第4話 Evangel


   Ⅳ  Evangel


 下層民の間で暗黒の牢獄と噂されていたところは、確かにその下馬評の通り、暗闇そのものであった。室内には、窓や照明器具の類は一切なく、独房前の通路にある小さい格子窓からのみ、光が僅かに差し込んでくるに過ぎない。当然、暖房パイプのような気の利いた設備などもあろうはずがなかったが、それでも壁と屋根に囲まれ、まともな寝台がある分だけ、普段寝起きしている、隙間風がよく通る廃屋に比べると、警察署の留置所の方が、まだ快適なのかもしれない。ただ一点、行動の自由が一切ないという点にさえ目をつむれば、だが。


 エイミー以下三名、管轄の警察署へ連れて来られ、留置場に放り込まれてから、どれくらいの時間が経ったのかよく分からない。エイミーに知り得たのは、まず、自分がここで一夜を明かして、今が恐らく翌朝だということ。そして少なくとも両隣の房に姉妹はいないということくらいであった。

 というのも、エイミーが独房に放り込まれてから、しばらくの後、両隣の房にそれぞれ、罵詈雑言を喚き散らす酔っ払いどもが入居してきたからだ。きっと、路上で酩酊していたところを巡査に保護されて、ここで一泊と相成ったのであろう。そして、酔いの醒めた彼らが、看守巡査に追い立てられるようにして出て行ったことに鑑みれば、今のおおよその時間も自ずと知れた。


 昨日のハムサンドとオレンジ以降、何も食していないため、腹の虫がまた鳴いた。

 看守巡査によれば、留置人は自弁でならコーヒーやサンドイッチといった軽食を頼めるらしい。だがエイミーの所持金は、犯罪収益の疑いが掛けられ、全て没収されていた。つまり結局のところ、飲まず食わずで耐えなければならないのだ。


 昔、住んでいた貧民窟の長屋には、掏摸の常習犯で何度も留置場の厄介になっていた老人がいた。彼によれば、午前中に独房の囚人たちは、治安判事のもとに送り出されるという。

 もっとも、あくまでも大人の場合はそうだというだけに過ぎず、子供についても、同じような取扱いがなされるのかどうかという点について、エイミーは全く知識として持ち合わせてはいなかった。


 通路に小気味良く反響するウェリントンブーツと鍵束の音が、こちらへと近づいてくる。鍵を差し込む金属音がした後、蝶番を軋ませながら扉が開かれる。通路の格子窓から差し込む僅かな光でさえ、暗闇にすっかり目が慣れたエイミーには眩しく、反射的に目を細めた。


「出ろ」


 看守巡査に促されるまま独房を出る。逃亡の二文字が頭を過ぎったが、少なくとも自分の置かれた状況が定かではない現状、警察署という敵地のど真ん中において、その行動は得策ではなかろう。

 まずは様子を窺うつもりで、素直に付き従う。よどんだ空気の滞留する留置場を出て、署内の狭い廊下を何回か折れると、立派な樫の扉のところまで来た。扉のプレートに英語で何か書いてあるが、エイミーには読めなかった。


 看守巡査がノックをした。

「連れて来ました」

 張りのある声で彼がそう告げると、入室を促す、バリトンの利いた男性の声が室内から扉越しに聞こえた。

 看守巡査が扉を開け、エイミーに入室するよう手で促す。彼女が部屋に足を踏み入れると、彼は室内へと一礼し、そのまま部屋に入ることなく、扉を閉めた。立ち去る足音が遠ざかっていく。


 部屋は、先ほど通ってきた警察署内の廊下に比して、すこぶる暖かく実に快適な温度が保たれていた。向かって左側には、質素な造りをした暖炉があり、そこでパチパチと音を立てて火が愉し気に踊っている。

 正面には、木製の応接用テーブルと、それを挟んで、柔らかそうなクッションの長椅子が二脚。その奥には、マホガニー材でできた重厚な書物机。立派な口髭を蓄えた、白髪交じりで精悍な顔つきの男がこちらを向いて座っていた。


 左側の長椅子に腰掛けているのは、闇夜を溶かしたような真っ黒なワンピースに身を包み、肩に灰色と緑のタータンチェックの防寒ストールを羽織った女性。年の頃は凡そ三十過ぎといったところであろうか。長い栗色の髪を丁寧に編み込んで、右前へと垂らしている。

