終 幕 「百目のひとり月見酒」


 たぶん――――――良い匂いがしたのだ。

 それまでも似た経験はあったし、その相手は口を揃えて言った。

 空腹を加速させる甘い匂い。

 理性を剥して本能を引きずり出してしまう匂い。


 だから、彼もそうだった。

 寂しくてつらくて腹が減って。

 どうしようもなかったから――

 牙を剥いて。

 爪を立てた。

 ただ飢渇を癒すために首筋へ噛みつこうとしたその化け猫に言った。







「――――待った、俺を食べてもその飢餓感は満たされないよ」






   *


 一人、社に帰る。誰もいないのは大抵いつも通りだが、いつもよりも少し寒いような気はした。

 この奥に眠るかがみの主――真翔まなかという名の妖狐の力は水だ。社に静謐に漂う彼女の妖気も濃度の高さも相俟ってまるで水中にいるような錯覚を起こす。吸えば肺を満たすひやりとした水。

 これがある限り、緋月ひづきは一人ではない。

 友人の門出に、寂しがる理由もない。居間の電気も点けず、台所に入る。腹が減ってはなんとやら、何か食べよう。

 紅錦アカガネからくすねた酒があるし、あまりしっかりとしたものでなくていい。つまみになりそうなものは何があっただろう。鮭の皮揚げ、鶏肉の煮物にきゅうりの浅漬け――まあ、そんなところか。

 一通りを適当に皿に盛りつけて、奥の廊下へ進む。

 かつて見鬼の少女を泊めた部屋を通り過ぎ、水の匂いが濃くなる。両側が窓の渡り廊下のようなところに歩き、中央辺りで腰を下ろす。窓を開けて、足を投げ出した。


 外は雪が積もり、白い世界が月明かりにきらきらと照らされている。

 月見酒も雪見酒も両方できる。酒が上手くなりそうだ。

 緋月がこの社に来てから初めてできた友人と酒を酌み交わした日をぼんやりと思い出す。

 酔って真っ赤な顔と白い髪との差が明らかすぎて体調の心配をするくらいだった化け猫。その真っ赤な顔で、寂しそうに語った話を、緋月はきっとわすれられないだろう。

 だから手を出すつもりなんてかけらもなかったのに、見鬼の少女をけしかけてしまった。ひとり助けたら、また他のひとりを助けなければいけなくなる。それで結局みんなを救わねばならなくなると分かっていたのに――あんなにも助力してしまった。


 まあ、後悔するのは性に合わない。

 ここを出る時の笑顔と、再会したふたりを見れば満足しかなかった。


 あの日――

 化け猫が、まだ当時百目になったばかりの緋月の見鬼の残り香を嗅ぎ付けてきて、飯を出してやった日。

 その日も、こんな月のきれいな夜だった。




   *




 白い月が煌々と輝く夜。

 飛びかかってきたまさしく化け猫じみた男の鳩尾を蹴り上げて意識を飛ばしてやり、その猫が目覚める前に食事の支度を済ませる。料理は実家にいたときから不器用な母や姉に代わりやっていたので、特に困らない。

 猫だし、とりあえず魚でも焼くか。

 自分でも安直だとは思うが、好みが分からないので深く考えるだけ無駄だ。

 猫、というより猫男と言った方が事実として正しそうなその男は居間に転がしてある。人の姿を保ててはいたが、牙や爪が完全に獣のそれだった。両手足の先から半分ほどを逆立つ体毛に覆われ、四つん這いで威嚇する姿。

 なんでわざわざ人の姿を取っているのかは知らないが、長くはもたなそうな感じだ。もともと人に近い姿をしている妖ならいざ知れず、化け猫や化け狸なんかが人に化け続けるのは相応に体力を使うらしい。あんなにも消耗しているのなら、猫の姿に戻った方が幾分楽だろうに。

 それから社の結界をもっときちんと張らなくては。こんなに簡単に突破できるようじゃあだめだ。奥に眠る彼女を守りきれない。

 と、居間でうめく声がする。どうやら起きたらしい。

 ちょうど魚も焼け、米も炊けた。起こす手間が省けたのはよかったし、起こす前に冷めてしまわずに済んだのもよかった。

 てきとうな皿に配膳し、お盆に乗せる。この社、なんだかんだと複数人で食事をした形跡があり、どうも食器の数が多い。

 玉暖簾を左手で避け、居間に入る――とぼろぼろの身体を無理に動かして威嚇する化け猫がいた。左右目の色が違う。右が青で、左が緑。白い体毛だけならまだしも、あまりにも日本猫離れした色彩だ。

 まあ、今の時代ロシアンブルーだとかアメリカンショートヘアだとか、海外の品種の猫はそこらじゅうにいるので珍しかないけれど。


「――い、イにお、い」


 鮮やかできれいな目の色をしているのに、それが極限まで細くなっている。ともすれば裂けているようにも見えるくらい上がった口角の隙から覗く鋭い牙。

 いいにおい、と呟くあたりまだ意識が混濁しているらしい。――今の緋月を食べたところで、なんにも意味はないのに。

 一歩引いて盆を台所のテーブルに置き、立てかけていた錫杖を手に取り――


「だからね、俺を食べても意味がないんだって」


 と――玉暖簾を突っ切って飛び掛かってきた化け猫をはったおした。

 ぎゃっと呻いて、化け猫が仰向けに倒れる。その隙に焼きたての魚を口に押し込む。そういえば猫舌、と思った時にはすでに遅く、目を大きく見開き涙が滲んで叫ぶ化け猫――


「あっっっっつ!!」

「いや、あの、ほんとごめんね」


 のた打ち回る化け猫にさすがに動揺する。しかしこうするほかあるまい。無理にでも正気に戻さなくては『いいにおい』の元凶が話を聞いてもらえる訳もない。

 ごめん、と繰り返して化け猫が落ち着くのを待つ。

 せめて吐き出さずになんとか飲み下してくれた化け猫は火傷したらしい舌をだらんと出して恨めし気に言ったものだ。


「くそが、なんてことしてくれるんだ」


 その言葉には文字通りの恨みが詰まっていたわけで、それについてはひどく反省した。その頃の緋月は緋月で、自分のことで精いっぱいだったからそんな乱暴なやり方でしか目を覚まさせてやれなかったのだ。

