第十話 「迎えにいく、会いにいく 後編」



 木戸を抜けると雨は少し増した。

 ざあざあと地面や傘を打つ音が重い。ひどく悲しげな懇願に似た話を終えたヒヅキさんは「帰りたくなった?」なんて訊く。

 そんなこと、あるはずないのに。

 ここへ来てからずっと見ていたおかしな夢。起きるとすぐに忘れてしまっていたが、今は不思議とすべて思い出せる。あれらは化け猫さんと出会って得たいつかの私の記憶だったのだ。化け猫さんと接触したことで呼び起こされたのだろう。

 だから、聞いた話に違和感を覚えるどころかすとんと落ちてきた。かの遊女の心は、今も私の心と重なっている。細かい部分が違っていても根っこの部分が同じだ。


 あの日、化け猫さんを拾った日。あの猫が死んだら私も死んでしまうのかも、という焦燥に似た直感は間違っていなかった。二度も彼を失えば、私はその重みに耐えかねて赤い糸が首を絞めていた。それほどの激情が、どうにも私の中に眠っている。

 母の再婚にこんなにも心が揺れた――いいや、両親のことにこんなにも過敏に思い悩んだのは彼女の親に捨てられたトラウマが染みついていたからかもしれない。まったく、ひどいはなしだ。

 きっと今までの私も赤い糸に導かれることはあったはずだ。切れかけの私ですらあったんだから。けれど、化け猫さんに再会の意志がなかった。幸せになっていれば頑として姿を見せず、そうでないのならさらに隠れる。

 なんて自己満足なのだ。優しすぎるにもほどがある。

 そんなことを言って、安寧が続くように、幸せが訪れるように近くで頑張っていたことは想像に容易いというのに。

 ヒヅキさんは「もうひとつ」と続ける。


「あのひとが夜を嫌う理由と、あなたのもとへ行けなくなった理由なんだけど」


 はい、と短く返事をして先を促す。


「夜は妖が活発になる時間で、誘惑が多い。あのひとは人を呪い殺して、その存在を堕としてしまっているから狐の魔力でも腹が満たされない」


 一度荒ぶるものとなってしまうと、かつての血の味を忘れられなくなる。人の血を求めてしまう。もう長くないと分かるほど弱れば――なおさら。

 だから彼は夜眠る。起きていては心が乱されて何をするかわからないから。夢も見ないほど深く深く意識を落とし込む。


「それでも無意識に人を襲いそうになるとか、百鬼夜行がある日とかはあの社に来る。あそこは一番穏やかな気で満ちているからね」


 今もそこにいるのはそれが理由なのは分かった。そこで必死に戦っているのだ、彼は。ひとりで。


「それでね、あのひとはもう長くない。本能が抑えきれずにあなたを襲いに行くのも時間の問題だ。そうなる前の介錯は俺が頼まれている」

「そんな……!」

「でも俺は出来ればしたくない。だからあなたを連れて行くんだよ」


 化け猫さんが満足して逝けるように、彼を看取るために私は行く。

 それは否が応でも彼との永遠の別れを示していて、その決定的瞬間を見ずに終えることは不可能。今どれ程覚悟を決めたところで実際にその別れの場に立ち会ってしまえばどうなるかわからない。

 寂しくて悲しくて、その先を望みたくなる気持ちに嘘は吐けない。

 そうだとしても、会わない方が後悔することは明白だ。


「ただ、あのひと今だいぶおっかない見た目になっているから、そこは分かっていて。俺やアカガネとか比じゃないくらいなの、人を呪って殺めて……堕ちたときの姿だから」


 見た目の恐ろしさ随一のヒヅキさんが言う。ヒヅキさんだって負けず劣らず優しいひとだ。変わり果てた友人だとしても言葉を選んでいるはず。なら、想像もつかないくらい恐ろしい見た目になっているのかもしれなかった。

