵐の前触れなら、それは一大事。退屈で無意味だったはずの物見役の任務は一転、にわかに重くなった。

「わしは残って見張る。お主は皆に知らせに行ってく れ!」

 おうと一声、仲間が慌てて防人の詰所に駆け戻って行くのをちらりと見送り、残った防人は弾かれたように素早く海上に視線を戻す。

(おかしい、一体あれは ?)

 水柱はいよいよこちらに迫ってくる。見張りに残った防人の胸に、ようやく湧いてきた疑念。眼前には、潮を巻いて天高く、明らかに立ち昇る水柱。遠目にそれを竜巻と見たのは、彼以外の誰であっても無理からぬこと。だが。

(風が、吹いておらぬ……まるで !)

 そう、物見台のあるこの浜一帯、そよとも空気が動いていないのだ。始めは何とも思わなかった。まだ遠い。あの水柱、すなわち竜巻が浜に接近すれば、やがて強風が吹き荒れるであろうと彼は予想し覚悟を決めていたのだが。

 防人は、天を仰ぐ。彼の目に映る、雲一つないうららかな快晴の空 !最前、仲間とあくびを噛み殺しながらぼんやり眺めていた、平和な海の空はそっくりそのままだ。

 しかしそこにただ一点、その巨大な水柱だけが近づいてくる。

 嵐ではない。竜巻でもない。ではあれは一体 ?!

 そして、先程知らせに走った仲間が、さらに数名の防人を連れて戻って来た時には、水柱は最早上陸寸前であった。嵐が来るかも、そう急かされて彼らは慌てて浜に来たものの、見れば辺りの天候は穏やかなまま。見張りの二人は何を血迷ったかといぶかり、内心軽く嘲っていた防人達は、しかし、その光景に言葉を失う。

 都の栄華に倣うが如く、その威容を誇っていた太宰府の政庁本殿。身分違いの彼ら防人達はそこに足を踏み入れることなど許されなかったが、毎日近くでその大建築を仰ぎ見ていたものだった。

 今、彼らの眼前にそそり立つ水柱は、それを裕に超える高さ。

 やがてその場の上空から、大粒の水が滝のように落ちてきた。水柱の間近にいる防人達は、嵐の只中のようにずぶ濡れ。にもかかわらず、水柱から目を背後に逸せば、そこには変わらぬ青空が広がるばかり。

 そう、雨ではない。巻き上げられた海水が、ただそのまま落ちてくるのだ。

 そして次の一瞬。

 水柱を形作っていた水が、全て一気に雪崩れ落ちた。防人達の眼前で海面が膨れ上がり、足元に急にまとわりついた大水に、彼らは全員足をすくわれ水中に倒れ込む。したたかに水を飲み、もがきながらもようやく立ちなおった、そこに。

 そう、最前水柱の上がっていたその場所に。

 天高く、鎌首をもたげた、真っ白な、巨大な蛇。

 うららかな青空の中、穏やかな浜辺に、それは忽然と立っているではないか。

 防人達は恐れも逃げもしなかった。いや、どちらも、出来なかった。頭の芯が痺れて働かない。そのあまりに現実味のない光景に、ただ魂を奪われ呆然とするのみ。

 巨大なその蛇は、ゆっくりと左右を伺う。そして眼下の防人達に目を止めると、舌舐めずりでもするように、口元に赤いものをちらつかせた後に。

 それは、ゆっくりと語り出した。

あれは蛇神、からの神。

 吾は蛇神、虫の神。

 吾は蛇神、禍つ神。

 崑崙の山、石の卵より生まれ出で、唐の国より東をさして、海を越えてここに来たれり……」

 低く重々しい、しかし女の声であった。ただしその巨体のゆえか、防人達が慣れた女の声などをはるかに超えた、地鳴りのような凄まじい声であったが。耳どころか、腹の皮ごと揺さぶられる感覚。

「其処な者ども、答えよ。この島は、この国の名は何と申す ?答えよ……」

「大和の国、またの名は日ノ本ひのもと……」

 防人の一人が唯々諾々と答える。もはや逆らう気力もない、その口調は、悪い夢に、悪い酒に酔ったかのよう。

やまと?ここが倭か。唐で人間共から聞いたことがある。小さな島国と。ここがそうか……よし。今一つ答えよ、ここはその倭の都なるか ?」

(これは何だ、何が起こっているのだ、こんな……こんな馬鹿なことが……)

 外国との戦のあった、かの頃とは違って。今では彼ら「防人」は、西国の、ここ大宰府近辺から集められるだけ。この場の防人たちはみな京の都など見たことも無い。

 そして何より。

(もう戦など、海の外から兵が攻めてくることなど、無いと思っていた……)

 いつの時代に於いても、時の権力者は都合よく下々の民を使う理由を作るもの。たとえもはや兵士などに用は無くとも、「防人」という「便利に使役できる頑丈な男をかき集めることが許される制度」を、支配者は、貴族たちは容易には手放さなかった。

(わしのお父っつあんも、わしが子供の頃に防人に取られた。わしも在におっ母さんを残して、こうして防人に取られた……)

 だがそれでいい、彼らはそう思っていた。所詮これがわれらの定めなのだと。防人などといういかめしい呼び名は名ばかり。牛車を引き、荘園で作物の世話に汗を流し、日々貴族達にあれやこれやとこき使われながらも、そうして穏やかに日々を過ごして老いて死ぬ。それでいいのだと、彼らは思っていた。

(なのになぜ、どうして今、こんな馬鹿なことが……)

 恐怖を通り越して、おのれの理不尽な運命に泣き笑いが漏れてくる。すっかり呆けた様子の防人たちに、しかしその巨大な蛇は、【唐の蛇神】は容赦がなかった。

「……答えよ !!」

業を煮やしたかのように、蛇神は鋭く問う。

「都……ここは大宰府だ、都ではない。京の都ならば、瀬戸の海を通ってもっと東にあると聞いている……」

「京の都、この東…… ?そうか、そうであるか……ならば吾はここに用は無い。京の都とやらに参るとしようぞ。

 都に伝えるがよい、この蛇神が参ると。、だがな…… !」

そう言うと、蛇神はその巨体を海に勢いよく投じた。

 水の中で、人が十数人手を広げてようやく囲えるような、巨木のような胴体が揺らめく。だが、防人たちにそれが見えたのはほんの一瞬。

やがて、彼らの眼前に迫る、突然の高波。


 その日、大宰府の地は蛇神の呼んだ津波により、全て水に没したのです。そして、かろうじて生き延びた急使がたどり着いたのは、目の当たりにしたのは。

 すでに西半分が焼け野原の、変わり果てた京の都でありました。

(続)

 

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