飛べない魔法使いと聞こえるゴースト

第1話 私、聞こえるの

 暑さはずいぶんと和らいで、セミの声はいつのまにかなくなっていた。天気はちょっと悪くって、黒っぽい雲がちらほらと見えていた。だけどこれから雨が降ることを知らせるあの独特の匂いがなかったのでとりあえず雨の心配はないだろうと思った。今は学校からの帰り道、傘を持っていない空乃はとりあえず胸を撫で下ろしていた。


 しかし季節の変わり目の天気ほど信用に足らないものもない。絶対に当たる馬券の買い方みたいなタイトルの本ぐらい信用がない。競馬なんてやったこともなければ行ったこともないが、まあ大事なのはニュアンスなのでそこはどうでもいい。


 とにかく油断は禁物ということであり、自転車のペダルを空乃は急ぎ気味に回して、家に帰ったらなにをしようかと思考して、学校の行き帰りで見飽きた街路樹をいつもよりも早いペースで疾走していた。


 カゴに入れたスクールバッグが細かく揺れている。


 自転車の鍵につけられた爆弾をデフォルメしたキャラのキーホルダーも揺れている。


 高速回転のタイヤが、路傍に転がる大きな石を踏んづけた。


 油断だった。


 襲いかかってきたのはわずかな浮遊感と、そのコンマ数秒後の着地の衝撃である。


 めちゃくちゃ大きな乾いた音がした。


 銃声かと思った。


 自転車に乗ったままフリーズしてから、まさか猟銃を持ったおじさんが近くにいるんじゃないかとぶんぶんと左右を見回した。


 いなかった。


 もしかしたら撃たれているかもしれないと手探りで自分の体を確認する。


 撃たれてもなかった。


 さっきの乾いた音は何だったんだろうと疑問に思いながらも、空乃はさっきよりもゆっくりとペダルを漕ぎ始めた。というよりもペダルがなんだか重く、しかも一定のリズムで自転車が上下に動く。まるで一定の間隔で石ころを踏んづけているようだ。


 この感覚には覚えがある。


 それと同時に乾いた音の正体もわかった。


 これは、自転車がパンクしてしまったのだ。タイヤの中の空気が、乾いた音の正体というわけだ。


「…………」


 ため息もでなかった。


 空乃は自転車からおりて、自転車を手で押しながら歩き始めた。


 どうか雨が降りませんようにと心で思う。


 話し声が、街路樹の曲がり角のほうから聞こえた。


「ちょっと、さっきの銃声? とうとう私が世界に不必要な存在だということが日本の偉い諜報部とか国の最重要機密の機関にバレたってわけね」


 女の子の声だった。


 声の感じから同い年ぐらいかなあなんて予想してみる。


「やるならさっさとやればいいのよ。どうせ私みたいなやつなんて存在してても……………………慰めなんていらないわよ。どうせ私なんてなにをやったって失敗だらけで………………その運が悪いだけっていうのが問題なんでしょ。季節外れのインフルエンザに、よりにもよって入学式の前日にかかって、それから二週間も学校を休んで、グループ作りに乗り遅れて、だから私には、その、あれよ、ともだ……………………うるさい。別にインフルエンザがなくたって私みたいなやつと仲良くしようなんてやつはいないっての」


 誰かと会話しているようだけど、相手の声は聞こえない。


「はいはい。そんな生意気なことを言ってられるのも今のうちなんだから。知ってる? 私のクラスには魔法使いの家系の子がいるの。その子に頼んだらあんたなんて………………………………わかってるわよ。ただ話すきっかけってものがあるじゃない。私みたいなやつが急に話しかけたら高菜さんだってきっと、」


「私?」


 思わず声を出したタイミングで、曲がり角から出てきた女の子とばっちりと目が合った。空乃と同じ制服だし空乃と同じスクールバッグだし、っていうか空乃と同じクラスに所属している時雨沢凜花その人である。声で気づかなかったのは、空乃と時雨沢凜花が普段あまりお喋りをするような間柄ではないということで、信じられないものを見たという目の見開きようと、さっきまでの台詞をすべて聞かれていたことによる頬の赤色は、時雨沢さんってこんな顔をするんだなあという印象を空乃に与えた。


 一つの違和感。


 口をぱくぱくとして、一歩二歩と後ずさるクラスメイト。さすがにクラスメイトに会った時の反応としては過剰すぎる気もするけど、違和感の正体はそこじゃない。


 ……ああ。


 わかった、凜花の周りには誰もいない。


「時雨沢さん、さっき誰かと話してなかった?」


 痛い所を突かれたという顔をしている。目が泳いで、虚空からまるで言葉を探しているようだった。やがて諦めたように息を吐き、手のひらで、高鳴る心臓を抑えつけるようにして、


「そうよ、痛い奴よ!」


 なに?


