第5話 Apple


   Ⅴ  Apple


 見慣れた貧民長屋の一室。粗末な寝台の上に、やせ衰えた赤毛の女が寝ている。胸に掛けられた不衛生そうな毛布が、彼女の浅い呼吸に合わせて小刻みに上下する。

「ねぇ……アミーリア」

 女の口から、か細い声が漏れる。母がエイミーを呼ぶ声だ。

 身体を蝕む病が、母から全てを奪い去ろうとしている。


「何? 母さん」

 ズレた毛布を掛け直しながら、エイミーは問い返す。


お願いPlease ――私を殺してMurder me……」

 アイリッシュ訛りのかすれた英語でエイミーに懇願する母。

「嫌だよ」と即答するエイミー。


 幾度となく繰り返された問答。

 それもこの貧民窟では、半年ほど前から、珍しい光景でもなくなった。


 突然の流行り病が、そこに住まう人間の数を半分以下にまで減らしたのだ。運良くその魔の手を逃れた住民の多くは、別の貧民窟や木賃宿へと居を移した。最近、近所の顔馴染みから聞いたところによれば、伝染病の温床を撲滅するべく、ここに官憲の手入れがいよいよ予定されているらしい。


 全くもって今更の感が強い。

 ここに未だ留まっているのは、もはや他所に移動することすら難しい病人とその付き添い程度だと言うのに。元凶たる流行り病御大の関心は、既に別の貧民窟へと移ってしまっていた。


 まるで下層民がその数を勝手に減らすだけ減らしてしまうまで、手入れを行わず、ゆっくりと待ち構えていたかのようですらある。いや、実際のところ、そのような思惑だったのかもしれない。


 しかし、その真偽のほどについては、毛先ほどの興味もなかった。


 まるで老婆のように皺が刻まれ、骨ばった指がエイミーの手首を不意に掴んだ。手首から容赦なく体温が奪われるかのような、冷たさ。

 その妙な湿度を含んだ冷気は、恐らくは死そのもの。


 何故自分がこんな目にと悲嘆に暮れた母。


 周囲の物やエイミーに、お前なんか養う必要さえなければ、と所構わず怒りを無様に巻き散らした、赤毛の女。


 祈りを捧げているところなど、今まで一度も見たことがなかったのに、さも生まれてから今に至るまで敬虔な信徒であったかのような顔で、廃材で急ごしらえした歪な形の十字架に縋りつくようにして、神に救いを求め続ける哀れな狂信者。


 そして、とうとうそれにすらも飽いて、絶望し、口を開けば自分を殺して欲しいと懇願し続ける、赤毛に白い毛髪を疎らに混じらせた皺だらけの老婆。


 ――いいよ、そんなに望むなら。叶えてあげても、いいよ。


 戸棚から母の剃刀を取り出して、目の前に掲げる。

 刃先の上で人差し指を滑らせると、緋色の雫が一粒、そしてまた一粒、毛布の上に落ちて、赤黒い染みになって広がってゆく。


 それを恍惚そうな表情を浮かべて満足げに眺めるのは、かつて母だった、名も無き何か――。


   *


 夢を見ていたらしい。

 思い出そうとしても、その内容は瞬く間に崩れるように霧散してしまった。


 目を開けると、そこは暗がりであった。

 いや、正確に言えば、確かに暗がりではあるが、向かいの座席に置かれた角灯が辺りを照らしていたので、エイミーが自身の置かれた状況を把握するのに、それほど不都合があるわけではなかった。


