第十一話「しあわせのいろ」


 高いビルの間を抜ける風が体を芯から冷え込ませる。

 天気予報では夕方から雪が降ると言っていた。雪が揺れば帰るのが遅くなってしまうから、なるべく降る前に帰りたい。

 息が白い。マフラーに顔を埋めて、寒さを耐え凌ぐ。手袋もしてくるべきだったなあと思っても今更だ。冷え切った手をコートのポケットに入れて、ぬるくなったカイロをもてあそぶ。

 季節は冬、明日はクリスマスという事実に街は浮かれているようだ。

 赤と緑で飾り立てられ、もう少し暗くなればイルミネーションを点灯することだろう。まあ、肩を寄せ合う恋人たちばかりの夜に独りで乗り込む勇気はないので、関係ない話だ。一度二度くらいは好意を持ってくれた異性もいたけれど、結局特定の誰かと付き合うこともないまま十代を終えてしまった。

 別に不満があったり、他に打ち込みたいことがあったわけでもないけれど、なにか違っていた。友達以上になりたいひとではないと、思ってしまうから。そういうのは相手にも失礼だから、すべてお断りした。


 まだ帰宅する社会人たちにしては少し早い時間であるため、空いている電車に乗る。乗降口近くの座席に座り、ぼんやりと窓の外に流れていく街並みを眺める。

 こんなに早く帰れるのも今年が最後なんだろうなと思う。来年からは社会人に仲間入りする。

 就職も決まった今、専門学校ももうほとんど行く機会もない。今日も提出する書類を出しに行っただけだ。

 降りる駅まであと三つ。時間にすればさしたる時間でもない。

 今日はおかあさんも早く帰ると言っていた。父さんはそもそも今日仕事が休みだったので、帰ったら夕食がもうできているかもしれない。

 新しい父は料理が上手だった。最初に振る舞ってもらったオムライスがとても美味しくて、緊張していた心をゆるやかにほぐされたのを覚えている。話も出来ない私に気を遣ってのことだったと知ったのは最近だ。

 まだ父さん、と呼ぶのは出来ていないけれど、それなりに上手くやれていると思う。おかあさんともたくさん話をするようになった。


 ――「おかあさん、今日は緋織と一緒にケーキ食べる為に早く帰るから!」


 と今朝元気に出て行った姿をなんとなく思い出して、少し笑ってしまった。

 よく私を気にかけてくれているし、大切にもしてくれている――のだと思う。ずっと私が気付かなかっただけだ。就職が決まった時も一番喜んでくれたから、私の喜びが半減したくらいだ。

 気付けたのは、五年前に家出したからだろう。

 高校一年生の夏。祖母の家に行き、迎えに来た母に平手打ちをされて。そこで父の死の真相とおかあさんの想いを初めて知ったのだ。

 ただ、それだけ。それだけで、おかあさんと仲直り――した。

 電車ががたんと揺れて、降りる駅に到着した。同じく降りる人とともに電車を降りた。降りた途端、冷たい風が吹き付ける。電車の中が暖かかったせいでなお寒い。

 ただ。

 ただ、あの夏。祖母の家から帰ってきてから――手首にずっと、身に覚えのない鈴が付いている。

 赤い組み紐で括られている、少し煤けた金の鈴。

 祖母の家から持ってきたことは確かだけれど、なぜ持って帰ってきたのかわからない。なのに捨てられない。外してはいけない気がしていて、五年もの間ずっとつけたままにしてしまった。

 雪が降り始めた。白いものがゆっくり舞い、各々の反応が人々の中に波打つ。喜ぶ子どもに積もる心配をする大人、特に気にしないでスマホの画面にくぎ付けな人。私はどちらかというと、雪はすきではなかった。

 白が好きではない。前はそんなことなかったけれど、白を見ると胸が痛む。しくしく、しくしく。理由も分からないのに痛くて、泣いてしまいそうになる。だから視界いっぱいに広がる雪が好きになれなかった。

 りん、と鈴が鳴る。


 ――ふと。

 人込みに紛れて、視界の端に止まる影があった。

 今まさに降っている雪のような、白い影。

 なんてことはない、そんなすれ違い、よくあることだと思う。けれど気づけば振り返り、走っていた。見過ごしてはいけない予感と胸を焦がす焦燥感だけが私を突き動かす。


「――ッ、は」


 人込みをかき分け、走る。降り始めの雪は大粒で、もう白くなっているところがある。時折足が滑り、体勢を崩しても気にしない。している暇がない。

 信号の先に、その影を見た。赤信号だ。渡れない。一つずつ減っていくカウントダウンを焦る気持ちで眺める。既に白い影は居ない。行った先だけは分かるから、信号が青に変わった途端に駆け出す――!