 ――まあ、あとになって思えば。

 この時の恨みなど彼が腹の底にずうっと押さえつけていてなお染み出るそれに比べたらちっぽけもいいところだったのだが。

 ともあれ、火傷した舌を冷やすべく氷を化け猫の口に放り込む。それをころころと転がす化け猫の顔色は悪いものの、意識ははっきりしているようだった。

 それと氷水を渡し、化け猫が引き続き舌を冷やす。妖だからそう時間はかからずに痛みは引くはずだが、十五分ほどが経っても痛みは引かないようだった。


「だいじょうぶ?」

「ああ、まあ、なんとか。痛いけど」

「氷水もっといる?」

「いや、結構だ。つうか何を入れてくれたんだ、熱した泥団子なんてどんな護身術だよ」

「……え?」


 怪訝に思った。そりゃあそうだろう、口に突っ込んだ魚はついさっき夕市で買ったばかりの新鮮な魚だったんだから。仮に腐りかけを掴まされていたとしてもまさか砂の味なんてするわけがない。

 確認に、残る自分用の魚を食べてみる。ちゃんと魚だ。ふっくらと焼けていて、ずしりと旨みが染み出してくる美味しい焼き魚。

 しかし化け猫も嘘を吐いているようには見えなかった。

 まだ口にまずさが残っているのか、注ぎ足したそばから水がなくなっていく。痛みもあるだろうが、不愉快な味を消すように何度も舌を出しては水を含む。

 この魚を食べて、不味いとすれば。


「あの、あなた、ほんとうに人間が食べたいんだね」

「――――――――――――――――――――は?」


 本人も忘れていた事実を引きずり出されたかのように化け猫の妖気が禍々しさを帯びる。どろりと纏わりつく重みが部屋に満ちていくのがわかった。

 忘れていたんじゃあない。必死に気が付かないふりをしていたたぐいだ、これは。

 どんな理由があるかは知らないが、この化け猫は人の血を強く求めている。

 泥の味がしたという魚は黄泉に続く川――つまるところ、妖の世で採れた魚だ。妖たちの食べるものであり、人が食べれば妖に近しく体を作り変えてしまうもの。味の好みこそあれど、大抵の場合は妖であればまずいなんて感じない。本来食べるべきものだからだ。

 けれど、それを食べられない――というのは、妖としてなかなかに危ない状況と言えるだろう。

 たとえば人の子が妖の世のものを食べて体を作り変えられると、人の世の食べ物すべての味がしなくなると聞く。妖の場合、人の世のものもなんでも食べるからそれだけで変わることはない。一方通行なのは人から妖へ、だけだ。

 だからこそ、妖として妖の食べ物が食べられなくなるというと、病を除けば理由はひとつだ。


 ――――はるかに美味しいという、人の血の味を忘れられない。

 甘くて、とろけて、けして忘れることができないという人の子の味。

 まあ、あの鬼気迫る様子を見て察するべきだった。

 緋月が纏う『甘い匂い』というのはまさしくそれだ。正確には、『見鬼を持つ人の子』であった頃の残り香。

 好きな少女のために一度はその目を賭けて命を救い、再び彼女に関わるために得たのは妖怪百目の目。百目という妖は自身の目玉を飛ばし、それに触れた人間に根付いてその者をも百目にしてしまう。

 人の世を捨てて数年。ゆるやかに時間をかけて百目となっていく緋月の身体は未だ人であった頃の匂いを残しているのだ。

 この匂いに釣られてくる妖は数多、その中でも人の子の味を知るものはひどく必死だ。

 人の子であった頃から見鬼を狙う妖の相手は慣れているので、なんとかどこも食われずにいるが。


「しかしだよ、化け猫さん。今の俺はすごくいい匂いがしたとしても、食べても無駄なんだよ」

「――――」

「俺のそれはもうどうしたってただの残り香なんだ。肉自体はすでに百目のそれで、食べてもおいしくない」


 そう、食べたところで人を食べたことにはならない。たぶん味も人の子ほど甘美ではないのだと思う。食べたことないから知らないけれど。

 魚を用意したのは、ふつうに腹を満たせば興味も失せるだろうと思ったから。この化け猫はそんな段階をとうに通り過ぎていたのだ。

 化け猫は自分を落ち着かせるようにいくつか深い呼吸を繰り返す。小刻みに震えていた指先や肩が呼吸に合わせて落ち着いていき、それでも残る震えは両手で押さえつけて消した。


「すまんな、百目の……匂いに釣られて失礼をした。どうもそのどろ……いや、魚もオレのために用意してくれたようだ、無駄にしてしまってすまない」


 なんて、隠しきれていない牙を覗かせたまま笑って謝った。

 震えも誤魔化せていない。きっと飢餓感も未だあり、今にも飛び掛かろうとする自分の身体を押さえつけるのに必死だ。目の前に甘美な匂いを纏う人の子前にした、飢えた妖ほど理性抑えが利かないものはない。

 それ、なのに。


「悪かった、すぐに離れる。離れて、どこか遠くに行くから、すまなかった」


 などと謝って、体のしようとすることと真逆のことを図る化け猫の腕を掴むのは――もとよりいくら襲われようと妖をむやみに嫌うことのなかった緋月にとって、当たり前のことだった。


「待って、お腹すいてるんでしょう。それ、どうにかするから、座って」

「いや、でもこれは」

「いいから、座って。俺がいるの辛いとは思うけど、そのまま外に出て行って人を襲っても寝覚めが悪いから」


 なんなら意識を落としてあげる、と錫杖を構えてみせた緋月に化け猫はしぶしぶ炬燵の向こうに腰を下ろした。よし、と緋月はとりあえず先程焼いた魚を乾かないようにラップするべく台所へ戻る。