「お目覚めのようですね、アミーリア」

 物腰柔らかな声がした。

 角灯の隣に、ジェーンが腰掛けていた。角灯の揺らめく炎が、彼女の顔の陰影を濃く、そして不気味に照らし出している。


「これは一体――」

 言いかけて、角灯を挟んだジェーンの隣に、ミラとオリヴィアが座っているのに気づいた。

 お互いに寄り添うようにして眠っており、二人とも静かに涙を流しているようであった。二人の頬を伝う涙の雫が、炎の光で煌めいている。


 ふと違和感に気づき、自分の目頭と頬に触れると、しっとりと濡れていた。エイミーも先ほどまで、どうやら泣いていたようであった。

 服の袖で乱暴にその痕跡を拭うと、エイミーは立ち上がり、目の前に鎮座するジェーンへと詰め寄った。


「なぁっ‼ これって一体どういうことだよ⁉ そもそもどこなのさ、ここは⁉」


 怒気を孕んだエイミーの剣幕を目の前にしても、張り付けたような笑みをジェーンが崩すことは一切なかった。

「ここはロンドン郊外の、とある廃農園ですわ」

 飄々と答えを返すジェーン。

「そして、最初のご質問に関しては、ミラとオリヴィアのお二人がお目覚めになってから、お答えしようと思いますの。と言いますのも、同じことを二度も繰り返し説明するというのは、大変に手間が掛かるものでしょう?」

 人を食ったような態度に苛立ちを覚えたエイミーが、一歩詰め寄ると、床が揺れたので、はたと気づいた。

 自分達がいるのは、警察署から孤児院までの道中に乗せられてきた、あの黒塗りの馬車である、と。馬車そのものは、現在どこかに停車しているようであった。

 車体が揺れたせいか、ミラとオリヴィアが目を覚ましたらしかった。


 ジェーンは、袂から真鍮製の懐中時計を取り出して、満足げに頷いた。

「刻限前に、三人ともお目覚めとは。実に素敵ですね」


「ねぇ、エイミー。これは一体どういうことなの?」

 起き抜けのミラが訝し気に問う。

「それは、コイツに聞いて」

 立ち上がったままのエイミーが、ジェーンの方を見下げながら顎でしゃくる。


「さて」

 ジェーンは、エイミーの苛立たし気な態度を一向に構うことなく、口を開いた。

「では、改めて自己紹介をさせて頂きますわね。わたくしは、ジェーン。孤児院の院長。そして、ホワイトチャペル教区支部の管理者の職を拝命しております」


「――わけわかんない。アンタのご立派な肩書と、アタシらが今、こんなところに連れてこられたことが、どう関係するって言うわけ?」

 言葉の端々に、腹立たしさを滲ませながら、エイミーが問い直す。


「時間もございませんし、単刀直入に申し上げます。――貴女方には、今夜これからとあると対峙して頂きたいのです」


 ――彼女の言葉が、理解できなかった。

 ミラとオリヴィアの方を振り向くと、二人も同様の反応を示していた。


「別に比喩でもなんでもございませんわ。文字通り、怪物と相まみえて頂きたいのです」

 ジェーンは、事も無げにそう告げる。

「貴女方は、主に選ばれました。いえ、より正確に申し上げれば、そうなるように、主が全て予定されていた、と言うべきでしょうか」

「選ばれた、ってどういう意味?」

 怪訝そうに問うミラ。

「良い質問ですね、ミラ。貴女方は、主の家で恵みの糧を食しました。あの糧を口にした者の内、、食した者は、主より異形の力を賜るのです。条件を満たさなかった場合には、先住の八人の子供達と同じく孤児院所属となったのですが、貴女方は実に素晴らしいことに、なんと全員がその素養を持ち合わせておりました。ゆえに、正式に当支部の預かりとなりますわ」


「……さっぱり意味わかんない。アンタさ、頭おかしいんじゃないの」

 人差し指で自分の頭を軽く二、三度叩きながら、エイミーが吐き捨てる。

 ジェーンは、少し肩をすくめた。

「百聞は一見に如かず。それならば、これをお見せすることで、ご理解の一助となれば良いのですが」

 手鏡を取り出したジェーンが、それをミラとオリヴィアの方へ向ける。

 すると、オリヴィアが小さな悲鳴をあげた。

 ミラが、小さな声で「映ってない……」と呟いた。

 手鏡を覗き込んだエイミーも、その光景に目を疑って、言葉が出なかった。覗き込んだ自分は鏡の端に映り込んでいるのに、姉妹が座っている座席が、反転した空席として鏡面に現れている。


「お分かり頂けましたでしょうか」

 ジェーンがにこやかに告げる。

「まだ完全な覚醒状態ではありませんので、身体能力自体はまだ人間と同程度ですが、少なくとも異形化の徴候は既に顕現しておりますわ」


 エイミーが力任せにジェーンの胸倉を左手で掴んだ。

「アタシら全員、今すぐ元に戻せっ!」

「大変残念ですが、元に戻す戻さないの話ではございませんわ。これは、全て主がお取り決めになられたことですので」

 