 だって知っている気がした。あの白い影は、忘れてはいけないものな気がした。

 角を二つ、信号を四つ渡った。ついにその背を捉え、曲がった先で腕を掴まえた。白い影、を――


「……あの、何か……?」

「あ、いえ……すみません、人違い、です」


 訝しげに眉根を寄せる黒髪の学生。被っていたフードが白かっただけだ。

 気まずい空気を早々に打ち払うように手を離し、小声で謝る。学生は首を傾げながら少し先にいる友人のもとに走る。「どうしたー?」「なんか人違いだって」と話をしながら人込みの先に消えていく。

 残された私は、どうしたんだろうと項垂れるほかなかった。何をしているんだろう、私。白にどんな思い入れがあったのだっけ。思い出せないなら大事な記憶ではないはずなのに――なんで、こんなにも泣きたくなるのだろう。


「は、あ……帰ろう」


 ずっとこんな感じだ。あの夏、祖母宅から帰ってきてからずっと。

 何かに会えた気がして探したり、何かがいた気がして嬉しくなったり、そのどれも成功することはなくて――こうしてひどく泣きたくて仕方がなくなる。それは何か、なのか。あるいは誰か、なのか。それすらもわからない。

 何が欠落しているのか、何が欲しいのか、今日も分からないままだ。

 辺りを見渡して、現在地を確認する。ずいぶん遠くまで来た。ここからなら家まで三十分くらいかかる。雪が積もらないうちに帰ろう。

 ――――りん。


「あっ」


 鈴の紐が唐突に切れ、涼やかな音を立てて地面を転がっていく。人の多い場所だ、しゃがんで追いかけようにも雑踏に阻まれる。走って追いかけ、先回りをして拾うしかない。


「踏まないで、すみません……ッ!」


 注意を拡散しながら追いかけても、雪に気を取られた人々にはなかなか届かない。立ち止まる人が多くて、鈴との距離がどんどん開いてしまう。


「待って……、待って!」


 あと少しで届くその直前、誰かの足に躓いて転びそうになり――


「――おまえ、あぶなっかしいの変わんないな」


 鈴が先に掌に吸い込まれて、誰かに体を受け止められる。流れるような動作で顎を掬われ、――唇が塞がれる。柔らかい感触と、呼吸の混ざる感覚。体を抱きしめられて逃げられなくされて、でも逃げようと思わない。

 溶ける吐息。流れ込む甘い感情。それは、とても、あまくて。

 口づけはたっぷり二秒をかけ、そっと終わりを迎える。

 顔が離れて、微笑む口角が視界に入る。目を見開く。知ったにおい。きいたことのある声。探していた――白。


「うそ、え? うそ、だって、もう……っ!」


 いきなり唇を奪われたことよりも、目の前にこの青年がいることが信じられない。ほんとうに? 夢ではないの? さっきまで忘れていた記憶が色鮮やかに蘇る。

 あの夏、アカガネさんに誘われて訪れ、ある化け猫と心を通わせた夏の記憶。

 忘れていた、というよりはこのひとに記憶を預けていたのだ。今、返されたという方がしっくり来る。

 触って、確かめる。紺色のダッフルコートに白いスキニ―パンツ。現代の服を着ているけれど、見たことのある色彩。そして極めつけは緑と青のガラス玉のような双眸と雪に似た白髪。