 そして、向かって右側の長椅子には、エイミーもよく知る二人が座っていた。


「エイミーっ!」

 椅子に座っていたミラとオリヴィアが立ち上がり、こちらへ駆け寄る。

「私のせいで、ごめんなさいっ」

 オリヴィアが、目に涙を浮かべて謝ってくる。

 エイミーが、二人に何を言おうか戸惑っていると、突如二回手を叩く乾いた音が室内に響いた。音の出所に視線をやると、栗色の髪の女が柔和な笑みを浮かべていた。


「汝の日は数えられたり。――我々人の身に許された時間には、限りがあります。友人との再会を存分に祝すのも大変に素晴らしいことではありますが、しかしながら、そのためにご多用な身の上の署長さんから余計なお時間を頂戴してしまっては、なりません。さぁ、ミラ、オリヴィア――そして貴女がアミーリアですね。まずは、どうぞ腰掛けて下さいな」


 実に不思議な雰囲気を纏った女であった。訛りの一切ない綺麗な英語。物腰柔らかで温和な声色と態度でありながら、有無を言わせぬ緊張感を室内に充満させている。署長と呼ばれた男の額に一筋、脂汗が伝うのが見えた。

 言われた通り、エイミーが彼女の隣に腰掛け、柔らかなクッションに遠慮なく身を沈めると、男が眉根を寄せた。上等なクッションに汚らしい格好の浮浪児が身を預けるのが不快なのだろう。

 再び女が口を開いた。

「まずは、この度のご高配と寛大なご処置に厚く御礼申し上げます」

「いえ、礼には及びません。ここだけの話ですが、本庁から直々に頼まれましたので――」

 署長は、ハンカチで額の汗を二度ばかり拭った。

「それにしても、昨日の報告書はこれから本庁へと送る手筈ですのに、どうしてまた、貴女がたちどころに知り得たのか、しかもこんな浮浪児たちが留置場に入れられていたことなぞ、私ですら、普段から部下に任せきりで言われるまで気づきもしなかったというのに。それが私にはさっぱり――あぁ、いや別に詮索するつもりは毛頭ないわけでして、どうか誤解なさらぬよう……」

 栗色の髪の女が浮かべる、無言の笑みの圧力に耐えかねたのか、署長の語尾は尻すぼみになった。

「そうですね、強いて言うならば――全て、主の導きによるところかと存じます。それでは改めて、三人とも、わたくしの孤児院へ引き取らせて頂きますが、それで構いませんか」

 男は、慇懃な態度で首を縦に振った。

「ええ、ええ。無論ですとも。こちらとしても煩雑な諸々の手続きが不要になるのですし、願ったりかなったり、といったところです。強いて言うならば、二度と我々の手を煩わせることのないよう、しっかりとそちらで教育して頂けるのであれば、なおのこと望ましいのですがな」

「勿論でございます。この子たちが、主より自らに与えられた召命にしっかりと従い、隣人愛の実践を通じて、社会に貢献する人物となるよう導くことをお約束致します――さぁ、それでは皆さん、わたくし達の家へと帰りましょうか。表に馬車を用意しておりますのよ」


 署長御大が、黒衣の女と浮浪児三名を御自ら先導して警察署内を闊歩する様子は、署内の関心を実に集める光景らしい。机に向かっていた巡査は書物の手を止め、外勤から帰ってきた背の高い巡査は、路上で拾い集めたオレンジの皮を両手一杯に抱えたまま、あんぐりと口を開け、ステッキの亡霊の如く通路に突っ立っていた。


 警察署の正面入り口を出たところに、側面に窓のない黒塗りの二頭立て馬車が停まっていた。

 冬の朝、ロンドン市内へと容赦なく覆い被さる濃い白霧の中、ひと際異彩を放つそのシルエットは、まるで棺を連想させた。御者席には、馬車に負けずとも劣らぬ黒染めの外套を着込んだ男が一人、手綱を握って座っている。目深に被ったハンチング帽のせいで、男の顔は良く見えない。

