最終話 ペンギンの恩返し

 次の日だった。


 学校から帰って、白いワンピースに空乃は着替えた。日差し対策にホームセンターに売っているような麦わら帽子を被って、露出している肌にこれでもかというぐらいに日焼け止めを塗って、昨日に用意していた手提げかばんと今朝に用意したお茶の入った水筒を肩にかけた。準備はできた。昨日のスニーカーを履く。くつ紐を結び直す。いってきますを言いながら玄関を出た。


 自転車に乗った。


 ペダルを漕いだ。昨日の走りで見事に筋肉痛になった足を労わりながら、日焼けで赤くなっている肌を労わりながら、荷物の入っているカゴを揺らしながら空乃はペンギンたちのいる浜辺を目指す。


 正確な時間はわからないけど、目的地に三十分もしないぐらいにたどり着いたと思う。


 ペンギンの一羽が空乃に気づく。


 その一羽が、空乃が来たことを他のペンギンに伝えていく。総出でのお迎えになった。


 空乃は、浜辺に面した歩道の脇に自転車を停めた。砂浜に降り立ち、ペンギンたちの歓迎を受ける。


 みんながみんな今日はいったい何をするのかといった顔、をしているのだと思う。


 空乃は砂浜におもむろに手提げかばんを置いた。当たり前のようにかばんに注目するペンギンたちは、空乃が、かばんをあさるだけでも異様な注目をする。そうして空乃が取り出したものはカラフルな紐の束である。


 ナニコレーナニコレーナニコレー


 当然の質問である。


 空乃は答える。


「今日はみんなに名前をつけようと思います」


 名前がつけば、集団ではなく個としての自己が生まれる。そうすれば、自分の意思だって生まれるしその内に個性なんてものも生まれてくるだろう。そういった個性の違いで好きとか嫌いとかの感情も生まれたら、そこにはきっと、友達という概念も生まれるだろう。その友達が自分とは違う種類のペンギンだったならきっと争いなんてものはなくなるに違いない。


 ——と、そんな深い考えは実はないけど、名前がずんちゃんとつんちゃんだけにあるというのも不公平な感じがする。


 持ってきたカラフルな紐の束は、名前をつけても空乃が忘れてしまっては意味がないというこという意味での識別に必要なアイテムである。


 ペンギンたちを一列に並ばせる。


 空乃は、手提げかばんをがさごそやって手帳とシャーペンを取り出す。そうして先頭のペンギンに向かって、


「君はりんごちゃんね」


 自分の言った名前、それとペンギンの足のところに巻き付けた紐の色をメモした。


「次ね」


 りんごちゃんと名付けられたペンギンは拝むように羽と羽をこすり合わせてから去っていく。二番目のペンギンが前に出る。期待している眼差しをしている。


「君はみかんちゃんね」


 そうやって一匹ずつの命名をしていった。最初のほうは果物の名前だったり花の名前から引用していったけど、三十を超えたあたりからはぱっと思いついた言葉を引用していった。例えばそれは寿限無だったり諸行無常とか沙羅双樹とか、りんごとかみかんとかと比べるとずいぶんとずいぶんである。


 まあいいよね。


 全部で八十七匹の命名を終える頃には、日が沈みかけていた。


 ペンギンたちが、自分の名前を連呼しているのを見て空乃は満足いった様子だ。


 今日は終わり。


 そして次の日。


 さらに次の日。


 空乃は、足しげく何度もペンギンたちの元に行った。


 ビニールプールを持っていったり子供用の野球セットを持っていったり、物置小屋にあるやつをとりあえず引っ張り出しては、それを使って色んな遊びを考案していった。勝負事では勝ち負けはあっても、勝ったからといってオアシスを使えるとかの条件はなく、純粋に楽しむための一つの要素としての勝ち負けがそこにある。


 いつからか、紐の色を見なくても名前が言えるようになった。見た目もあるけど、一羽一羽の立ち居振る舞いで区別がつくようになった。


 それぐらいの頃に、ペンギンたちは二羽から五羽ぐらいで固まることが多くなったように思う。それは種類とかに関係なくて、純粋に仲の良いものとつるんでいるような感じだった。犬猿の仲に思われたずんちゃんとつんちゃんもなんだかんだでずっと一緒にいて、叩いてかぶってじゃんけんぽんとか二羽だけでのドッジボールとかをしている。


 さらにそれぐらいの頃。


 巷では、人間の遊びをするペンギンが話題になっていた。


 そろそろかもしれないと思う。


 この砂浜は、そもそも人の出入りのして良いところではない。警察の人に見られたら、町の偉い人に見られたら、米粒一つほどの権力も持たない空乃はたちまちのうちに砂浜から追い出されてしまうだろう。今までそうならなかったのは、単に運がよかったとしか言いようがない。


 オアシスを争っての喧嘩も久しく見ていない。初めのほうは、空乃の見ていないところでの喧嘩もあったようだが今ではそんなこともないようだ。昔からの友達みたいに誰もが楽しく遊んでいる。