「や、やしお、八汐……っ、ほんとうに、八汐なの?」

「ああ、おまえの言う八汐が化け猫で一緒に海にいった八汐ならその八汐だな」


 晴れやかに笑う八汐の頭には三角耳がなかった。肩越しに覗いてみれば尻尾もない。目立つ外見こそしているけど、どこをどう見ても化け猫ではない。


「八汐? なんで……耳とか、どうしたの?」

「いろいろあって、それはまた話すけど――オレ、人にしてもらったんだ、おまえと同じだ」

「ひ、ひとに?」


 そんなことできるのだろうか。いや、あの、百目の……そうだ、ヒヅキさんが言っていた。人が妖になったり、妖が人になったりできると。

 ヒヅキさんだって人から妖になったのだ。簡単ではないと言っていたこと、美珠さんが全てを捨ててもまだ足りないと言っていたこと。それだけが気になったけれど――


「ああ、やっと会えた。よかった、会えた」

「わ、わ、八汐?」


 あまりにも嬉しそうにはしゃぎ、抱きしめられたらそんなものぜんぶ吹っ飛んでしまった。軽く足が浮いたと思うと、八汐が脇を抱えられて体が持ちあがる。びっくりして八汐の肩に手を乗せ体を支えると、満面の笑みの八汐がよく見えた。


「緋織!」

「はい!?」

「ああ、やっと呼べた! ひおり、緋織!」


 そんなふうに繰り返されたら私の方が泣いてしまう。あの夏暁の青の中、受け取って貰えないまま終わってしまった名前をこんなにも呼んでもらえる。全部忘れても根っこの部分で忘れられなかった大好きな人がこんなにも愛おしげに呼んでくれる。

 ひとしきり笑った八汐はふと控えめな表情を浮かべて、そっと私を下ろす。


「緋織。オレ、主様やヒヅキのおかげで人になれた。おまえと一緒に生きられる体にしてもらえた」

「はい、……それで?」

「最初に出会った『おまえ』と重ねているわけじゃない。あの夏、おまえに助けてもらえてほんとうによかったと思う、他でもないおまえでよかった」


 八汐は私の冷えたきゅっと手を握って、真摯に見つめる。八汐の手は熱くて、じんわりと熱が広がっていくのが分かる。


「緋織、オレはおまえが好きだよ。だから――人として、おまえを幸せにしたい」

「――――っ」


 幸せに、したい。人としてってそれは、もしかしなくても。


「ぷ、ぷろぽーずというやつですか……?」

「そうなるのかな。ぷろぽーずってあれだろ? これから一緒に生きてくれますか、ってやつ」

「そ、そうですね、結婚の約束というか、はい……」


 ヒヅキが教えてくれた、と得意げに言う。ヒヅキさん、あの、もっとちゃんと教えてほしい。一緒に生きるって、そんな……人の結婚をハチさんは理解できているのだろうか。


「なあ、緋織。答えはくれないのか?」


 けれど、知らないならそれはそれでいい。そんなの訊かれるまでもない。今はない三角の耳がぺたんと垂れて、尻尾が下がっている幻覚が見えたけど、そんな顔することもない。決まっている。


「喜んで、ううん、私が八汐を幸せにするんだから……っ」

「はは、嬉しい。好きだ、好きだよ緋織。幸せになろう」


 雪降る人込みの中での逢瀬。八汐から再びきつく抱きしめられて、私の顔は涙でぐしゃぐしゃで、都会の町中で大層目立っていたことだろう。

 きっとたいへんなことはこれからもたくさんある。合わない価値観だってあるだろうし、喧嘩をすることだってある。

 けれど、ようやくだ。ようやく赤い糸を解けないように結びなおせた。きっと幸せは、このあたたかさのことを言うのだ。



 *


 日が落ち、火が灯る。気温はすっかり落ち込み、今年も冬を感じる。とはいえ、夏であるならとりあえず酒を呑み、十五夜でもとりあえず酒を呑み、雪が降ろうが桜が咲こうがとりあえず酒を呑むようなやつらしかここにはいないので、今日もいつもどおりお祭り騒ぎである。

 雪が少しばかり積もった。下駄の隙に入り込む水滴が冷たい。

 変わらない喧騒の中、珍しい姿があった。緋色を差し色にした派手な袈裟に、金色の錫状を持った上背のない男。曝け出された部分の肌には無数の目玉がぎょろぎょろと周囲を見回している。