 人を呪い、殺め、堕ちたとき。

 それは化け猫さんにとって、どれほど辛いことだったのだろう。ヒヅキさんんが以前、彼に投げかけた言葉が思い起こされる。


 ――『あなたが、猫だからでしょう?』


 あの時は意味が分からなかったけれど。あのひとはきっと人が好きだ。好きで、愛していて、でも多くの人には愛されなかった。猫はずっと人と一緒に生活してきた。人の体温なしに生きるのは――きっとすごく寒かった。


「でも、それはあのひとが進んでなった姿じゃない。だって、すごく柔らかく笑えるんです。――だから、だいじょうぶです」

「……うん、そうか」


 ヒヅキさんがその先を語ることはなかった。もう言うことはないと、そういうことなのだろう。

 空き屋ばかりの通りを抜け、木戸を抜け、暗い裏道を走る。この間通ったときは騒ぐ気配があっただのが、今日は雨だからだろうか。提灯の明かりもなければ気配もない。ただ雨が地面を打つ音が響く。

 石階段の前。灯篭はついているが、ゆらゆらと火が揺れている。風があるわけではない。雨は強いが、石灯籠もしっかりとしたつくりで、そう簡単に火が揺れるとも思えない。

 だとすれば。


「ああ、また来たんだね、あの猫がそれほど大切かい」


 数日前にも似たような状況に遭ったな、と、場違いにも思った。

 ゆらりと、暗がりに燃え立つような鮮やかな赤。能面のように白々とした顔。

 アカガネさんだった。ヒヅキさんの話を考えると、あれはこの土地と一体化した彼の人の部分、ということになるのだろう。

 ヒヅキさんは足を止めず、階段を上っていく。


「なあ、聞いているかい。おまえが行ったところで、助からない。こころだって、救われない。だってあれは曲がりなりにも遊女(おまえ)を愛した。愛したやつに自分の醜い姿なんて見せたくは無い。当然だろう、なあ、違うか」

「耳を傾けないで。あれはてきとう言うだけの口だけど、こころを折ることに関しては超えるやつがいない」


 ヒヅキさんは囁くように言う。あのアカガネさんはこの土地と同化しているから、この土地の記憶を持っているのではないかと思う。だから、ああして知っているように言える。

 ……いや、それは関係ない。

 話してはだめだと言われた。縁が出来て、あちら側へ引き込まれやすくなってしまうと。知らない振りをして見なかったことにすることが得策であると。

 けれど、今はそれではいけないと、胸の奥がざわついた。ざわつくとは言っても、頭はおかしなくらい冷えている。だから、これは言うべきことなんだと思った。


「アカガネさん」

「――ちょっと、言葉を交わすのは」

「分かってます。大丈夫、少しだけ、です」


 ヒヅキさんが驚いたように私の口を塞ごうとした。私はそれをやんわり外し、彼の眼をまっすぐに見た。このひとは話すとき、目を離さない。きっと誠実さが現れている。

 ヒヅキさんはほんの一呼吸の間を置いて、「わかった」と足を止めた。

 階段は半ば。アカガネさんがこちらへ一歩近づくごとに、灯篭の火は今にも消えそうに揺らぐ。アカガネさんは雨だというのに何もさしていないため濡れ鼠だ。金の目が炯々と光る。

 乗り気でないヒヅキさんに目配せし、私はそっと下ろしてもらった。

 ひやりとした感触が伝わる。足の甲にも雨粒が落ち、または跳ねて、いくらとも経たないうちに私の足は濡れつくした。


「やあっと返事をしてくれた。こちらへ来る覚悟が出来たかい、それとも化け猫をくれる気になったかい。ああ、どちらでもいい。どちらでもいいから、話をしよう。たくさん。もてなせるようなものは何もないけれど。話がしたい。しよう、さあ、はやく、こちらへ――」