 ペンギンたちが話題になれば、たくさんの人がこの砂浜に押しかけてくる。そうなれば空乃はこの砂浜にはいられない。だけど、すでに争いごとはなく、だったら空乃のいる意味はもはやない。


 だから、空乃はそろそろ立ち去るべきなのだ。


 自分の願いは叶った。


 みんなが仲良く遊んでいる光景を、心の底から嬉しく思う。


 だけどどこか、寂しくも思ってしまう。


 空乃はぶんぶんと首を振った。こんなことでは駄目だ。空乃だっていつまでもここにいれるとは思っていない。いつかは去らなければいけない。


 空乃はペンギンたちに集合をかけ、みんなに聞こえるようにこの場所を去ることを告げた。


 みかんちゃんと諸行無常ちゃんがこちらに寄ってきてぎゅっと抱きついてきた。イカナイデーココニイテーという声を聞いたら、泣きそうになった。一羽一羽の頭を撫でていき、ちゃんとさよならを告げていく。だけどその間、ペンギンたちの群れから離れていく数羽のペンギンを見つける。あれはぶどうちゃんとヒマワリちゃんとチューリップちゃんとアイリスちゃんと貝砂利水魚ちゃんと痴漢撲滅ちゃんとつんちゃんとずんちゃんだ。円陣を組んでこそこそとなにかを話しているようだった。空乃がいなくなってせいせいするみたいな話をされていたら悲しいなと思う。


 一通りのペンギンたちに別れを告げ、残すは群れから離れていった八羽へのお別れである。


 空乃は彼らの元に近づく。


 彼らとも、もうお別れだなと思う。


 八羽の顔がいっせいにこちらを向いた。


 そして、どういうわけか、八羽のペンギンはものすごい勢いで空乃に寄ってきた。


「なんで!」


 空乃は思わず目を閉じた。


 とにかく衝撃を感じて、足下に地面の感触を消失した。


 明らかに地面とは違う感触が背中にあり、体が揺れていて手をつく暇さえない。


 初日に恐れていた、ペンギンたちの報復がまさか今さらになってやってきたのか、だけどいまさらそんなことをしても意味はないはずだ、空乃は状況を上手く飲み込めずに閉じた目を開けることもできない。


 とりあえず頭を守った。


 身も屈めた。


 視界は真っ黒だけど、そこを気にする余裕がなかった。


 上を向いているのか下を向いているのかもわからない。


 自分が呼吸をしているのかもわからない。


 いったいなにが起こっているのかとようやくそこに思考が至って、



 風を感じた。



 どこか暖かくて、だけど冷たさもあって、口の中で確かな塩辛さを感じた。髪とスカートがなびいているし、わずかな獣臭さが鼻をつくし、肌に触れているのは動物の毛だし、風切り音とペンギンたちのミテーという声が聞こえる。


 五感が、調子を取り戻していった。


 目を開けた。


 地上の生物を丸ごと焼き尽くさんばかりにメラメラと地上を照らす太陽、夏と言われれば誰もが思い浮かべるようなどこまでも広がっていく青空、それらを無謀にも飲み込もうとするまるで化け物みたいな入道雲が視界を埋め尽くした。


 視界には本当にそれしかなかった。


 一瞬の呆け顔から、思わず顔がほころんだ。


 状況を見てみれば、八羽のペンギンが空を絨毯のように並んで飛んでいて、その上に空乃がちょこんと乗っているといった塩梅だ。


 つまり空乃は、空を飛んでいる。


 そうだ、空を飛んでいるのだ。


 笑い声がこぼれた。


 両手をいっぱいに広げた。


 八羽のペンギンは考えたのだ。別れていく空乃に、自分たちになにかできることはないのかと。円陣を組んで、簡易的な会議をして、その結果として空乃を乗せて飛ぼうとの案が採用されたのだ。


 空乃は嬉しくなって叫んだ。


「ありがとー!」


 空乃は、本気で空を飛ぼうと思っていたのかは今でもわからない。


 自分のなりたいものが、本当に魔法使いなのかわかっていなかったからだ。


 だけどどうだろう。


 高く突き出した左手は、空に少しずつ近づいていく。


 身を乗り出して、空にもっと近づこうとする。


 できないと思っていたことが、自分の力じゃなくてもこうやって現実になった。


 なりたい自分は、かつての自分がなりたいと思っていた魔法使いは、具体的な形はわからないけどその輪郭を曖昧に見せたように思う。


 きっと、空には果てがないように、なりたい自分にだって果てはないのである。親に強制されて無理やり生み出される理想像とは違う、自分の曖昧な理想像を見つけだけでも、今はよしとしよう。今はまだ焦らなくてもいい、きっといつかなりたい自分がわかる、そんな気がする。


 それよりも今は身を任せよう。


 目指していくのは、どこまでも続く地平線。


 太陽にだって近づいている。


 無限大に風を切り裂いていく。


 やっぱりと思った。


 空を飛んで切り裂いていく風は、今までにないぐらいに気持ちよかった。

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