 普段は林の奥の社に篭って滅多に出てこないその妖に、いくらか好奇の視線が集まる。百目の青年――緋月(ひづき)は自分に向けられる視線なぞ気にも留めず、人を探して歩いている。

 目的の赤は広場の入り口傍で酒を呷りつつ、何かの丼物を食べていた。隣には大量の空の器があり、日が落ちて間もないというのにもうそんなに食べたのか、と呆れる。

 紅錦(アカガネ)と呼ぶと、その鋭い金目に自分が映る。紅錦は食事を一旦止め、きょとんとした顔を向けてきた。


「よお、緋月。おまえが出てくるなんて珍しいな」

「うん、見送った帰り」

「見送り? ――ああ、あの化け猫の」


 もう化け猫じゃないよ、と否定する緋月だが、紅錦はその違いにさして興味はないらしい。椀に残った最後の天ぷらで米粒をかき集めて食べ終える。

 そう、化け猫だった白い青年を送り届けた帰りなのだ、今夜は。昨夜のうちに降ったかがみと違い、向こうは今夜降るらしかった。都合がいい。雨や雪の日というのは傘で人の顔が隠れていてわからなかったり、そも天気に気を取られていて気付けないことが多い。何に、といえばそれはもちろん、人ならざる者だ。


「つうか、よく妖から人になるなんて選択したなあ。それできるもんなの?」

「紅錦、俺が人から妖になったの知ってるでしょう。逆が無理なんて話はないよ」


 緋月が隣に腰を下ろし、紅錦が買ったのであろう酒の瓶を勝手に取る。きゅぽんと耳触りのいい音とともに栓を抜き、白い濁り酒を呷る。


「まあ楽な話じゃないけどね。今回だって五年? 四年半か。そのくらい時間かかったし」

「五年なんかあっという間だろ。いまいち大変なことじゃなさそうだが。おれの酒呑むなよ、それ高かったんだぞ」

「ばかだねえ、紅錦。人の世の五年は大きいよ。そうなの? どおりで美味いわけだ。代わりに俺の秘蔵をあげるから許してね」


 懐から紅錦から取ったものよりも一回り小さいガラス瓶を渡す。並々入っているのは透明な酒で、しゅわしゅわと泡が立ち昇っている。受け取る紅錦は露骨に喜びはしないが、「し、仕方ねえなあ」とそわそわするあたり隠しきれていない。

 その酒は緋月がつくる酒の中でもひどく格別な酒だった。妖の食べるものはおよそ人の作るものを模していることが多いが、ことこの酒に至っては材料から何まですべて人の世のものを使っている。

 もとは化け猫のために作ったものだ。人を食べたくて食べたくて仕方がない化け猫の感覚を誤魔化すために用意し、もうこの五年はいらなかったので緋月が自分で飲んでいたものの最後だ。同じく人を食べたい衝動に悩まされている紅錦にもすごく好まれるのだが、あまりあげない。


「でも化け猫は一回死んだんじゃないのか?」

「うん、だけどあの子の見鬼とこちら側に関する記憶のすべてを引き取っていたからそれがね、あの子との縁を切らずに済んだよね」


 見鬼の持っていき方はずいぶん前から訊かれていた。他でもない自分が彼女の繋がりを持って消えてやりたい、とずっと願っていたのである。それは自分がいなくなったあとの彼女が妖に煩わされることの無いようにとの悲願の表れだった。

 結果的にそれが縁となって繋ぎ止め、化け猫としての身体は残らなかったけれど心は残せた。


「いやそれ、化け猫程度にできた話じゃなくね? おれだって見鬼だけ取り上げるなんて出来ねえよ」


 魚の丸焼きをもりもり食べ、もう片方の手で肉の串焼きを二本ほど構えている。緋月もよく食べるが、紅錦もなかなかだ。

 緋月手製の酒は懐に大事に仕舞ったらしく、違う酒を呑むらしい。空になった瓶もいくつか転がっているが、替えはまだたくさん連なっている。


「それがねえ……どうも真翔(まなか)がそこまで貸してあげたみたいなんだよね」

「主様が?」


 真翔というのは社の奥で一人眠り続ける狐の少女だ。緋月が守っている唯一の人であり、愛しく思う少女。彼女が七十年ほど前に眠りについてから今まで起きたことはほとんどなく、緋月は起きている彼女に会えたことはない。