「アカガネさん。ごめんなさい、そちらへはいけないです」


 堰を切ったように、あるいは熱に浮かされたように、捲くし立てるアカガネさんをなるべく強い声音で遮る。アカガネさんは上気した笑顔のままで、ぴしりと固まる。


「私、あのひとに、会わないといけない。あのひとが見られたくないって思うならそれを尊重したいけれど、それはあなたの言葉で、あのひとが言ったわけではないから。それに、この機会を逃したらきっと後悔する。私も、かの遊女(わたし)も」


 そう、そして。

 伝えなければいけないことがある。


「だから、いかないと。ごめんなさい。最初にここへ連れてきてくれて、ありがとう。……これをあなたに言うのは、違うのかもしれないけれど」


 アカガネさんは返事をしない。目を見開いたままだ。

 ヒヅキさんに向き直る。


「行きましょう」


 裸足のまま階段を上がろうとしたが、軽々抱えられ、ヒヅキさんはまた同じように階段を上がり始めた。先程よりも肩に触れる力が強いような気がする。


「あなたはもう迷うことは無いだろうから今は許したけれど、もうだめだからね。もう今夜を越えたらここへ足を踏み入れるのもだめ」

「そうなんですか」

「あれは土地そのものだって教えたでしょう? 人の身で縁を強くすればするほど誘われやすくなる。あなたが自分の足で歩くだけで、気付いたら取り込まれていた、なんてこともありえるかもしれない」


 でも、化け猫さんが明日からはもういないというならば、私もきっとここへ用はなくなる。

 夏休みが明けるのを待たずに、私はこの町を出るだろう。おかあさんが再婚する話はまだ結論は出ていないけれど、話し合おうとおかあさんは言ってくれた。私がそれを望まないならそれでもいいと言ってくれた。

 おかあさんとの話はたくさんあるし、きっと合わないこともあるけれど、前よりひどいことにはならないと思えるくらいの余裕は生まれている。話も出来なかった前よりは、納得も理解もしやすい。

 たぶん、遊女の心のいちばん弱い部分に引きずられていたのもあった。おとうさんがいなくなって、動揺していたところに引きずられたのだから、仕方ない。


 今までちゃんと話をしてこなかったこともよくはない。新しい人を、おとうさんと呼ぶのはまだできない。おかあさんたちが私を思ってくれていたとしても、私にとっておとうさんはあの人だけだ。でも、おかあさんやおとうさんが想ってしてくれることだからちゃんと大切にできるようになりたい。

 ちゃんとそうできるようになるために、私は化け猫さんをちゃんと看取りにきた。化け猫さんがもう心配しなくてもすむように。



「さあ、あのひとはこの社の最奥にいるよ。俺が守る主の眠る部屋。あなたが使っていた部屋から奥にはその部屋しかない。廊下の先に、まっすぐ」

「ヒヅキさんは」

「俺はいかない。俺はたぶん、邪魔だからね。大丈夫、あなたが危なくなるようなら、その前には駆けつけられるようにする」



 早くお行き、と社の玄関に下ろされる。足がびしょびしょだが、気にするなと合図する。気が引けたが、それどころではないのだ。頷きで返す。

 ――と。

 ヒヅキさんが私の肩を弱弱しく掴んだ。振り返られることは望んでいなさそうだったから、そのままで耳を傾ける。


「緋織。あのひと、ほんとうに寂しがりで寒がりなんだ。だからお願い、あったかくしてあげて」

「……はい、わかりました」

「ん、ひきとめてごめんね、いってらっしゃい」


 言われずともそのつもりだ。大丈夫、怖くない。



 廊下はひやりとした空気に満ちていた。私の泊まっていた部屋を過ぎると、特に。左右が窓の渡り廊下のような造りで、雨で揺れる木の影が床に落ちている。雨の音。ざあざあと、それだけが鼓膜を揺らす。水分を多く含んだ空気は吸うと、まるで水を飲んだかのように錯覚してしまう。