 そして冷蔵庫を開け、中身を確認。夕市で買ったものは使えないが、先日あちら側で手に入れた食材ならばきっと、まだ食べられる。美味しいと思えずとも食べていると感じられるものを食べれば空腹は誤魔化せる。

 調理している間、化け猫の様子はやはりつらそうだった。自分ではわからないが、この見鬼特有の甘い匂いは暴力レベルなのだそうだ。かつて緋月が名を与えた妖が切実に教えてくれた。「おまえのそれは一瞬で意識が飛ぶから、頼むから一人でうろついてくれるな」と。聞いたためしはなかったけれど。

 物理的に満腹にしてしまえば匂いにも少しは耐えられると思うのだが。

 鶏肉を切り分け、きのこと先日作り置きした切り干し大根を加えて出しと醤油、砂糖、酒と一緒に煮る。しばらく煮て味が染みる頃に溶き卵でとじる。蓋をして待つ間に、どんぶりに白米をよそる。

 その上に鍋の具を乗せて完成。手早くスプーンを用意して、化け猫に出す。


「これは……?」

「親子丼、ってやつだね。簡単なものでごめんね」


 おやこどん、とそれがどういう意味なのか分かっていない様子の化け猫はスプーンの柄を逆さに掴んで首を傾げた。使い方が分からないのか、あまりの空腹に錯乱しているのか――たぶん、どちらもだろう。


「こうやって使って、そう、その広いところで掬って食べるの」


 緋月も持って見せ、それに倣う化け猫。先ほどの泥の味がした魚を警戒するようなためらいは見せたが、緋月があまりにも自信たっぷりに構えるものだから文句も疑いも言うことなく口に運んだ。


「…………あ」

「どうかな、味、ちゃんとする?」

「なんだろう、うん……初めて食べるけど、おいしい、と思う」


 一口は二口へ、空腹を訴える本能に応えるように化け猫は親子丼をかき込んでいく。多めの量をよそっておいてよかった。咀嚼もそこそこに腹に収めていく姿にひとまずの安心を覚える。

 泥の味なら気を遣ったとしてもおいしいなんて言えないし、食べられない。


「……はあ」


 食べ終えて、一息。白い睫毛に縁取られた双眸がしっとりと空になった椀を見つめる。食べ終えた余韻に浸る様子を見ても、満足いただけたようで何よりだった。


「これ」

「うん?」

「どうして、味がするんだ」


 化け猫は、涙を厚く湛えて、問うた。

 ほんとうに、ずっと。魚と泥団子の差が分からなくなるくらい、食べ物の味が分からなかったのだろう。何かしらの理由があって、味のする食べ物――緋月が用意したのと同じ物に触れる機会がなかった。

 そんなになっても、人を食べないように耐えられるその精神性に興味が湧いたけれど、今はそれどころではなかった。


「これね、人の世の食材を使ってるの」

「人の世……?」

「うん。それで、人を食べたい感覚を誤魔化した」


 実際、それがどれほど効果のあることか緋月にもよくわかっていなかった。

 上手くいったということは、誤魔化しが効くということだった。

 妖と人の食べ物は形こそ似ていても味は違うことが多い。違うほどでもなくても違和感がある。

 緋月は慣れ親しんだ人の味を未だに好み、こうして食材を貯蔵している。こっそり手に入れているのだが、役に立った。


「人を食べたい妖ならわりと人里に下りたときに結構見つけるものだけどね。数年前からはそれも叶わなくなったけど」

「人里は……おりない。たまに様子を見る以外は、ずっと山の奥にいたんだ」


 艶の無い毛並み、よく見れば薄汚れた姿。威嚇をやめた今、体が一回り小さく見えてしまう。

 なるほど、と思う。

 ここはかがみの地だ。二つに分けられる前は、山奥や人気のない場所は多く人ならざる者の住まう場所だった。そして人が迷いこめば出てこられなくなる、ほとんど妖の世。

 そんなところにいれば人に触れる機会もなかったはずだ。

 緋月自身も迷い込んでは獲物にされそうになる経験を幾度となくした。


「あなた、いつからそんななの? 人を食べたい衝動って、そんなに長く耐えられるものでもないと思うのだけど」

「…………」


 人を一度食べた妖の、再び人を求める欲は深い。こんなになるまでもそう、長い時間を要したわけではないだろう。

 そう思って問うた。きっとこの数年、この土地が二つに分けられて人を簡単に食べられなくなったからだろうと。


「――――――もう、どのくらいか前か覚えてもない」

「え?」

「人の世の暦は分からないが、こんな食べ物がなかった頃。そう、なんだっけ……ゆ、う……遊女――がいた、ころ」


 遊女?

 吉原の花魁とか、そのことか?

 そうであれば江戸時代、数百年も前。

 開いた口が塞がらなかった。緋月など生まれてもいない。どころか親のさらに親だって影も形もない時代から、今に至るまでずっとその衝動に耐え続けていたというのだろうか。


「人を、待っている。いつか、必ず会いに来ると言った、女を待っている」


 と、化け猫は語る。


「すごく強くて美しい女だったから――オレも負けてはいけないと言い聞かせてきた。だが今夜おまえを食べそうになった、だめだな」


 だめなわけがあるか。長い間ひとりで耐え続けたやつのことばじゃあない。

 緋月は思う。この化け猫の情は深い。そして妖の想いは忘れられない、消えない、ずっと縋れてしまうから人でいなさいと散々叱った椿の木精の言葉を思い出す。

 背筋が冷えた。自分が今から辿ろうとするのはこの道だ。

 どれだけ経っても待ち続ける以外の選択肢を失い、諦めることを忘れた姿。

 社の奥に眠る少女を想う。

 彼女はいつ目覚めるのか、分からない。その日が訪れるのかもわからない。もしかしたらある日、力を使い果たして溶けて消えてしまうかもしれない。

 そうなっても、諦めることができない類の想い。


「化け猫さん」


 人でいたのならいつか忘れて新しい恋もできた。ずっと苦しくても彼女の傍にいたいと願ったのは自分だった。新しい恋よりもたったひとつを抱き続けたいと――それを嘘にしないために、この化け猫を、見捨てるわけにはいかないと思った。