 だから貸してあげた、というのは化け猫の証言からの推測でしかない。

 見鬼も記憶もなくして気を失った少女を送り届けた朧車に連れられて行った浜辺で、その残滓はほのかに光っていた。

 猫の耳や尾はなくて、変化していたときよりもいくらか幼い姿で倒れる化け猫――だった少年。指先や髪の先は光の粒子になりかけていて、生き残ったにしても放っておけばすぐに尽きる命であることは一目で分かった。

 緋月はその子を連れ帰り、社で目覚めるのを待った。少年は二、三日で目が覚めて記憶も化け猫だった頃のままを有していた。そんな彼が語ったのだ。


 ――「主様が最後にくれた妖力に、見鬼を剥す力が混ざっていた」


 と。

 まさか主が起きて力を貸してくれることを想定していなかったものの緋月は察する。優しい彼女が、ひとりだけが背負って逝くことを許すはずもなかった。

 かの狐の少女は、およそこの町において叶えられないものなどひとつもない。体がひとつだけであり、使い方がおぼつかないのが彼女の弱点だったが――

 どうも、それが少し上手くなっているようだ。


「あー、それでね。あの気持ち悪いくらい素直に笑うようになってたってことなのな」

「そうだね。余計なこじらせとか隠さないといけないって言い聞かせてたこともぜんぶ新しい身体になってからはなくなってたみたいだ」

「ふうん」


 もとより隠さなければいけなかったのは妖と人との恋であったからだ。それが人と人になってしまえば迷うことなど何にもない。

 最初が少年で、そこから青年となるまでは早い。たぶんそれは人の身体を作り終えるまでの猶予を示している。実態のない妖の残滓から人の身体に作り変えることはそうぱぱっとできることでもないので、仕方ない。その間に緋月は人として生きる上で必要なあれこれを全部詰め込ませた。食べるものは人の世界のものだし、頻繁に人の世界に連れ出したりもした。その努力はきちんと報われ、化け猫少年はすべてをすさまじい勢いで吸収していったのである。

 まあ、もともと器用で覚えがいいのは知っている。それに主の妖力も後添えしていたとなればもう驚くことはない。

 それに人として生きられると知った彼は、縁を繋いだ女の子のもとへ一刻も早く行くべく気合の入り方が違ったというのもある。当然相手に記憶はなく、もう新しい相手と幸せになろうとしているかもしれないのに。

 その懸念を、彼は一蹴した。


 ――「もう迷うことはないし、諦めたくない」

 ――「それにあの子を幸せにできるのはオレだけだ」


 なんて、自信たっぷりに。

 実際無事再会は果たしたようだから、もう何も言うこともない。


「というか俺はあなた以来の子育てにだいぶ疲れたよ」

「何言ってんだ、おれいい子だっただろ。よく食べ、よく暴れるいい子」

「それをいい子とは呼ばない」


 甘味に手を出し始めた紅錦。あんみつ、かき氷に汁粉とそれもまた種類様々である。かき氷なんてこの冬によく売れるものだ。


「で? それだけのことだ、何を代償にしたんだ」

「んん、それは――」


 先に人の世界に帰ったあの子が最後に化け猫が渡した鈴を未だ持っていることが条件だった。

 人の世界で人として生きる為に必要な最後の要件は、そこに穿つ存在の拠点。それを彼女にし、彼女が持っている縁を頼りに存在を確定させる。だから彼女が鈴をすでに失くしていた場合、かの化け猫は努力虚しく消える約束となっていたらしい。


「は? それだけ? 今持っている中から何にも取られなかったのかよ、安いな」

「そういうなって。安くはないよ、これまで数百年分の想いと縁が賭けられてるんだから」

「そういうものかね」


 溶けた氷と蜜の混ざった最後を飲み干し、紅錦の食事が終わる。あれだけ食べても膨れた様子の伺えない腹を撫でて、清酒を流し込む。

 人となる代償にそれまでのすべてを賭ける。紅錦は軽いというが、言葉で言うほど軽くない。妖となるために人としての全てを諦めた緋月が思うのだから、その重さは追って知るべきだ。

