第7話 おばあちゃんの魔法

 夢を見た。


 妙に暗い部屋だ。うすぼんやりとしている。窓はあるけど真っ赤な遮光カーテンが閉じられている。中央にある花のつぼみみたいな天井照明はなにも仕事をしていない。しかし壁際には、燭台が生えるようにいくつもあるし、レンガで組み立てられた火をくべるタイプの暖炉がある。この部屋の光源はリアルな火ということになり、部屋がうすぼんやりとしているのはそのためだとわかる。


 だけどおかしいのはその肌寒さである。


 燭台に立てられたロウソクにもレンガ式の暖炉にだって、同じように火がついている。その火はどういうわけか青く燃えていたけどそれにしたって火は火だろう。部屋が温まらないわけがない。だったら、肌寒いことにはなにか別の要因があるはずである。


 部屋を見回す。そこには壁紙とは思えないような丸っこい幾何学模様、首から下はどこにいったのかと心配になる立派な角の鹿、立てかけられた箒、大きな甕、床に散らばった宝石の破片と青い液体で満たされた大きな瓶があって、それらに囲まれたところに揺り椅子がぽつんと佇んでいる。


 揺り椅子が揺れた。


 誰かいる。


 そこに注視するまで、空乃はその影に気づかなかった。


 だけど気づいてしまえばなんてことはない。


 おばあちゃんだ。


 うすぼんやりと青くてどういうわけか肌寒くって、散らかっているんだか意図的にそういう風に置かれているんだかわからないものがいっぱいのこの部屋は勝手知ったるおばあちゃんの部屋である。天井照明は電気を使うからよくわからないと言い、そもそも太陽の光はあんあまり好きじゃないと言い、やっぱり火の光が見ていて落ち着くのだと言ったからこその部屋の明るさで、火が青いのも肌寒いのも、そのすべては魔法によるものだった。火が青いのは魔法に必要などうたらこうたらで、肌寒い温度はそれぐらいがちょうどいいのだとかなんとか。


「おばあちゃん」


 空乃は揺り椅子に駆け寄った。


 揺り椅子の影はこっちを向いていない。だから回り込むように近寄った。黒いローブに抱きついた。衣越しから細い体を感じる。頭に手が乗せられる。空乃はおばあちゃんの膝に乗るような形だ。自分の体が小さくなっていることに今さら気づき、今ではおばあちゃんにこんな風に抱きついたりもしないなと思う。


 こういう風に抱きついたりしてたのは小学校までだったかな。


 そんなことを考えている頭で、もぞりとおばあちゃんの手が動く。迷いない動きで、ほっぺたのほうにおばあちゃんの手が来た。


 そのままおばあちゃんは、空乃を押しのけるように腕を伸ばして、それから怒ったような声を出す。


「どきな、この甘えたがりが。重いったらありゃしないんだよ」


 ほっぺたが歪んだ。


 しかし空乃は引き下がらない。


「やーだー」


 手と足でがっちりとおばあちゃんの体をホールドし、絶対に離れようとはしない。コアラが木にしがみつくような感じだ。


 しかしおばあちゃんも引き下がらない。両手を使って、空乃を色んな角度から力を加えて引きはがそうとしている。


「ほら、離れなったら離れな。聞き分けのない子だね。あんたのほっぺたがふやけたみたいになっちまうよ。ほっぺたがだるんだるんのおもちみたいになったら周りから馬鹿にされちまうんだからね。それでもいいのかい」


「やーだー」


 しばらくはそんなやりとりが続く。


 やがて、息を切らして、おばあちゃんは脱力したように腕をだらけさせる。


 おばあちゃんはため息を吐いて、


「年寄りに変に体力を使わせるんじゃないよまったく。もういい、好きにしな。抱っこだろうとおんぶだろうとなんだってやってやるよ。さあ望みはなんだってんだい」


 勝った、そんな風に空乃は思う。


 いつだってそうだ。


 空乃が意地になってしまえば大概の場合はおばあちゃんが折れてくれる。おばあちゃんがこうなったら、空乃の言うことを本当になんだって聞いてくれる。一緒につみき遊びをしてくれるし、夜には児童書の朗読だってしてくれるし、欲しいおもちゃも食べたいお菓子もなんだって買ってくれる。いつだってむすっとした顔で、いつだってぐちぐちと文句を言うけど、空乃にとってはそれでも優しいおばあちゃんなのである。