「落ち着くまでここにいたらいい。何ができるか、まだわからないけどその苦しみ、弱めてみせる」



   *



 あの頃は若かったなあ、と今も言うほど成長したとは思えないまま呟く。

 あの化け猫を見捨てたとして、何があったわけもない。ただ今ほどしっかり立てていなかっただけで。

 約束の糸に惹かれてその『女』が生まれ変わるたびに顔を見に行っていたようだし、この最期の時だってきっとどうにかこうにか乗り越えて会いに行っただろう。そう、自分がしたことは余計なことだった。

 あの子が緋の名を持たなくても、化け猫がここに入り浸らなくても。

 ひやりと冷たい空気に、さらに冷たい酒が舌を撫でる。

 緋月は彼の想いの後押しを、少ししただけだ。

 ただ、思えばあの頃は妖の想いの深さをまだよく知らなかったように思う。



   *


 まず箸の持ち方から教えた。

 他に考えることがあれば、すこしは気が紛れるだろうとの意図があって集中を必要とするものを選んだつもりだった。

 化け猫は人型を取るようになってから食器を使って食べたことがないという。スプーンを見てもわかるとおりだ。フォークやナイフの扱いは緋月も自信を持たないし、そもそもここにないから、箸が練習台になるのは必然だった。

 しばらくかかるだろうから、その間に方法を練ろうと思っていたのに彼はあっという間に習得した。


「おい、緋月、豆ぜんぶ移動させられたぞ」

「うそでしょう、早い」

「慣れたら案外いけるな」


 と三日と経たないうちに食事はだいたい箸で済ませるようになってしまったのである。悔しいので箸で食べ辛いものばかりを一週間くらい出し続けたのは内緒だ。

 とはいえ、人を食べたい衝動は人の世のものを摂ることで落ち着けることは出来ていた。三食きっちり味のするものを食べられるということで、食事も楽しみになっていたからその先を急がずにすむ。

 化け猫は人の世に疎かった。山籠もりしていたので当然だ。

 人の世にはすでに簡単には行けなくなっていたけれど、緋月が実家から持ち込んだ料理本を眺めてはあれが食べたいこれが食べたいと騒ぐ。文字は読めず、ただ写真が判断材料だったものの、思えば飽きることなく延々と眺めていたような気がする。

 ある程度体力が戻ってからは、緋月の匂いに酔うこともなくなる。むしろ匂いに釣られて社を襲いに来る妖の撃退に協力してくれるようにもなった。


「おい、緋月、おまえ貧弱だなあ」

「最初死にかけてたあなたにいわれたくないな」


 錫杖を振り回し、社に押し入ろうとする不届き者を成敗する。緋月の手に余るときは化け猫がその身軽さで惑わしたり、蹴っ飛ばしたり。化け猫は結構手癖も足癖も悪かった。すぐに手か足かどっちかが出る。

 月のない夜なんかは緋月を社の奥へ隠し、化け猫が匂いに釣られてやって来るすべてを薙ぎ払う。新月は化け猫にとっても空腹が浮き彫りになる日だったし、その分を暴れて発散させていたのである。

 化け猫自身、たったひとりで長く生きて来ただけあり、多対一を制するのが非常に上手い。長い手足をしなやかに扱い、驚異的なバランス感覚とセンスで瞬く間に制圧する姿は圧巻である。化け猫の調子がいい時には緋月がいるほうが邪魔になってしまうくらいである。

 化け猫の本来の姿は小さな猫であり、大きな化け物じみた姿にはなれないようだった。というのも、彼が唯一練習した変化の術が人の姿であり、それすら耳と尾を仕舞えない下手さなのだ。ずっとその姿を取るようにしているから崩れることこそないが、既に癖がついてしまっているせいで耳も尾も仕舞った完全な人の姿への変化は出来ないらしい。

 そうして、見鬼の残り香は徐々に薄れていき、ほとんど分からなくなるころには化け猫と出会って、四十年あまりが経過していた。

 なあ、と化け猫が緋月を呼ぶ。叢雲が退き、きれいな月がちょうど顔を出す頃だった。


「オレ、八汐(やしお)っていうんだ。ずっと昔に貰った、唯一の名前」


 そうか、と緋月はいつもどおりの希薄な表情で頷いた。深くは問わなかったけれど、その時ようやく緋月を認めてくれたのだと思った。友人か、家族か、あるいはそんな感じの、名前などつかないくらい些細で確かな拠り所として。

 ずっと隠していた名前なのだ。ひとりきりでずっと抱え込んで、大事にしてきた名前。きっと彼はそれ以外の大切な何かを持っていない。そんな大切なものを教えてくれたことに、少なからず嬉しかった。


「俺は緋月だよ、八汐」

「は? 知ってるけど」

「うん、でも改めてね。――俺は百目の緋月、このかがみの地の主を守る社守だよ」


 しゃんと鳴る錫杖を前に構えて見せ、向い合って名乗る。社守、白銀の狐を守る百目。それが、自分の一番大切なものだったから、そう示した。

 化け猫――八汐も、なにも言わずにそれを受け取った。

 八汐の容体は、比較的よくなっていた。

 食事は変わらず人のもの。それで大体は収まっていたし、緋月自身の匂いが薄れたらもうほとんど本能を呼び覚まされることはない。八汐は少しずつ、社にいなくても活動できるようになってきていた。