 馬車の後方にある、観音開きの扉が左右に開け放たれている。栗色の髪の女を筆頭に四人全員が乗り込んでも、まだ数人は座れるほど、車内には余裕があった。

 エイミー達を飲み込んだ漆黒の棺桶。その腸へと至る唯一の扉が、苦々しい表情を浮かべた署長によって静かに閉じられる。

 外気で完全に冷え切った鉄製の扉が、車内と外界とを完全に途絶する鈍く重厚な音が、白霧の中へと溶けてゆく。


   *


 凡そ一時間弱ほど、馬車に揺られていただろうか。道中で口を開く者は誰もいなかった。

 御者席側に取り付けられた小さな明り取り窓から差し込む光で、オリヴィアが隣に座るミラの手を小さな両手でずっと握っているのが見えた。栗色の髪の女は、両手を膝の上に重ねて背筋を伸ばし、実に綺麗な姿勢を保ったまま、両目を閉じていた。起きているのか眠ってしまっているのか、全く分からなかった。エイミーはと言えば、揺れる車体に身を委ねながら、自分達が置かれている、突如降って湧いたような今一つ現実感のないこの状況が、はたして好ましい方向へと繋がり得るものなのか、それともそうではないのかについて、ぼんやりと頭を巡らせていた。

 少なくとも、昨日からの窮地を脱したことだけは確かであった。今後の身の振り方については、目的地だという孤児院の状況を見極めてからでも遅くはないだろう。

 いざとなれば、逃げだせば済む話だ。


 やがて馬車が静かに停車した。すると栗毛の女が目を開き、微笑みを浮かべた。

「さあ、皆さん。到着しましたよ」


 ハンチング帽の御者が、慣れた手つきで後部扉を開く。栗色の髪の女は彼に一礼すると、先に立ち上がって馬車を降りていく。彼女に促され、エイミー、ミラ、そしてオリヴィアも、続いて降りていく。

 まず鼻孔をくすぐったのは、嗅ぎ慣れた煙と臭気。次に鼓膜を震わせたのは、周辺にある様々な工場の喧騒。まごうことのない、懐かしき、一日ぶりのホワイトチャペルであった。

 女が黒のワンピースの裾をふわりとなびかせながら、蔦の絡まる寂れた門扉をくぐり抜け、目の前の敷地へと入っていくので、三人もその後に続く。


 敷地はそれほど広くはなかった。入って左手の側には、煉瓦造りのこじんまりとした二階建ての建物。正面には、それよりもさらに古めかしく薹が立った石造りの建物が鎮座していた。壁面に簡素な十字架が掲げられているので、これは恐らく教会なのだろう。右手の側には、七フィート程度のオリーブの木が敷地の隅に根を伸ばしており、その枝葉の下には、泥まみれで汚らしい玩具がいくつか無造作に転がっていた。


「さあ、では簡単に、紹介をいたしますわね」

 建物を背にして、栗色の髪の女が鹿爪らしく、エイミー達へと向き直った。

「ここが、わたくしが院長として運営をさせて頂いております、孤児院ですの。わたくしのことはジェーンと、そうお呼び下さいませ」

 ジェーンは正面の教会の方へ徐に歩き出しながら、左の建物を指し示して、

「こちらの建物は、元々牧師館として建てられたと聞き及んでおりますわ。現在、当院では、全部で八人の子供達を預かっております。今の時間は、家庭教師の方がいらっしゃって、お勉強をしている時間ですのよ」

「教会には、牧師さんはいるの?」

 姉の服の裾をしっかりと握りしめているオリヴィアとは対照的に、ミラが物怖じすることなく問うた。

「残念ながら、現在はいらっしゃいません。なので、わたくしが教会の方も併せて管理等を一任されておりますわ」

 にこやかにミラの質問へ答えつつ、ジェーンは教会の正面扉を開け、中へと入っていく。木製の長椅子が二列にいくつか並べられた簡素な礼拝堂を突き当たったところ、講壇の斜め後ろにある扉を開けて、さらにその奥の廊下へと進んでいく。左手の方に折れると、こじんまりとした台所があった。