 なにをしてもらおうかなと思う。


 しかし思うよりもはやく、言葉が口に出る。


「私って魔法使いになれるかな!」


 わずかな変化が、おばあちゃんの表情に生まれる。


 このことを小さい体の自分はわかっていない。だけどこの時、おばあちゃんは確かに困った表情をしていた。


「あんたは魔法使いになりたいのかい?」


 おばあちゃんの言葉に悩み、空乃は目ん玉を天井の木目に向けながら、


「わかんない。だけど日葵ちゃんがあなたは魔法使いになる人間よ、って私に言ったの。魔法使いになったらなんだって思い通りにできるし、世界だって征服できちゃうんだって。だから将来は日葵ちゃんの幹部として働けるように、立派な魔法使いにならないといけないの」


 おばあちゃんは目眩でもするように頭に手を置き、


「あの子はまだそんなことを言ってるのかい。どこで教育を間違ったんだか。なるべく魔法に触れさせないようにしてきたのがまさかこうも裏目にでるとはね。まったく」


 おばあちゃんは大きなため息、それから自分の目を見るように空乃の顔を持ってくると、


「いいかい。お母さんのことはどうでもいい。あんたがどうなりたいのかが大事なんだよ。正直、魔法使いなんて時代錯誤もいいところさ。魔法使いだってことで得られるステータスなんて何一つだってありゃしない。だからこそお前の母さんの日葵には魔法のことなんてなにも教えてこなかった。まあ、あいつは勝手に私の蔵書から魔法のことを学んでいったみたいだが、だけどそれも、あいつが選んだ道ならあえて文句はあるけど文句を言わないのさ。だけどあんたはどうだい。お母さんに言われたからってはいそうですかと素直に魔法使いになっちまうのかい。馬鹿馬鹿しい。あんたが何になるのかはあんた自身が決めな。しっかりと将来を見据えるのはもっとあんたが大きくなってからでもいいが、今はどうだい。なにがしたいか、なにになりたいかぐらいのちっぽけな意思ぐらいはあんたにだってあるだろ。言ってみな。あんたはなにがしたくて、あんたはいったいなにになりたいのか」


 考える。


 でもわからない。


 わからないというよりも、覚えていないといったほうが正しい。


 この夢は過去の記憶の再現で、こんなやりとりがあったことはなんとなく覚えている。さっきまで意思に関係なく喋っていた口がこういう時に限って動かない。この時はたしか、おばあちゃんに対して即答していたような気がする、答えるべき言葉があるはずだった。


 自分はいったいなにをしたくていったいなにになりたかったのか。


 魔法使い、それともどっかの魔法の国のプリンセス、もしかしたらバリバリ働くキャリアウーマンだろうか。


 夢の中のまどろみでわずかにだけど魔法使いと言ったような記憶が浮かぶ。だけどそれはただの魔法使いじゃなかったはずだ。いったいどんな魔法使いに自分はなりたかったのか。思い出そうとしたけど本当にその努力が実るとは思えない。だってこれは夢だから。この夢を見たということすらも、自分は覚えているのかが定かではないのだから。



 目が覚める。



 燐光する青がある。寝ている背中にごつごつとした岩肌がある。暑さで倒れたはずなのに、今はなんだか肌寒い。


 上半身を起こしてみる。


 おでこになにかがぶつかった。


「いた」


 ペンギンだった。しかも二羽。一羽はずんぐりむっくりとした白黒ペンギンで、一羽は目元のひげのある白黒黄ペンギンだった。ずんちゃんとつんちゃんだ。


 彼らは、空乃が起き上がったのを見て抱き合いながらヨカッターヨカッターと喜び、次の瞬間、なんでこんなやつと抱擁を交わさないといけないのだと互いにそっぽを向いた。それからすぐに空乃に向き合い、ダイジョブカナーダイジョブカナーと話しかけてくれる。


 周囲にも、ペンギンたちがいっぱいいた。黄色いひげがあろうとなかろうと一緒になって空乃を取り囲んでいる。この場所が、ペンギンたちがオアシスと呼んでいる場所であることが、そんな周囲を一通り見回しているとわかる。燐光する青は岩肌が発光しているもので、池と呼んでもいいぐらいの大きさの水たまりがあって、この肌寒さはおそらくなにかしらの魔法が働いている。