「私なんかの声を聞かせて悪かったわね。さっさとあなたの視界から失せてやるっての。お目汚しでしょ」


 凜花はさっさと踵を返して、


「ま、待って、さっき私のこと話してなかった? なにか話したいことっていうか、なにか相談したいことがあるんじゃないの?」


 凜花の足が止まった。


 間。


 その間は、誰かの話を聞いているような間のような気もする。


 数秒経ち、凜花がいやいやといった風に振り向いた。


「聞こえるの」


 単純明快すぎてめちゃくちゃ深読みのできる言葉が帰ってきた。


 考えるよりも先に、脊髄反射的に口に出る疑問、


「え、なにが?」


 もちろんそんな疑問は予想済みだったのだろうが、凜花はそれでもためらうように目を逸らす。愛の告白でもするかのような慎重さで、魚を驚かせないように水面に触るかのような丁寧さで、凜花はできるだけシンプルな言葉を選んだのだと思う。


「幽霊の声が」


 空乃にとって、そのシンプルさはいくつかの疑問を解消させる。それと同時、思わず疑いの眼差しを向けてしまう。


 そんな眼差しを受け取ってしまえば、


「頭がおかしい奴でしょ!」


 凜花は仁王立ちになって佇まいは堂々としている。言葉はしかし自分を卑下するようなものばかり。


 こんな人だったのかと思う。


 思い返してみれば、凜花が誰かと一緒にいるところを見たことがない。クラスメイトが彼女のことを無視しているだとか、あまつさえいじめをしているだとか、そういったことは断じてない。彼女に話しかけられないのは、クラスメイトの誰もが、彼女がどんな人なのかを知らないからだ。クラスメイトの誰もが、彼女に話しかけるタイミングを見つけられず、一学期がそんなこんなですでに終わろうとしている。彼女自身、それが当たり前のように日々を過ごしているようにも見える。だからみんなも、それを当たり前のように過ごしているのかもしれない。


 だけど凜花は、こうして空乃と話をしている。悩みがあって、空乃にそれを打ち明けてくれた。


 もしかしたらこれは偉大な一歩なのかもしれない。


「ねえ時雨沢さん」


 空乃の言葉を凜花は最後まで聞かず、


「消えろって言うんでしょ。言わずとも!」


 凜花はまたも踵を返した。周りなんて見えてなかったのか電柱におでこをぶつけた。スカートの中がそのまま見えてしまうようにしゃがんで、おでこのわずかに赤らんだ部分を丁寧に両手で押さえて、ううーなんでいっつもこんなについてないのよと眦にちょっぴり涙を浮かべて肩を震わせていた。


「大丈夫⁉」


 空乃は両立スタンドを立ててその場に自転車を停めた。


 それから、凜花の肩に手を伸ばすように近づいた。


「大丈夫じゃないほうがいいでしょ、私なんて。………………」


「そんなことないよ。クラスメイトが困っているならちゃんと心配するよ。ねえ、おでこ大丈——」


 凜花の肩に手が触れそうになって、


「もう、うるさいのよ!」


 空乃の手が引っ込んだ。


 思わず硬直した。


 なにか怒らせてしまうことをしただろうかと、いったい自分のなにがいけなかったのだろうと、自分の行動を順繰りに振り返ってみる。


 そんな時に凜花がこっちを向いた。


 空乃はなにも考えられなくなった。彼女がひどく、傷ついたような顔をしていたから。


「ご、ごめんなさい。今のは高菜さんに言ったんじゃなくて、」


 言おうとした言葉をぐっと飲み込んで、凜花はスカートの汚れも払わずにこの場を去ろうとした。電柱にぶつかった時にバッグが落ちていたことに今さら気づいて、彼女はそれを拾うために再びしゃがんだ。


 そして、またこの場を去ろうとした。


 空乃がそれを許さなかった。


「待って」


 宙ぶらりんの手を動かした。凜花の腕を離さないようにと掴む。


「ちゃんと信じるから」


 凜花からは、ただ沈黙だけが返ってくる。


 それに構わずに空乃は続ける。


「幽霊に関しては私もよくわからないけど、日葵ちゃんならなにか知ってるかもしれない。日葵ちゃんはなんていうかオカルト的なことに関しては色々知ってるし、もしかしたら幽霊のことだってなにかわかるかもしれないよ。そういうのを期待して私に相談しようかって悩んでたんだよね。だったらちゃんと力になるから。もし日葵ちゃんが使えなくたって私が問題を解決するまで頑張るから。ね?」


 凜花はさらなる沈黙、しかし空乃の手は凜花の腕から離れない。しばらく無言の空間が繰り広げられ、ついになにかを答えなければ逃げられないことを悟ったのか凜花が恐る恐るといった風に振り返る。


「その、あの、日葵ちゃんって、誰なの?」


 なんだか質問されただけでも嬉しくなって、


「私のお母さんだよ。よかったら私の家においでよ。うんうんそれがいいそれがいい」


 空乃は一人で盛り上がって、すでに凜花が家に来てくれる心づもりでいる。


 それに対する凜花はなぜだか顔を青ざめている。


「む、無理。私みたいなのがひと様の家に上がるだなんて。ま、まさかさっきのことを根に持って逃げ場のない部屋に誘い込んであんなことやこんなことをするんじゃ。さっきの銃声はもしかして——きっとそう、ぜったいそう、ああもうこんなことなら昨日のお母さんのハンバーグをお腹いっぱい食べとくんだった。私みたいなのが太っても太らなくても世界は回っていくんだし戦争はなくならないし少子化の問題だって、」


「ほら、はやく行こう」


 空乃は自転車を手で押しながらすでに凜花の数メートル先にいた。凜花に向けて手を振っている。それを見て、凜花はいっかい唾を飲み込んだ。覚悟を決めるようにぐっと握りこぶしを作った。空乃の近くにまで歩いて、隣にいていいのか後ろにいていいのか迷うようにして結局は後ろに歩くことを決めたようだった。


 その様を確認して、空乃はいつもの帰路につく。

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