 ――全く話にならない。


 一切笑みを崩さないジェーンに苛立ちを覚えたエイミーが、右拳を振り上げた時、オリヴィアが叫んだ。

「お願いっ、やめてエイミーっ!」

「なんでだよ? こいつはアタシらをこんな目に遭わせたっていうこと、アンタ分かってんの?」

「――分かってる。それでも、エイミーは私の大切なお友達だから、誰かにむやみやたらに暴力を振るうところは見たくないの」

 目尻に涙をためたオリヴィア。その甘さには本当に心底辟易する。

 隣のミラも、懇願するように首を静かに横に振った。

「――くそっ!」

 エイミーは悪態をついて、座席へと乱暴に腰を落とすと、両腕と両脚を組んだ。


「先ほど、これから怪物と相まみえて頂きたいと申し上げはしましたが、実のところ、貴女方に強制するつもりは、わたくし毛頭ございませんの」

 掴まれた際に出来た服の皺を丁寧に伸ばしながら、ジェーンが言う。

「は? さっきと言ってること違うじゃんか」

 エイミーが呆れた口調で言い放つ。


「いいえ、アミーリア。わたくしは、戦うかどうか貴女方の自由意思に委ねたいのです。ロンドンの安寧を守る礎として、わたくしの庇護のもとでその身を挺して戦うか。それとも、安寧を脅かす側の怪物として追われることになるか。たとえ、その選択の結果そのものすら主の御心に沿うものでしかないとしても、わたくしは貴女方が自ら選択した、という点を尊重したいのです」


「ふーん、じゃあアタシらが、戦わないって言ったら?」

「その場合には、貴女方の身柄は、三体の怪物として、本部へと引き渡されることになります。その後は、されてしまうのか、何かの実験体になってしまうのか、いずれにせよわたくしの管轄外ですので、残念ながら詳しくは知りませんの」

「はっ」エイミーが吐き捨てた。「じゃあ結局のところさ、戦わないなら殺すって、言ってるのと同じでしょ? なぁ、アタシが言ってること間違ってないでしょ、ミラ?」

 ミラは頷いた。

「そうだね。だけど、三つ目の選択肢もあると思う。ここから三人で逃げるっていう、ね」

「へぇー、冴えてんじゃん。確かにコイツぶっ殺すなり、締め上げるなりした後に、逃げるってのもありか」

 エイミーが、ジェーンを横目に見ながら返答する。


「それは、おすすめしませんわ」

 二人のやり取りを見守っていたジェーンが静かに告げる。


「ふーん、アンタも自分の命が惜しいってわけ。狂信っぷりとは裏腹に随分と小物なんだね」

 煽るようにエイミーが言う。

「確かに、ただの人の身に過ぎないわたくしでは、貴女方がその気になれば、簡単に負けてしまうでしょう。しかしながら、この身は、もとより主へと捧げておりますので、命を惜しむものではございませんわ。むしろ、わたくしの下に留まり、戦うよう勧めるのは、貴女方のためを想ってこそ、でありますのよ」

「はんっ、自分のため、の間違いじゃなくて?」

 エイミーが皮肉たっぷりの声色で返す。

「貴女方がわたくしを殺して逃げたとしても、貴女方が適合者であることは既に本部に報告済みです。ゆえに、たとえ大英帝国の外へと逃げようとも、手練れの追手が貴女方をしようと血眼になって探すことでしょう。そうなった時、貴女方には、幼いオリヴィアを守りきる自信がおありですか」

 その発言に、ミラの眉根が僅かに反応したのをエイミーは見逃さなかった。

「アタシらは、怪物とすら戦える化け物になってしまったんでしょ? じゃあ、そんなちんけな追手とも渡り合えるだけの力はあるってことじゃない?」

 ジェーンは、悲しそうに首を振った。

「だからこそ、ですよ。アミーリア。貴女方は、もはや人の身では太刀打ちすることの叶わない強力な暴力装置と化したのです。ゆえに、その存在が、野放しになってしまうような事態は、万に一つも許されるものではございません。もし貴女方が逃亡した場合には、一切の誇張抜きで、本部がその総力でもって貴女方を速やかに排除すべく動くでしょう。わたくしは、そうなってしまうと思うと、たまらなく悲しいのです」