「さあ、どうぞ、そこへ腰掛けて下さい。今、お食事を用意しますわね」

 ジェーンは、台所の真ん中に置かれた、木製のダイニングテーブルの方を手で示した。

 言われた通り、三人がテーブルを囲むようにして腰を下ろすと、ジェーンは、壁際の料理用ストーブに石炭を入れ、てきぱきと食卓の準備を行っていく。石炭の余熱が、底冷えする室内にじわりと波紋のように広がりをみせる。

 徐に漂ってくるスープの香りが、空腹の少女達の食欲を容赦なくかき立てる。そんな彼女達の様子を横目に見やりながら、ジェーンは口の端に柔和な笑みを湛え、食卓の上に着々と配膳を済ませていく。


 精白度の低い小麦粉から作られた、混ぜものばかりの褐色のパンなどではなく、指がふんわりと沈み込みそうなほどに柔らかな白いパン。その表面には、薄黄色のバターが惜しげもなくたっぷりと塗られている。その隣では、豆とじゃがいも、人参、玉ねぎ、そしてラム肉がふんだんに入れられたスープが、白い湯気を立ち昇らせていた。おまけに、暖かいミルクティーが並々と注がれたカップまでもが添えられている。

 ロンドン市内、いや大英帝国のどこを探しても、これほどの食事が出て来る救貧院や孤児院にはお目に掛かれないであろう。間違いなく、エイミーが今まで食してきた中でも、最上級に位置付けられる食事に違いなかった。


「こんなに凄い御馳走、本当に食べてもいいの?」

 オリヴィアが、恐る恐るといった具合で尋ねる。

 それを受けて、ジェーンはゆっくりと大きく頷いた。

「ええ、もちろんですわ。ここは主の家であり、今日からは貴女方の家でもあるのですから、そこで出される食事を、貴女方が食するのに何の躊躇いなどありましょうか。さあ、主が与えて下さった糧に祈りを捧げましょう」


「ねぇ」とエイミーが口を開いた。「アタシ、やり方なんて知らないんだけど」

「心配は要りませんよ、アミーリア」とジェーン。「言葉を口に出す必要はありません。大切なのは、主の恵みに対する感謝の気持ちを祈り捧げることなのです。そう、ご自身の言葉で感謝の気持ちを紡げば、それで大丈夫ですよ。主は全てをご存じなのですから」

「そう……」エイミーは短く答えた。

 今まで食前の祈りなど捧げたことすらなかった彼女にとって、食卓を囲んだ他人と共に祈りを捧げるというのは、少々面映ゆい気持ちもしたが、ミラとオリヴィアが既に目を閉じ、両手を組み合わせて俯いているのを見て、ぎこちなくそれを真似た。

 食前の祈りにどれほどの意味があるのかと自嘲する気持ちもあったが、食事を提供してくれたジェーンの手前、無下にするわけにもいかないであろう。

 少ない手持ちの語彙で適当に祈りを心の裡で述べ、目を開ける。


「さあ、どうぞ遠慮なく召し上がって下さいませ」

 ジェーンが、三人に対して述べる。


 御馳走を前にして、これ以上ないくらい目を輝かせるオリヴィア。隣に着座する姉が、優し気な笑みを浮かべて頷いたのを確認すると、スープをすくった木製の匙を口の中へと差し入れる。破顔一笑。また、せわしく匙ですくい、食べる。また、笑みが零れた。正面から見ていると、さながらゼンマイで動く玩具の人形のようであった。


「美味しいですか?」というジェーンの問いかけに対しても、「うん、おいしいっ!」と声を弾ませながらオリヴィアは答えた。


 確かにオリヴィアが幸せそうにしているのも、十分頷けるとエイミーは思った。コンソメが程良くきいたスープ。舌の上で柔らかく蕩けるような肉と、大地の祝福を思わせるような野菜達。その合間に飲むミルクティーには、たっぷりと砂糖が溶け込んでいるようであった。


 口の端を汚しながらも、満面の笑みを浮かべるオリヴィアと、そんな少々行儀の悪い妹の口元をハンカチで優しく拭きながら、慈しむような表情を浮かべるミラ。

 救貧院や孤児院に対して全く良い印象を持ち合わせていなかったエイミーだったが、案外、ここはそう悪いところでもないのかもしれない、とそう思った。


 ――彼女の記憶は、糸が切れたように、そこで途切れていた。


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