 進む。それほど長くはない廊下だ。その先に、襖が在った。なんてことはない、ただの襖。それをそっと開けると、比べ物にならない清廉な空気が廊下へ溢れ出た。夏とは思えないほどの、冷たさ。一歩中へ入ると、わずかに質量を持った空気が体に纏わりつく。

 不思議と嫌な感じがしないのは、これがこの地の主の発するものだからだろう。

 す、と体をすべて滑り込ませる。薄明るい雪洞(ぼんぼり)に照らされた御簾の手前。真っ白な猫が蹲っていた。人の姿を保つ余力はないらしい。もとはただの猫。それが当然だろう。


「化け猫さん」


 声を掛ける。ぴくんと耳が震え、とたんに瞼が開かれた。色違いのガラス玉のような目が飛び出さんばかりに剥かれ、跳ね起きる。そうして全身の毛を逆立てて唸った。

 ふつうの猫と違うところは。

 尾が二股で。

 ちょっと痛い妖気が迸っているくらいだ。


「化け猫さん」


 手を伸ばす。爪がその手を引っ掻き、傷口から濃い紫色の――呪詛、というのだろうか。それが溢れ出す。それに気を取られている間に指に噛みつかれて、そこもまた同じように呪詛を纏った血が零れ出す。動くと尾に付いた鈴が力なく音を発する。近寄るな、とでも言いたげな。

 痛い。痛いけれど。


 ――ヒヅキさんは言わなかったけれど、見当のついていたことがある。私は妖というものについて全く詳しくないから、ぜんぜん的外れかもしれないが。

 このひとは、人を恨んで呪って、そうして化け猫へ転じた。

最初がそうなのだ。きっと、こう在らなければどうしようもないのだ。こういうふうにしか、在れない。人が好きで、いくらそう思ったところで、本能にはあらがえない。ヒヅキさんが言った妖の本能は、つまりそういうことだ。


「……ッばけねこさん」


 呼ぶ。

 呼んで、その小さな肢体を抱き上げた。

 驚いたのか、首筋に噛みつき、爪は服を突き破って肌に刺さる。血が滲むのがわかる。ただでさえ、この呪詛が纏わりついた傷口は痛いのだ。

 それでも離さず――むしろ、もっと強く、彼を抱きしめた。

 ああ、だってこの感覚。知っている。一番最初に出会ったときも、彼はこうして噛み付いて、敵意をむき出しにしていた。怖いはずがない。知っているのだ、このひとが寂しくて怖くて、それで敵意を振りまくしかできないことを。


「化け猫さん。大丈夫です。私、来ました。あなたに、ずっと待っててくれたあなたに、会いに来ました。間に合ったと言えるかはわかりません。これからあなたを幸せにする時間が残されているのか、そもそも私にそんなことができるのかわからないですけど――でも、私、来ました」

『なんで、来たんだ。オレは、あいたくなかった』


 唸り声の中、そんな言葉が届く。苦しげに吐き捨てるように言う姿はどう見ても無理をしていて、誰が見ても――嘘を吐いている。


「嘘です。だって、ずっと待っててくれたんですから」

『だからなんだ、会いたくない。痛いだろ、はやく帰れ。帰って忘れろ』

「いやです。できません、痛くもないです」


 ぐると唸り声が低くなり、牙が更に食い込む。これで動かれれば肉ごと持っていかれそうで、痛くて、でも言ってやらない。諦めてなどやらないのだ。


『このままだと取れるぞ、指……ッ!』

「取れません、あなたはそんなことしない!」

『なんで……っ!』


 そのなんではきっといろいろ込められている。なんできた、なんでそこまで、なんでオレのために。その中で、一番私の根底に関わることを私は言うべきだと思った。

 だから、なんでと問うてくれれば答えは簡単だ。私は精一杯痛さを押し殺して笑い、それを告げる。


「なんでって、私が化け猫さんを好きなんです。大好きなんです、最初とか関係ない。不器用で、ひたむきなあなたを私が好きになったんです。自分で会いに来たの、あなたが好きだから!」


