第8話 泥濘

 果澄が姿を消した。


 空乃は、直感でなんとなく理解した。

 きっとこれは、日葵ちゃんの仕業に違いない。

 夢の世界を変えてしまう力を持った魔法少女を、一人また一人と拉致して、自分の邪魔者を着実に消していくつもりに違いなかった。それぐらいのことを平然と行い、実行してしまうのが日葵ちゃんの恐ろしいところである。


 どうするべきかをすぐに考える。


 だけどどうするべきかがわからない。


 そこで、空乃の腰にある端末に手を伸ばす。電源ボタンを押し、画面のアイコンをタッチし、インストール画面が流れてそれが完了すると、端末から目の眩むような光が放たれる。光の中から現れたのは、リスのような尻尾を持った青色のネコ。実はスカートのポケットの中におばあちゃんのメモが入っていて、「困った時は端末のアイコンを押しな」と書いていた。おばあちゃんのメモ通りに端末のアイコンを押して、現れた可愛いネコがなにか状況を変えてくれるに違いなかった。


 ネコが口を開いた。


「ついに動き出したようだね」


 おばあちゃんの声である。


「まあそれはあの子が動かないといけない状況になったってことさ。さあ気を引き締めな。最終決戦だよあんたたち。ついてきな!」


 有無を言わせずに先導してくれるおばあちゃんの声のネコは、円形に渦を巻く謎の空間を出現させ、飛び込んでいった。


 空乃あらためマジカルスカイブルーと、凜花あらためマジカルチョコレートブラウンと、色奈あらためマジカルシャトルーズイエローが顔を見合わせて、頷き、円形に渦を巻く謎の空間に足を踏み入れた。




 潮の香りが飛び込んできた。


 坂の多い町が広がり、町には海が面している。どこを見回しても、すべての場所に見覚えがある。この場所は知っている。


 多坂町だった。 


 そして海岸沿いに誰かがいる。その誰かは黒いローブを纏い、黒いとんがり帽子を被っている。とんがり帽子の先っちょは折れ曲がり、その背筋も恐ろしいほどに折れ曲がっている。あれほどまでに見事な猫背の人物を空乃は一人しか知らない。

 真っ黒い格好の人物が、こっちを向いた。


 と思えばまばたき一つの間にすぐ近くにいる。


「来たのね空乃ちゃん。あら、お母さんまでいるのね」


 空乃は、驚きのあまり一歩下がろうとする。だけど足が動かない。足に絡みつく何かのせいで、まったく身動きができなかった。足下を見ればさっきまでそこにはなかったはずの泥が目の前の人物を中心に広がっている。凜花と色奈も、泥に足を絡めとられて空乃と同じように一歩も動くことができないでいた。


 当たり前のように空を飛んでいるおばあちゃんの声のネコは、泥の影響を受けていない。


「やっと現れたね。あんたの馬鹿げた夢もここで終わりだよ。観念しな」


「邪魔だからじっとしてて」


 ネコの周囲に光の輪っかが生まれて、それが体を縛り付けてネコの身動きを封じた。おばあちゃんの声のネコは、なんとか身をよじって光の輪っかから脱出しようとするが、脱出できるような兆候はいっさい見られない。


 魔女がこっちを見る。


 顔がすべて隠れるぐらいの前髪の隙間から、闇に塗られた瞳が覗いた。


 彼女は間違いなく日葵ちゃんだ。


 空乃は心を決めた。


「じっとなんかしてられないよ!」


 空乃はステッキを頭上高く掲げ、ビームを思いっきり足下に放つ。足に絡みついていた泥は爆ぜ、周囲に濁流のように飛び散った。空乃は泥から解放され、全身に泥をかぶった日葵ちゃんに向けてステッキを構えながら話す。


「町を元通りにして日葵ちゃん。それと果澄ちゃんも返して。じゃないといくら日葵ちゃんでも許さないよ」


「元通り? 許さない? ここは私の世界なの。どんなの選択肢も私が決めるのよ。それと、果澄ちゃんはね、あの子はね、」


 全身の泥をそのままに、日葵ちゃんがふふふふふふふふふふと不気味に笑い出す。顔のパーツで唯一露出した口元がまるで三日月のような形を作っている。袖口のだいぶ余っている手元を口元に持ってきてくつくつと体を揺らしている。髪の毛の泥をこすりつけるように空乃に近づいてきて、

「どうなったと思う?」


 まったくもってわからない。


 日葵ちゃんのことだからきっとろくでもないことに決まっている。日葵ちゃんのやることなすことを予想できたことなど今までの人生で一回あるかどうかだ。七歳の誕生日の前日にちょっとお高めの髪留めが欲しいと言えば、なぜかお米のたくさん入る米びつを誕生日に渡された。友達に影響された八歳のとある日にバレエを習いたいと言えば、なぜか遊園地のお化け屋敷でお化けに気軽に挨拶ができるほど何度も巡回させられた。世界を征服すると言った時だって、まさか本当に実行しようとは思いもよらなかった。


 足元に泥がまたも迫ってくる。


 凜花と色奈はステッキを箒に変えて、それにまたがって空を飛ぶことで泥を回避した。


「あんたも空を飛びな!」


 光の輪っかに締め付けられて苦しむおばあちゃんの声を聞き、空乃もはっとしてステッキを箒に変えた。しかし思い出す。凜花のゾンビの世界で、自分が空を飛べなかったことを。さらに遡れば、ケーキ坂から思いっきりジャンプしてそれでも空を飛べなかったことを。空乃は箒にまたがって、空を飛べと頭の中で何度も念じた。しかし思いは実らない。空乃の体はただ泥に飲み込まれていくばかりだ。


「高菜さん!」


 凜花が空を飛びながらこっちに近づいてくる。手を伸ばして空乃の体を泥から引っ張り出そうとする。


 空乃も手を伸ばした。そして互いの指先が触れる瞬間、日葵ちゃんの指を鳴らす音が聞こえた。意思を持ったように動き始めた泥は空乃と凜花を分断する立ち昇る濁流となり、やがて濁流は凜花の体を打ち上げた。


 凜花の手が離れていく。


「それで欺いているつもり?」


 日葵ちゃんが言った。


 何のことかわからない。しかし日葵ちゃんは空乃の疑問など意にも介さずに、空乃のすぐ近くに指先を向けた。指の向けた先のなにもなかった空間に、突然色奈が現れた。彼女は透明になって空乃に近づいて助ける機会をうかがっていたのだが、日葵ちゃんにあっさりと見つかってしまったのだ。


 色奈に向けた指先を、日葵ちゃんがくいっと上に向けた。


 色奈の体は、弾かれたように日葵ちゃんの指の動きに合わせて持ち上げられていく。


 空乃の体が、底なしの沼に飲まれていく。


「ばいばい空乃ちゃん。果澄ちゃんだった子によろしくね」


 ——そうか、わかった。


 果澄のいる場所を理解した。


 空乃は鼻まで沈んだ自分の体を日葵ちゃんに向け、視線だけでこう告げた。


 ——必ず戻ってくるよ。


 と。


 そして、空乃の全身が泥に飲まれた。

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