 しかし――


「ぐ、あ――うゥ、あ……ッぐ」


 夜中に人の姿が中途半端にしか保てなくなるほど苦しむときがあった。人のなめらかな肌ではなく、白い毛並みが顔を出した獣の手足。長く鋭い爪。剥き出しの牙――本能に突き動かされそうになっている姿だった。

 そういう日は決まって緋月を部屋にも入れず、一人でただ戦う。戸を開けられてしまえば飛び出て走る。走って、どこにいるともしれない人の子を探しに行ってしまうのを、八汐も緋月もよく分かっていた。

 夜は誘惑が多い。暗いから見えない。化け猫が食べたと気付かれない――と囁きがあるのだという。

 そういう夜は、緋月も部屋ではない。

 唯一の出口の、居間の外。祭壇で眠る。それ以上外へ出さずに済むように、その苦しむ姿を見ないように。

 一度だけ、その姿を見てしまったことがある。一番最初、ひどく苦しげな呻き声が心配で水を持って行った日のことだ。

 暗い部屋の隅で丸くなって自分の身体を押さえつける、白い獣。なんとか人の形は保っていたものの、その容貌に思わず緋月も息を呑んだ。そしてその一瞬に組み敷かれ、首筋に牙と爪を立てられた。

 その化け猫を引きはがすのは肉体的にも精神的にもひどくきつくて、翌日の八汐の落ち込み方も尋常ではなかった。苦しむ友人に何かしてやりたくても、それは見守りいざという時の壁となってやることしかないと、その時に気付いた。


「すごい苦しそうなの、どうにかならないのかな」

「知らないけど、それなんで僕に訊くの?」


 寺の前の階段に腰を下ろして、はあとため息を吐くと、呆れ声が返る。

 雑に切っているのが分かる髪と大きな目が特徴的な十(とお)前後の少年だ。短い手足をだらんと伸ばして、隣に座る。


「そういうの未珱(みよう)のほうが詳しいでしょ。僕さあ、幸せ運ぶだけしか能ないんだけど」

「未鞠(みまり)は座敷童だからねえ」


 厚手のパーカーを着た少年――未鞠はそうだよと頷く。

 人の世にそう簡単に行き来が出来なくなった今でも、緋月だけはこうして実家を訪れる。知った肉親には自分の姿はもう見えないが、ここに残した友人たちは別だ。

 かつて人であった頃に縁を結び、名前を与えた妖。未鞠や、未珱がまさしくそれで、ほかにあと二人くらいいる。


「ていうかお社って化け猫なんか入れてもいいの? よく知らないけど。人の家はひとりの妖に入るのに許可を出したら他の妖にもゆるくなるじゃん」

「まあ、それは社守の面目躍如ってことかなあ」


 未鞠は家を領域として幸せを運ぶ妖だ。家に誰を入れる入れないというのはそのまま自身の力の使い道を左右する問題になる。気になるのはそれが理由だろう。

 社へ誰を入れるかの選択権はどうも主ではなく、緋月にあるようだった。社守として当然の権利なのか、彼女の信頼故なのかは結論しがたいが、とかく緋月の許可なくして社への侵入は出来ない。

 力付くで入ろうにも、緋月と八汐によって追い返されるのみだ。


「ふうん、そっちに僕がいなくても別に平気なんだ」


 ほんの少し、未鞠が口を窄めて拗ねたように言う。

 けれど、追い返すのは緋月の仕事だ。押し入られてしまえば奥にいる狐の少女に害が及ぶ。それを許す緋月であるのなら、そも社守になっていない。


「どうだろう、寂しいのはあるね。会いに来るけど」

「とか言って、ぜんぜん来ないじゃないか。美珠が寂しがるよ」


 そうだっただろうか。八汐の症状緩和に努めていたのは認めるけれども。

 八汐にまさか人の身を食わす訳にもいくまい。それをしないための解決策を模索しているわけだが――心当たりをあたるたびに言われるのは「それが性(さが)ならば仕方ないだろう」だ。

 食べたいから食べる、その本能に逆らうのは果たしてよいことなのか。

 良いことではないからそんなにも苦しんでいるのではないか。

 ――これだから、人とのかかわりは身を滅ぼすのだよ、と。

 人を最初から食べるものとして認識さえしていれば心を砕くことはないという気持ちもわからないでもない。食べるものにいちいち心を寄せていたら壊れてしまう。

 でも、だ。


「言葉が交わせるなら、心を通わせないなんてできるわけないのにね」


 人と妖。どちらが先に在ったのか、それは今では誰にもわかるまい。

 名のある神ならばいざ知れず、ちっぽけな妖程度ではむしろ人によって妖の命を与えられたも同然の存在だっている。ならば言葉が、心が通わないほうが不自然だ。

 だから、どこかにきっとあるはずだ。同じように苦しむ妖が残したものが。


「そういえば、あの鬼神亡くなったんだって?」

「ああ、うん。先月ね」


 未鞠が「長生きしない神だとは思っていたけど」とぼうっと遠くを眺めながら頬杖をつく。

 鮮やかな赤い髪をした鬼神は、自分を祀る最後の一人の死去と同時に消え去った。もとより人を恨み倒した神だ、人を愛すことができて怨嗟の因果が経ち切れた以上そう長くもたないのは目に見えていた。

 あれも、一つの形なのだと思う。人を恨むしか出来なかった神を人が変え、その最後をともに迎える。どちらかと言えば、緋月とは真逆の結末だ。

 未鞠のように人を愛し人に愛されて存在する妖にはあまりに理解しがたいかたちなのだろう、とも思う。座敷童は拝まれこそすれ、恨まれることはほぼないと言っていい。恨むのは大抵家を出て行かれた家人で、そんな怨嗟は座敷童には関係が無い。だって、座敷童が出て行くときは先に人が座敷童を裏切るのだ。