 エイミーがミラの方を見ると、その顔色から意外にも、ジェーンの提案に乗るかどうか逡巡しているように窺えた。きっと、自分がこんな目に逢ったという時でさえ、一体何がオリヴィアの益になるかどうかについて、懸命に考えを巡らせているのだろう。


 確かに、その姿勢は見習うべきであった。

 突如降りかかってきた出来事があまりにも理不尽だったせいで激高してしまっていたが、冷静に考えてみれば、この忌々しい女の言うことに従わなければならないとはいえ、安定した衣食住が手に入る大きなチャンスでもあるのだ。

 ――そう、この女の言いなりになって、自らの命を懸けて戦いに駆り出されることにさえ、目をつぶれば、だが。

 もっとも考えようによっては、職業軍人と異なるところは、そうないのかもしれない。


 貧民孤児として、犯罪に日夜手を染めながら、一インチ先の未来も見通せない生活を続けていくか。それとも、このクソ女のところで、衣食住が約束された生活を送るか。

 よくよく考えてみれば、今までだって理不尽ではなかった出来事を探す方が難しい人生を送って来たのだ。ならば――


「――わぁったよ。とにかくさ、戦えばいいんでしょ?」

 淡々とエイミーが言った。反旗を翻すとしても、状況が掴めていないこの場では得策ではない。まずは様子見も兼ねて、一応従ってみる方が良いだろう、という判断によるものだった。理不尽に対しては、無理に逆らうのではなく、どうすれば自分の益にできるか貪欲に考え、場合によってはむしろ飼い慣らすくらいの気概で望むべきであろう。それがエイミーの処世術であった。


「賢明な判断だと思いますよ。アミーリア」

 ジェーンが柔和な声色で述べた。

「その代わり」とエイミーは、「もしアタシが、アンタの言うような連中に追われることになったら、まず真っ先にアンタの喉笛引き裂いてやるから。そこんとこ、よろしく」と吐き捨てるように告げ、立てた親指で喉元を切り裂くジェスチャーをする。


「あらあら、そうなることのないよう善処致しますわね――さて、そちらのお二人は、いかがでしょうか」と、ジェーンは、エイミーの精一杯の脅しなど意に介することもなく、姉妹へと向き直る。


 妹のくせっ毛を優しく撫でると、ミラはジェーンの目を見据え、静かに述べた。

「ヴィアがお腹を空かせることなく暮らせるって言うのなら――私は戦う」

「ええ、貴女方の衣食住はわたくしが保障いたします――それで、オリヴィア、貴女はどうですか」

「えっと、私は――ミラとエイミーが戦うなら、私も頑張る」と、か細い声でオリヴィアは言った。


 それを受けて、ジェーンは溢れんばかりの満面の笑みを浮かべて、手を一回叩いた。乾いた音が車内に反響する。

「実に素敵です。主の召命に従わんとする貴女方の敬虔な姿勢に心より賛辞を送らせて頂きますわ」

 玲瓏でやや芝居掛かった口調で述べた後、ジェーンは御者席側の明り取り窓を三回軽くノックした。すると、御者席から誰かが馬車の後部へと移動するべく地面を踏みしめる足音が聞こえ、蝶番を軋ませながら、観音開きの鉄扉が開けられた。


 角灯を手にしたジェーンを先頭に、全員が車外へと降り立つ。

 周囲には街灯などなく、雲の合間から差し込む月明かりでようやく、そこに平野が広がっていることが分かった。

 昼間も見た、黒ずくめの御者が、ジェーンへと一通の黒い封筒を無言で手渡した。角灯をぶら下げながら器用に開封し、中身を一読するジェーン。読み終えた手紙を袂にしまうと、彼女はエイミー達の方へ向き直って告げた。