 ――そうだ。最初は重なり合った縁が繋いだ想いかもしれない。

 でも今はもう違うのだ。かの遊女と私は同じであって、同じではない。私が、化け猫さんに救われて化け猫さんを好きになったのだ。

 危険と知って遠ざける優しさを。

 わざわざきつい言葉で突き放す不器用さを。

 隠しきれなくてこぼしてしまう寂しがりやなところを。

 ことここに至るまで、触ることすらできない怖がりなところを。

 ほんとうは満足なんてしてないのに騙せてしまう悲しい嘘を吐くところでさえ、すべて愛おしい。すべてが好きだった。どれをとっても彼を嫌う理由になりそうもないのは、今の私自身の言葉だ。


「あのね、あなたが私をずうっと待っていてくれたことは聞きました。あなたがほんとうに望む相手ではないかもしれない、けれど私はあなたが好きだよ」

『……っ』


 色の違う双眸に厚い涙の膜が張る。今にも泣きだしそうに歪めた白猫は牙を緩める。わなわなと震える口をそっと離して、消え入りそうな声で話す。


『今だって、オレはおまえを食べたいのに。たべてしまえばずうっと一緒にいられる、この血の味さえ美味しいと感じてしまっているのに――』

「あなたが望むなら、食べられてもいいです。もっと一緒にいたい気持ちは同じだから――けど、あなたは食べた後できっと後悔します。だから食べられてあげることはできません」


 そう、食べた後の私の亡骸を抱いた化け猫さんはそのときこそほんとうに狂ってしまう。手に負えない呪いを振り撒くだけの存在になる。ヒヅキさんが手に掛けなければならなくなってしまう。そんなのは誰も望まない。

 だから食べられてはあげない。代わりに――


「たくさん、今までの分も、たくさん抱きしめます。約束も果たします。だから、私を突き返そうとなんて、しないで……?」

『……、オレは、おまえにこんな姿みせたくなかった、よ』


 化け猫さんは力なく吐き出すと、涙を湛えたまま瞼を閉じた。

 ざわざわと逆立った毛を撫でて戻す。毛もやわらかければ、力の抜けた肢体もふにゃふにゃしている。最初の夜を、思い出す。死んでいるのかと焦った、あの日。あの夜よりもずっとこの小さな猫は、温かさを失くしている。

 否が応でも思い知らされる。これだけ話し、威嚇をしただけでこの消耗。

 もう長くない。ほんとうに、夜明けを待つまでもなく終わってしまう。

 どうすれば。

 このひとが、なくしたもの。思い出せずにいるもの、かつての遊女が望んで、彼に託したもの。それはあの話を聞いた今では見当がついている。でも、このままではつれていけない。その前に、いなくなってしまう。

 焦る。そんな暇はない。わかっている。ではどうする。どうするのだ。


「――あ」


 ここ、は。

 この町の主の眠る部屋。だからヒヅキさんはここへこのひとを入れた。主の妖力は人にも妖にも作用する、穏やかな力だと、彼は言っていた。

 このひとが眠れない時にここへ来る理由。今ここにいる理由。つまりそういうことだ。ならば、この奥に寝ているだろう主に、お願いすることはかなわないだろうか。


「かがみの地の、ぬしさま」


 御簾の奥に、声をかける。


「たすけてください。私はあなたのことをよく知りません。この地の者ではなく、どうみてもよそ者です。こんなふうに身勝手なお願いをすること自体間違っていると思います。ですが――」


 水分を多く含む、冷たい空気が肺を満たす。

「たすけてください。このひとの最期に、まだ見せたいものがあります」


 沈黙。

 しんと静まり返る。やはり、だめだろうか。眠っているのだ、起こすことなどできないのは、考えてみれば当然だ。

 ならば、時間に余裕はない。どうにかしていかなければ。電車はとっくに終電の時間は過ぎたし、バスもない。母に車を出してもらうわけにもいかず、一度戻ってヒヅキさんに相談しよう、と立ったとき。