 緋月は親も姉も義兄もいた。恵まれていたと思う。けれど、選んだ。

 緋月は人であった頃、強い見鬼を持っていた。その頃は今よりも身近に妖がいたために、命の危機もかなりあった。だが、それ以上に、彼はこころに寄り添うのが得意だった。妖は妖なりに思うことがあり、その行動に理由があることを知っていたから、妖を畏れることも嫌うこともなかった。

 そのまま人として生き、人生を終えてから彼女の下へ行くのだってよかった。むしろ彼女はそうしてほしいと何度も訴えてくれたけれど、この土地の荒み具合はそれを許さなかった。

 緋月は後悔していない。親にもすべてを話したうえで家を出た。美珠はひどく怒り、悲しんだが。尤もその時点で百目の目を身に宿していたから、そのまま生きていたとしても三十まで人で居られたかはわからないのだ。

 まあ、とにかく後悔はない。

 小さな肩に全部背負って、軋む体を隠して無理に笑う狐の少女――真翔をひとりにさせておくほうがずっとずっと耐えられなかった。


「まあ化け猫の話はどうでもいいや。あのときの見鬼だって食べ損ねたし」

「あなた、この間また人の子食べたくせに昔のこといつまでも覚えてるね」


 ため息交じりに緋月は「そろそろやめたら」と今まで何度言ったか分からないことを言う。

 妖が人を襲うのを、緋月が止めることはほとんどない。二つの世界が分かたれた今、その機会はごくごく少ないものだし仕方ないものなのだ。そういう存在で、そういう関係であるのだ。

 こんなふうに止めろと促すのは紅錦くらいのものだ。

 紅錦はほんとうは腹なんて空いていない。鬼神と人の相の子であり、人の部分を力の足りていないかがみの土地に食わせてしまったから、土地の飢餓感が鬼の方の紅錦にも伝わってきてしまっているのである。

 人を愛した鬼神の母に懐いていた紅錦が人の子を食べては自己嫌悪に陥っているのは知っている。どうしようもない飢餓感を誤魔化すためにこうして食事をとることも知っている。けれど、土地に半身を食わせてしまった以上人を食べることはやめられない。

 紅錦が名を隠さないのは、そのあたりも関係している。

 母のように名を忘れられて消えていくことを恐れているのももちろん本音だ。

 だけれど――紅錦がずっと願っているのは、ほんとうは真逆だ。


「やめられたら苦労ねえよ、この酒もっとくれたら、食べなくて済むんだけど」

「それ、そんなにたくさん呑むものじゃないからだめ」


 紅錦はいつか、人を食べて母に顔向けできない自分を消(ころ)してくれる存在を待ちわびている。

 名前を広め、極悪の赤鬼、倒すべき相手と認識した人の子の手にかかる日を夢に見ている。

 あの酒は紅錦には特に依存性が高い。精神力が強靭だった化け猫でさえ呑む日を選ぶくらいだったし、土地の飢餓感はさらに誤魔化せる時間が短い。そうして呑み過ぎれば、妖と人の要素がさらに均衡を崩し、人に近付けば近付くほど鬼の紅錦は消えていく。最終的には土地にすべてをのまれて二度と救われなくなってしまうのだ。

 親の顔も、幼いころの顔も知っている緋月としては、そんな運命をたどらせたくはない。本人には決して言わないけれど。


「紅錦」

「んあ?」

「――いや、なんでもない。ほどほどにね」


 なんだよ、ときょとんとする紅錦の横から酒をもう一瓶くすね、社への帰路につく。紅錦もべつに、呼びとめも追いかけもしない。

 さて、帰れば久しぶりに一人の食事だ。あの社へ来てからこれまで、時折化け猫とともに摂っていたのももうない。

 彼はようやく幸せに手が届いた。緋月はもう彼が社を訪れることがない事実は悲しいことではないと知っている。

 だから――足取りは軽いのだ。

 久方ぶりに見た幸せの姿は、美しい白色をしていた。


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