「それでその鬼の子、引き取ったって聞いたんだけど」

「うん」

「うんって」


 ちょうど未鞠と同じくらいの背丈だ。未鞠はこれ以上成長することがないから、同じ背丈なのは今だけだが。

 鬼神とは知らぬ仲ではなく、なんなら父親とも面識があったので子どもとも相応に会っている。子どもはお転婆な母に似たらしく悪戯っ子で、社にこっそり遊びに来てはやらかされた。

 水をかけられ、落とし穴を掘られ、歩く先にはタコ糸を張られ。

 まあ、緋月にそれらの仕掛けは意味をなさない。百ある目は死角などない。

 どちらかというとよく引っかかっているのは八汐の方だ。落とし穴に落ちては型にでも沿ったかのような悲鳴を上げて、タコ糸に足をひっかけては転ぶ前に華麗にくるりと体勢を整えてそのまま犯人のもとへ走り出す姿も、まあ見慣れた。


「名前は紅錦(アカガネ)――紅く美しい鬼だって」


 母譲りの鮮やかな赤い髪に赤い目。半分人ゆえか角は持たず、目つきこそ鋭いが表情が豊かで愛嬌がある。母の後ろを着いて回り、母の姿が見えなくなるとすぐに蹲って泣き出してしまうような子。

 だから――母を亡くしたばかりの子は、ひどく不安定だ。


「親を亡くす子を見るのはいつになっても慣れないね、僕は」

「うん、凄絶だよ、やっぱり」


 あまりに暴れすぎて居間が半壊したくらいだ。どこにもいない母を探し、走り回って鬼の怪力であらゆるものすべてをぶち壊して、まだ足りない。それを止めることなく、緋月は好きにさせた。

 暴れるのを止めて、どうにかなることでもない。それで最後に泣き崩れた小さな鬼を、ただ撫でてやることしかできなかった。

 今は暴れるのをやめて、部屋の隅で布団に包まっているばかりだ。今日も動く様子はなかったので、八汐に留守番と見張りを兼ねて頼んで出て来た。

 見張りというと聞こえは悪いけれど、必要だ。力の扱いを知らない子をひとりにしては、取り返しもつかなくなるだろう。


「子を失くす親を見るのももう嫌だよ、緋月」

「……うん、そうだね」


 未鞠の言に責めるそれはない。それはとうに納得して通り過ぎた。

 けれどあえて言うのは、緋月がそれを忘れないように、だ。


「親を亡くす悲しみは周囲がどうしようもないけど、人の血も入ってるからね。乗り越えるよ、きっと」

「そう、かな」


 人は忘れることが上手いのだと、未鞠はよく言う。

 座敷童の未鞠はいろんな人の家を巡り巡って、ひとまず緋月との縁が続く限りは緋月の家を終の棲家にするだろうと現在を過ごす。ここに至るまでにも多くの人の死も、別れも見てきたのだと思う。乗り越える姿も。


「妖はみんな寂しがりで不器用なんだ。……僕らを置いていかないでね、緋月」



   *


 未鞠に最後に会ったのはいつだっただろう。

 この五年はばたばたしすぎてなかなか顔も出せなかった。未鞠はともかく、美珠が拗ねているだろう。明日日が昇ったら、会いに行くとする。

 未珱は――あいつ、どこいったんだろう。社を緋月に明け渡して以降というもの、風来坊が如くあちこちをふらふらしてはたまに帰ってくるくらいだ。先代社守で緋月を百目にした張本人だというのに。

 まだ名前を捨てていないところを見ると、緋月に愛想が尽きたわけでもなさそうなのだが。

 妖が寂しがりだと言った未鞠の言葉。

 今ならばなんとなくわかる。

 ――人を捨ててしまった紅錦を見ていると、特に。



   *



「おい、緋月。今日はどこ行ったんだ、あの子鬼」

「え、紅錦?」


 その日は朝から紅錦がいなかった。

 久しぶりに泊りに来ていた八汐が、朝食の支度をしている緋月に訊ねた。

 この頃、紅錦が社で寝泊まりするようになって、八汐がよそで寝ることが増えていた。八汐と紅錦の折り合いが悪いのではなく、単に八汐の回復がある程度済んだのである。

 急にふらりと現れた未珱が教えてくれた酒のおかげだ。それだけを置いてさっさとどこかへ旅立ってしまったあの自由人の百目に代わって、こまめに飲めるよう緋月がつくり、それでだいぶ精神も体も食欲も落ち着いた。

 その酒は純度の高い人の世のもので出来ていて、元が人の者にしか作ることが出来ないのだときく。妖が作ろうにも妖気が滲んでうまくいかないのだとか。

 おそらく、その純度の高さ故に妖を人の身へと近づけてしまうものだ。

 逆と違って妖が人になるのはそんなに簡単ではないから、きっと多大な副作用がある。八汐にも量を飲むなと釘を刺している。

 まあ、それでも八汐がそう変化が無いように見えるのは――よほど重症なのだろう。この酒は酒というよりは薬で、薬というよりは毒だった。


「紅錦、いないの?」


 寝泊まりしている部屋にもいない。風呂にもいなければほかのどの部屋にもおらず、一応主の眠る座敷も見に行ったがいない。

 両親を亡くして以来数年、塞ぎ込み社を出ることもなかった紅錦がいないのは嫌な予感がした。何事もなければもちろんそれに越した事はない。だが、昨日も部屋の隅に丸くなっていたあの子鬼が唐突に気力を取り戻すことはきっとない。