「――――――――」


 すう、と息を吸い込むような音が空気を揺らして聞こえた。御簾を振り返る。

 薄明るい雪洞。鮮やかな柄の御簾。その奥に、ゆらりと揺れる人影。

 息を呑んだ。ぴるぴると動く大きな三角耳が見えた。


「――――――――」


 その人影は緩やかに動く。ずっと寝ていたからだろうか、立ち方を迷うような仕草が見えた。


「――――――――」


 御簾がゆっくり捲られる。あ、と声が漏れた。緋色の明かりに濡れて、きらめく白銀の髪。長い髪だ。少し縦長の狐耳。白い肌が見える。長いふさふさとした尾も同じ白銀。化け猫さんと同じようで、全然違う。見てもいいのかもわからない。言葉もない。ただただ、美しい。

 薄い唇。通った鼻。形のいい顎。順に上へ行く視線。

 深い青の目と、視線が絡んだ。吸い込まれそうになる青。声にならない悲鳴が漏れた。怖い? 怖いのか。私は。わからなかった。ただ、おそろしい。美(おそろ)しい。これは畏怖だ。


「――――――――」


 その美しいひとは、手招きをした。吸い寄せられるようにして、私の足が動く。うまく動かず、ぎしぎしと音を立てているが。

 少し爪の長い指が白い猫に触れる。じわ、と指先から水の溶けだすような光景が見えた。濡れてはいないから、本物の水ではない。かがみの地の主の、妖力。

 清廉な水のにおいが強くなる。数秒だっただろう、それはすぐに化け猫さんの中へと浸透していた。化け猫さんの呼吸が穏やかになるのが、鼓動が少しだけだけれど強くなるのが、わかった。

 化け猫さんと、御簾を少し捲っている『ぬしさま』を見比べる。


「――少し、力を分けた。その猫を見送るに相応しい場所へ、どうか連れて行って」


 穏やかな声音でそれだけを言うと、緩やかな動作でそのひとは御簾の奥へ戻ってしまった。雪洞の明かりが揺らめき、再び横になったことがわかる。


「……ありがとうございました」


 精一杯の気持ちを込めて、頭を下げる。そうして、穏やかになった小さな猫を抱きしめてその部屋をあとにした。



 廊下は真っ暗で、外はまだ雨がざあざあ降っていた。台所を抜け、居間を抜け、祭壇の横を通って社を出る――と。


「……ッ」


 まぶしさに目が眩んだ。橙色と赤色の光が外に満ちていた。


「さ、行くところがあるんでしょう? これに乗せてもらって」


 目が慣れるよりも早く、ヒヅキさんが手を引いた。ほとんど投げるみたいにして、社の前に停まっていた体が何かに放り込まれる。

 開きかけた目を、衝撃に備えて瞑るも、衝撃はなかった。落ちたところがふわりと受け止めてくれた、と考えるのが妥当だ。

 畳。座布団、そして赤い縁の丸い窓が左右に二つ。小さな座敷のようなところに私は乗せられていた。


「ヒヅキさん、これは」

「朧車っていう妖。無口だけど気のいい奴だから、大丈夫。行先は?」

「行先、は――」


 ヒヅキさんに向けて、それを口にする。ずっと正しいかはわからないでいたけれど、ヒヅキさんは「そっか、大丈夫。きっと合ってる」と言い、「いってらっしゃい」と手を振る。しゃん、と布が下り、ヒヅキさんの姿は見えなくなる。

 朧車は走り出す。さっきの明かりはたぶん、この車自体に取り付けられた提灯だ。それらに括られた飾りの鈴の音が大きく車内に響き、がたんと揺れた。化け猫さんを放り出さないようにだけして、奥のほうへ座りなおした。