 ふと頭に浮かぶ。


 オアシスに最初に来た時に感じた既視感は、おばあちゃんの部屋とこの場所が似ているからだ。


 だとすると、


「なにやってんだいあんたは。自分のことは自分がよくわかってるだなんてことをよく聞くけど、あんたは今後の人生でその言葉は絶対に使っちゃいけないよ」


 すぐ後ろだった。


「おばあちゃん!」


 黒いローブ姿で、いつもの眉間にしわを寄せた顔でおばあちゃんがそこにいる。


「なんでここにいるの?」


「ここは私が作ったんだよ。ペンギンたちが快適に過ごせるようにってね。だけど他のペンギンたちが来てなんだか争っているみたいじゃないか。どうにかしろとこいつらが私を頼って来たから、そこでまあちょうど孫が馬鹿な事してるから、それを助けたら孫がどうにかしてくれるって言ってやったのさ」


「私が? なんで」


「ここまで出向くのが面倒くさかったからだよ。それで誰かに押し付けちまおうと思ったのさ。そしてバカ娘に任せるよりも、あんたのほうがマシと思ったのさ。で、ちょっと様子をちょちょいと魔法で見てみたらまた馬鹿なことをしているじゃないか。だから重い腰を上げてここまで来てやったのさ。仕方なくね」


「じゃあここまでおばあちゃんが運んできてくれたの?」


「いいや、そこのペンギンたちが運んでたよ。獣の分際であのまま放っておくということをしなかったのはまあいい判断だったね」


「みんなが一緒に運んでくれたの?」


「質問ばっかりするんじゃないよまったく。ほら、そんだけ喋る元気があるなら帰るよ」


 おばあちゃんが手を握り、空乃を立たせようとする。


 だけど空乃は立たなかった。


「最後の質問、このオアシスみたいな場所ってまた作れるの?」


「…………無理だよ。魔法を使うには細かい条件ってもんがある。この場所がたまたま温度調節の魔法の条件に合致していたっていうだけで、この辺りにはもうその条件に合致する場所なんてありゃしない。さあ気は済んだかい。ほら、さっさと立ちな」


 空乃は立った。


 だけど動かない。


 おばあちゃんはぐいぐいと引っ張ってくる。


 それに負けじとその場での不動を貫き通す。


 ちょっとだけそんな状況が続いて、おばあちゃんがついに折れた。


「老人をいじめて楽しいのかいあんたは!」


 いつもは、ちょっと猫背ぐらいの背を、まるで本物の猫のように丸めておばあちゃんが息を切らしている。


「ごめんねおばあちゃん、先に帰ってて。やらなきゃいけないことがあるんだ」

 おばあちゃんはしばらく黙って、長い尾を引くようなため息を吐いた。


「またいつもの頑固かい。それはすぐに終わるんだろうね」


「うん」


 おばあちゃんはまたも沈黙。


 そしてため息。


「じゃあ先に帰るよ。せっかくここまで来たっていうのに、本当に可愛くない孫だねあんたは」


 おばあちゃんは周囲のペンギンを見回して、


「ずいぶんとなつかれたみたいじゃないか。ふん」


 おばあちゃんがオアシスの出入り口まで歩く。


 出入り口は天井にあるけど、おばあちゃんはUFOに連れて行かれるみたいに浮き上がってそこをくぐった。やがて見えなくなる。空を飛ぶのが魔法使いなのだ。おばあちゃんにとって、これぐらいのことは朝飯前なのだ。


 だけど空乃は空を飛べない。


 魔法使いじゃないし、魔法使いじゃないなら不思議な力だって使えないに決まっていた。だけどできることはあるのだ。


 それはきっと、

「私はね。みんなに仲良くしてほしい」


 ずっと考えていた。ペンギンのみんなが仲良くなれればいいなって。だけどペンギンの顔色をうかがって、それは無理なのかもしれないと諦めて、そうしてどうしたらいいのかを手探りしようとペンギンだらけの運動会なんてものを催した。スポーツマンシップに頼って、そうして友情が彼らに芽生えたらいいなぐらいに思ってた。