 何のために、この百の目があるのか。

 緋月は主との繋がりの為に百目となったからか、そうした縁がよく見えた。見ようと意識すればの話だが、その縁は自分とつながりが強いほどはっきり見える。

 紅錦を示す縁の糸は、社の外に繋がっていた。階段を下がり――息が詰まる。

 階段を逸れて、林へと続いていたのだ。つまり林の中に、紅錦はいる。

 林。飢えて足りない土地自体が食べてしまった人のこころが沈む場所。

 社の最も近くにこんな場所が出来てしまったのも、そんな姿になっても救われたいからだ。ここでなら、溶け出す主の妖力が最も近く、苦しくて吐きそうなほど飢えも薄らぐ。

 林に入ってしまえば、土地に取り込まれてしまう。それはおよそ抵抗力のない人から、長居をすれば当然、妖だって。

 紅錦にだって、それは教えた。興味本位で行くような場所でも精神状態でもないとすれば――それは、それこそを望んでいるということになる。

 躊躇なく、緋月は林へと踏み入れた。紅錦が消えてしまうことを望んでいるとしても、緋月はそれを許すわけにはいかなかった。

 この地の主がそれを決して望むまい。緋月とも彼女とも親しい友の子で、特に緋月は両親亡きあとを育てれば情も湧こう。

 捨て去ってもいいものなんて、ない。


「紅錦!」


 林に入ってしばらくと経たない場所に、その子鬼はいた。

 緋月の肩くらいの背丈しかない、小さな鬼。項垂れて、肩を落としている。そのさみしそうな背中に手を伸ばす。

 よかった、意識があるのならまだ取り込まれてはいない。もう一度呼び、紅錦が振り返る。


「――ひ、づき?」

「そうだよ、紅錦。ここは入ったらためだって言ったでしょう」


 紅錦の腕を引っ張り、階段へ向かって歩き出そうとして、紅錦が動かない。


「……なんで、そんなに焦るの。おれ、もう出るところだよ」

「何を・・・・・・」

「おれ、消えたくないから。母さんみたいにいなくなりたくないから。かがみに人の部分を食べてもらったんだ」


 なにを、とこぼれた。消えようとしていたわけでもなくて、消えないため?

 確かに紅錦は半妖で、人の部分を土地に喰わせてしまえば土地の終わりの日まで消えることはない。それがどういう影響を及ぼすのかはわからないけれど、実質半分になるようなものだから、いいものではないことだけは確かだった。

 けれど、その言葉すらも嘘だった。いや、もう本人に嘘をついているという意識はない。――もう、その記憶ごと、なくしてしまったのだから。


「緋月、おれ、すごく腹が空いた」


 それは元来の人懐こさが見える笑顔で、記憶にある笑顔よりもずっと冷たかった。この空腹は、緋月の料理ごときで埋められるものでもなくなってしまった。

 この瞬間に、緋月は紅錦が完全な鬼になってしまったのだと知った。

 紅錦は忘れることを選んだ。人の血が入っていたところで半妖、妖の世で育った半妖だ。人のように忘れることは難しかったのかもしれない。悲しみをずっと抱えて苦しむよりは、忘れてしまった方が良いと、思ってしまったのだろう。

 悲しかったこと、寂しいことをまるまる忘れてしまう手段として、土地に喰わせた。鬼はひとりでも寂しくない、怖くないと言い聞かせて。

 それは忘れなくていい、いつかきっと思い出にできると、その頃の緋月はどうして言ってやれなかったのだろう。

 たぶん、もうわかっていたのだ。妖の時間はひどく長くて、それでいて単調なこと。気付けば人の世では何年も経っていて、知った顔もどんどん知らない顔になっていっていること。そんな中で忘れるのは、いつまでかかるかわかったものではないこと。

 だったら忘れてしまいたいと、最初からなかったことにしてしまいたいとおもってしまうことにも理解が及ぶようになってしまっていた。

 忘れずに、傷をゆっくり癒して残るものの貴さだって知っていた筈なのに。

 それは後悔だった。

 緋月がこの先抱えることになる、後悔。紅錦にそんな選択をさせてしまったこと、選択を悪いことではないと思ってしまったことに対する後悔だった。

 腹を空かせ、ぽっかりと穴の開いた記憶に訳も分からず涙を流し、人を食べては記憶の果ての果てのすでに顔も忘れた母を思って吐いてしまう――そんな鬼になってしまった紅錦。

 そのころから、紅錦は父の話をしなくなり、寂しくて泣いてしまうこともなくなった。

 土地に喰わせた人の部分にはきっと愛された記憶も父の記憶もすべてあった。愛された記憶はなければ寂しくない、というのは嘘だ。ないということ、知らないということはさらなる寂しさを増大させる。その断片的にしか思い出せない遠い記憶に焦がれて、結局苦しんだ紅錦は誰かに消されることを願うように、なってしまう。


 ――――ああ。

 人であった頃は、こんなにも迷わなかった。ただひとつ信じた道を疑わず、足も止めず、俯く彼女の手を引けたのに。

 妖になってからのほうが、迷いっぱなしだ。間違ってもすぐに次を探せたのに。唯一疑わずにいられた――百目を貰う選択にすら、疑念が及んでしまいそうになるくらいに。

 会いたかった。緋月よりもずっと迷子になりやすくて、ずっと優しいのに緋月にはない強さを持った彼女に、会いたかった。

 今も社の奥に眠るのだから、その座敷に行けば会える。けれど、それをすれば寂しがる緋月を想って彼女が起きてしまうことも、なんとなくわかっていた。だから眠る彼女の顔を見たい衝動をぐっとこらえて、座敷の前の廊下に座り込むに留まる。

 まなか、と口の中で音を転がす。あの子がいつ目覚めるのか、緋月は知らないのだ。寂しさをごまかすために、そうやって名前を呼び続ける。



 人の部分を捨てて半分土地と同化した紅錦を、もう社へ入れてやるわけにはいかなくなった。

 もとより飢えに飢えた土地だ。もっとも食らいたいとすれば社に眠る主であるはずで、紅錦を入れてしまうことでパイプの役割をさせてしまう可能性がある。それを伝えて、紅錦は社への出入をしなくなった。

 どこで寝泊まりをしているのか、緋月は知らないが、広場に行けば元気にしている様子が見られる。――ただ、月のない夜に、適当に仲間を見つけては人の世へ遊びに行っていることが気がかりだ。