 夜明けは近い。きっと着くころには朝日が見える時間かもしれない。

 それでもいい。大丈夫、かがみの地の主だって力を貸してくれた。朝までもつのであれば、明るいほうがいい。

 丸い窓の向こうに見える景色はいまだ真暗に沈んでいる。雨も、ざあざあと降りやまない。天井付近に吊るされた小さな提灯がゆらゆらしているが、最初ほどの衝撃はもうない。エンジン……ではなく、朧車の呼吸がたまに腹の底へ響いてくるくらいだ。


 朧車は走る。

 膝の上で眠る化け猫さんは、今のところ、呼吸も穏やかだ。体温も、少し取り戻している。その背を撫でながら、ふ、と息を吐く。

 ほんとうに、ばかなひとだ。やさしくて、人が好きで、自分が全部後回し。

 化け猫さんは気づいていたはずだ。私がその待ち焦がれた遊女であること。だというのに、

私を人の世に返そうとして、でも、もらった名前に喜んで。

 怒っていいのだ。自分ばかりずっと幸せになって、自分がこんなになるまで放っておいて、と。

 でもこのひとは、言わないだろう。何があっても、きっと。

 空が白んできた。雨は上がったらしい。風に乗って、独特のにおいがする。

 私も行ったことのない場所。きっとこれまでのわたしも、行ったことのない場所だ。――きっと、このひとと来るために、誰も行かなかった。約束はここで果たされるのだ。

 朧車は緩やかに地上へ停車した。化け猫さんを抱えて、そっと降りる。柔らかいのか固いのか、よくわからない感触が足の裏に伝わった。朧車は外から見るとかなり恐ろしい出で立ちをしていたが、目が合うと、にこやかに笑ってくれた。会釈を返す。

 朝日が昇りつつあり、東の空はもう青空がわかる。雨の後の晴天だからだろうか、空がとてもきれいだ。空気がきらきらと光って、水面も同じようで。

 こんなにきれいな場所があったのか、と見惚れてしまった。

 ざざーん、と波が打ち寄せる。ざざーん、ざざーん。波が引いて、寄せる音だ。潮の香りが鼻孔をくすぐる。


「――ねえ、見て。起きて、見て。貴方といつか見たいって約束した、海だよ」


 とんとん、と背中を軽く叩く。薄く瞼が開き、色の違う両目が海を映した。ゆっくりと顔をあげ、瞼もきちんと開き、魅入る。


『……海』


 感慨深そうに、彼はそうつぶやいた。ぼんやりとしていたはずの声音がはっきりと覚醒したのがわかる。


『オレは、この海の向こうから――きたんだ。訳も分からず、船に乗ってしまって、気付いたらこんなところに来てしまっていた。怖かった。向こうじゃ人にたくさん優しくしてもらったから、この国の、化け物扱いは、怖かった』

「――――」

『そこで、おまえに会ったんだ。オレはもう人を呪うような妖になってしまっていたけど、それでも救われたんだよ』

「――――」

『オレはおまえに救われた。あそこで、あの日、消えてしまわなくてよかった。おまえと、海が見られた』


 ――海。かつて籠の鳥だった遊女(わたし)が、彼の話を聞いて行きたがった場所。海はきっと、希望だったのだ。その先に何があるかわからないから、その先を信じられた。ここではないどこかならば何も怖いことはないのだと、信じた。


「あなたは、名前を忘れてしまったんだよね」

『……ああ。もう、思い出せない』


 かぼそい声だ。私はただかなしそうに俯く白い猫を自分に向き合うように抱き直し、その眼を合わせた。


「すえひろがり、わたしの願い――あなたの名前は、八汐(やしお)」


 口にすれば驚くほど舌になじむそれは、かつてたくさん読んだ名前だからなのだろう。ヒヅキさんにこのひとの話を聞いたときにすとんと落ちてきた。

 零れ出るほど見開いた目に、私が映る。すぐにその瞳は波打って、映った私も揺れる。するりと腕を抜け落ち、それを捕まえようとする前に、体が覆われた。それが化け猫さん――八汐の腕だと気付くのに、そう時間は要らなかった。