 ——ペンギンたちが空乃の次の言葉を待っている。


 だけど思うだけでは駄目だ。それでは他力本願だ。もっと直接的に、もっとしつこく、自然界のルールだとかペンギン界の掟だろうがそんなものに関係なく、ただ自分の最初の意思を貫くべきなのだ。


 彼らは意固地かもしれない。


 友情を認めないかもしれない。


 だけど、空乃だって諦めの悪さにはおばあちゃんからのお墨付きをもらっている。


 空乃は諦めない。


 だって、

「私ね、みんなことが好きになっちゃったの」


 クエッ、というペンギンたちの鳴き声が上がる。


「最初はおばあちゃんの孫だからって優しくしてくれたのかもしれない。だけどそれだけじゃないと思うの。みんなは心の底から優しくて、だけどちょっぴり素直になれないだけなんだって。私を助けてくれたのはずんちゃんとつんちゃんの協力があったからこそでしょ。そうやって今までのいざこざも関係なく一致団結してなにかに臨めるっていうことは、普段からだってできないわけがないんだから。優しさを一人にでも向けられるなら、きっと誰にだってその優しさを向けられるんだよ」


 ペンギンたちはさっきまで敵だった隣のペンギンを見ている。


「さっきも言ったけど、私はみんなが好きだからみんなに仲良くしてほしい。オアシスをどっちかのペンギンに独占なんてさせないし種類の違いで喧嘩だってさせない。私がそんなことする暇もないぐらいにここに来て、いっぱい楽しいことを教えて、そうやってみんなで仲良くなってオアシスを相手に譲り合うような関係にしてみせるから」


 ペンギンたちはぽけえっとした顔をしている。


 空乃はそんなことにお構いなく歩き出し、


「今日はおばあちゃんが心配してるから帰る」


 空乃は出入り口のとこまで行く。


 しかし、出るのに一苦労する。


 そばのペンギンに手伝ってもらってやっとこさ頭上の穴を抜けることができた。


 ペンギンたちが言いたいことだけを言ってその場を嵐のように去っていった空乃にあっけにとられている間に、空乃がひょっこりと出入り口から逆さまの頭だけを出して、

「明日もくるからね。今日は本当にありがとう」


 いい笑顔を残して、空乃は頭を出した時の唐突さで去っていった。


 そうして、砂浜を歩いて帰ろうとした空乃に、岩陰にもたれるようにして待っていたおばあちゃんが話しかけてくる。


「問題は解決したのかい?」


「ううん、でもきっとすぐ解決するよ。それよりもおばあちゃん、ここで私を待っててくれたの?」


「馬鹿言うんじゃないよ、ここに来るまでにちょっと疲れたから休んでいただけさ。まあだいぶ疲れも取れたし、そろそろ行くかね。どうせだったら孫らしく老人をいたわりながら一緒に歩きな」


「うん。いいよ」


 空乃がおばあちゃんの手を引きながら砂浜を抜けて、ガードレールを越えて公道に立ち、ふと、後ろを振り返ってみた。


 昼と夜の境目だ。


 茜の太陽が水平線に溶けるようにそこにある。影絵にしか見えないカモメが飛んでいるし茜を乱反射する海原が波を立てているし、さっきまで歩いてきたその軌跡がまるで浮き出た影のように砂浜に刻まれている。頭上の空は夜に侵されるような藍色で、浮いている雲はそれに呼応するかのように黒ずんでいる。海に突き出た灯台がまっすぐな影を投げかける。オアシスのほうからぞろぞろといくつもの影が出てくる。


 空乃はそれらに向かって手を振って、


「絶対にまたくるからね!」


 気づいてくれたのかはわからない。


 だけどこういうものは、自分の意思を声に出すことが大事なのだ。


「あんた、また倒れるんじゃないよ」


「うん、明日は帽子をかぶって水分もいっぱい持っていくね」


 さあ、明日は彼らとどんな風に過ごそうか。楽しいことを教えてあげると言ったのだ。それを考えないといけない。うーん、


「でもやっぱり年だね、疲れがとれたと思ったけど勘違いみたいだ。ちょっとどこかの店で休憩でもするかい。そうさね、海に来たら寿司でも食いたくなっちまったよ。あんたちょっと付き合いな」


「お寿司!」


 とりあえず、考えるのはお寿司を食べてからにしようと思った。

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