 土地の制約を妖は守らなくてはいけないものの、半分同化した妖が現れた今、正直なところ、制約にほころびが出てしまった。

 夜中の、人の世がもっとも力を失う時間帯であれば、二つの世界が重なり合おうとしてしまうのだ。もとより一つの世界。もとに戻ろうとするのになんら不思議はない。

 狐の少女が分けた意味がなくなってしまう。


 ――それと時期を同じくして、八汐の容体は悪化する。


 人の匂いが、人の気配が近くに感じられるようになって、夜に惑わされそうになる。発作のようなそれは数を増やし、酒の摂取量も圧倒的に増えていく。

 それに応じて眠る時間がひどく増え、社に出戻りする形になって早十年。

 ある夜。ついに八汐は社を飛び出してしまった。

 ほぼ怪物というに相応しいレベルで変質して、緋月の目を掻い潜り人の世へ躍り出る。

 そこで八汐は黒髪の女に出会う。

 黒いドレスに黒い傘を持った、日向の名を冠す少女。

 かつてほどの力はないにしても、この町で唯一妖と渡り合う力を持つ女だ。正気を失い、限界を超えた化け猫であっても歯が立つはずはなく。

 命を落とす寸前、どうにか逃げ果(おお)せた八汐は――



 ――――緋織(ひおり)に救われた。



   *



 あとはもう、怒涛の勢いで幸せな結末へと転がった話を思い出し、緋月は残りの酒を飲み干した。

 人を食べたくて仕方がなかった化け猫はまぎれもなく幸せへ歩き出した。この先で人として二人幸せになれる保証はないし、それはこれからのふたりにかかっている。

 人としての人生を何一つ持たない八汐は、生きるのでさえ難しくなるだろう。なによりも――緋織には両親がいる。あの子は家族と仲直りをきちんとしているからこそ、彼らからすれば怪しい男もいいところだろう。


「……そのへん、八汐はへんに素直だからなあ」


 素直に彼女の両親と向き合って、素直に自分が怪しいことを話して、素直にその疑いを受け入れた上で、――素直に緋織を好きであることを真摯に話すのだろう。

 そうして一緒になって、いつか子どもとかも持ったりして、その子どもたちの子どもたちに囲まれて、そうしておしまいを迎える。長らく続いたその生命に終止符を。

 二人そろって同じように皺を刻んでいく姿を想像して、笑みがこぼれる。

 いつか来るそのお別れの日は緋月の時間ではいつかであるほど遠くはない。

 けれど、何度も思う。それは幸せなことだ。

 親しい友人の、門出。親しい友人の輝かしい未来を夢に見る。



   *



 廊下の板の上に眠る百目の青年がいた。

 四本ほどの空き瓶が傍にあり、手作りのつまみが乗っていたらしい皿が三枚。珍しく酔うほど呑んで、ここで寝落ちしたようだ。布団で寝ないのは普段からよくあるものの、酔っての寝落ちはそうしない。

 よほどうれしかったのだろう、妖として生き始めてから初めてできた友人の長らくの恋が叶ったことが。

 長い白銀の髪を掻き上げ、その少女は緋月の枕元へ腰を下ろす。

 薄い浴衣がその柔らかそうな肢体を包み、白い肌はなんの穢れも知らない少女そのもののようだ。ほそやかな指が緋月の髪を梳き、そうっと持ち上げる。

 少女が膝の上に頭を乗せてみれば、緋月はわずかに身を捩る。仰向けにされても、すやすやと穏やかな寝顔が記憶の中のものとなんら変わりなくて、愛しさがこみ上げる。


「ま、なか……」


 寝惚けて呼ばれる名前に、ぴくりと体を震わせる。そうっと起きていないことを確認して、ほっと息を吐く。


「――――ひづき」


 そうして気づかれないように、柔らかく、愛おしいこの百目の青年を呼ぶ。

 深く眠っている彼は起きない。それでよかった。起きているときに顔を見てしまえば、お互い戻れなくなる自覚があった。ずっと眠り続ける少女よりも、起きて時間を歩む緋月の方がよほど寂しい思いをしているのは知っている。けれど、少女とて寂しくないわけではない。

 自分をひとりにしないために人であることを捨ててしまった青年。

 それに報いたいと、そして愛してほしいと思うのは不思議なことではない。

 この町の歪さは、少し増している。分けた世界ももとに戻りつつあり、自分が眠り続けてまで妖力を土地へ溶かすのもいらないことになる日は近いだろう。

 その日が来たら、緋月とその先を考えよう。

 こんな自分だけが頑張るだけの比重を間違えたやり方にならないように。

 自分一人で頑張って、それでもいいと言えるのは当人だけだ。それを、一人で社守をする緋月を見て思い知った。

 眠っている間の意識は悠久のようで、あるいは一瞬のようでもある。その期間の町のことはある程度知っている。

 ずっと恋を抱えて、壊れる直前で結ばれた化け猫のことも。

 母を亡くした悲しみに耐えきれなくて土地と同化した鬼も。

 ひとりでずっと自分のことを思い続けてくれる――百目も。

 黒髪を梳き、掌に体温を感じる。ほんとうは、緋月ともっと話がしたい。

 好いた女の子のところへ行くために人を学ぶ化け猫を見ていたらいっそうそんな気持ちが強くなったように思う。わたしも、緋月にたくさん愛されたいと。抱きしめて、それを強く感じたい。


 ――だから、今は。もう少しだけ、この土地のために頑張ろう。


 どのみち終わりを迎えるのなら、せめてその終わりが穏やかであれるように。


「だから、緋月。もう少しだけ、寂しい思いをさせてしまうけれど、許してね」


 薄い唇に自分の唇を重ね、夜明けに彼が目を覚ますまで、そうしてひとり月を眺めた。







『夏暁の青』 了

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夏暁の青 日櫃 類 @ruisaider

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