「ありがとう、それがオレの名だった。大事にしたかった名だった。ありがとう――ぜんぶ、思い出せた」


 名前は存在を肯定する唯一――それで、すべては説明できる。

 抱きしめる腕はさらに力を増し、苦しくて涙が出るくらいだった。心臓が痛くて、胸が痛くて、行き場のないこの痛みが涙となってあふれ出す。私の返す腕にも精一杯の力を込めて、その首元に顔を埋めた。

 良い匂い。あたたかい。痛ささえも愛おしい。好きなひとに触れるというのはこんなにも心地いいことだったのか。


「八汐、八汐。私はもうだいじょうぶ。あなたが心配するようなことはないよ。今度は、あなたがしあわせに成る番だ」

「しあわせというのなら、もう十分すぎるくらい報われた。ずっとひとりだったのを、他でもないおまえが看取ってくれる。これ以上の何を望めというんだ」

「……あなたならそういうと、思ってた」

「ほんとうに、もう報われた。あとはおまえがもうこちら側に煩わされないで、生きてくれたら、それがうれしい」


 このひとは。

 自分のような存在が人に関わることを、ほんとうによしとしない。


「八汐?」


 ふと、猫みたいにあたたかい温度が周囲の温度に紛れていくような錯覚を覚える。肩の辺り。着物の裾。視線を下げていって――爪先。

 溶けている。端から。夏暁(なつあけ)にかがやく光の中に――その体は溶け始めていた。


「だから言っただろう? オレはどうしたってもうおまえと一緒に行くことは出来ない。この姿で、おまえを抱きしめるのだって、主様に力を貸してもらえなければ叶わなかった。真名(まな)を思い出しても、この結末は覆らないんだ」


 望まないのではなく――望めない。

 そう暗に言う八汐は眉尻を下げて、困ったように笑った。では、それなら、もう一度、ぬしさまに力を与えてもらえば。あるいは、私の名を明かせば、とあらゆる提案が駆け巡り、しかし、それは彼にはお見通しだった。


「誰にでも平等なはずの主様がオレに力を貸してくれたことだって本来はないようなことだし、今式の契約を結ぶには――やっぱり遅い」


 そうしている間にも、彼の体は溶けて行く。焦りが募る。


「じゃあ、形だけでも、せめて、今の私の名前を、覚えて行って」

「気持ちだけでしあわせだよ。おまえにこちら側と縁を繋いでしまうのに、いなくなるオレは、おまえを守ってやれないから」

「でも、それじゃあ」

「だいじょうぶ。――ほら、最後だ。最後におまじないをしてあげる」


 そういって、八汐は強く抱きしめて、私の額に唇を落とした。抱きしめられているはずなのに、感触はほとんどない。そこにいることがかろうじてまだ分かる。続けて、私の目蓋に一度ずつ、そっと押し付けられる。それがほんとうに優しくて、涙が溢れてくる。何も――何も、してあげられない。

 それから尾についていた鈴を取ると、私の右手に握らせる。冷たい鈴の感触は痛いほど分かるのに、その手にはすり抜けてしまう。


「鈴はあげる。これは、餞別に貰っていくよ。おまえが帰る頃には――」

「あ、八汐、やしお、また――ッ!」


 最期に八汐は、そっと唇を重ねて、とてもきれいに微笑んだ。なにも後悔はない、そんな晴れ晴れとした笑顔で、彼は別れを告げる。


「――ああ、ありがとう。愛していた」


 跡形もなく。

 何も残すことなく。

 最初からいなかったかのように。






 ――――八汐はそうして消えてしまった。



 

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