「今宵、貴女方が対峙すべき怪物は、かなり強敵のようですわ。ですが、心配は無用です。貴女達は、既に主の創りし姿形からはかけ離れてしまいましたが、元々は知恵の実を口にしたアダムとエバの末裔です。原罪を背負うことと引換えに人類が手にした細やかな悟性をいかに用いるか、が大切ですよ」


「ちょっと待って」とエイミー。「アタシら、まだその力っての? その使い方とか、出し方とか全然教えてもらってないんだけど。そもそも怪物との戦い方なんて知らないし」

「心配は不要ですよ、アミーリア」とジェーン。

「エレミヤ少年は、ある日突然、預言者であると主よりその召命を告げられました。この少年に関して、聖書には何も記されていないことからすると、恐らくはどこにでもいる一少年に過ぎなかったのでしょう。突然に降って沸いたような話を聞き、少年は、主に対して、私は預言者として何を語れば良いのか分かりませんと述べました。

 しかし、主は少年を預言者に任ぜられました。そして驚くべきことに、少年の口からは、淀みなくすらすらと主の御言葉が出ました。なぜなら、エレミヤ少年が預言者としてその責を全うすることは、主が定めたもうたことだからです。したがって、何も心配することはありません。その時がくれば、主がお導き下さいます。全て流れに身を任せればよいのです」

 滔々とのたまう様子に、エイミーが呆れて物も言えずにいたのを、肯定と曲解したのか、ジェーンは三人の方に向き直った。


「さあ、貴女方の会った試練で、世の常でないものはありません。主は、貴女方を耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さっているのですよ」


   *


 霜の降りた芝生を小気味良い音を立てて踏みしめながら、エイミー達はずっと無言で歩いていた。胸糞悪いあのジェーンは、馬車のところで待つと言い、角灯だけを三人へと寄越した。もう彼女とは、既に百ヤードばかり離れている。

「ねぇ、エイミー。これからどうする?」

 オリヴィアの手を引きながら、ミラが沈黙を破った。

「――それは、どっちの意味?」

 今、この廃農園に存在しているという怪物についてか、それとも自分たちの今後の身の振り方についてか。

 ロンドン市内とは異なり、幾分澄んだ冷気を肩で切るようにして歩いていたおかげで、エイミーは次第に落ち着きを取り戻しつつあった。

 ミラも、エイミーの言わんとするところを察したようだった。

「さしあたりは、ここで戦うことになるっていう――相手について、かな」

 怪物、と言い掛けたのだろう。彼女は、言い直した。


「そもそも、どういう奴かすら、アタシらには何にも教えちゃくれなかったし。まずは、探すところからじゃない? どんな奴か確認してみて、無理そうな相手だったら逃げるってのは?」

「そうだね。じゃあ、どのあたりを探す?」とミラ。

「まぁ、取りあえず向こうに見える建物でも目指してみる?」

 エイミーが指差した。

「建物って?」

 オリヴィアが言った。

「いや、あそこに建ってるでしょ? 煙突のある二階建ての家」

「私にも見えない。暗くて」とミラが言った。

 そんなはずはない、とエイミーは思った。だって、こんなにはっきりと、建物やその周囲の木製の柵、さらにはその向こうの家畜小屋まで、しっかりと視界に捉えているのに。


「それってさ」

 ミラが立ち止まってエイミーの方を向いた。

「多分、エイミーにも、力というか影響が現れているんじゃない。私達が鏡に映らなかったみたいな」

 確かに言われてみれば、その通りかもしれなかった。てっきり、月明かりのおかげで見えていたとばかり思っていた。あまりにも当たり前に知覚できていたがゆえに、そこに思い至らなかった。

「ねぇエイミー、他にも今までとは違う感じって何かあるの?」

 オリヴィアが尋ねてくる。

 エイミーは神経を五感に集中させてみた。このように夜目が利くということが、あの忌々しいジェーンのせいだとするならば、それこそ呼吸を普段は意識することなく行っているように、他にも鋭敏化された器官があるのかもしれない。


 ――そう言えば、隣を歩いているミラやオリヴィアだけでなく、ジェーンや御者の匂いまでもが微かに流れて来ている。

「多分、鼻もかなり良くなってると思う」


 それにしても、改めて辺り一面を見回しても、農園の建物と小屋以外には何もなく、実に見通しの良い平地であった。もし、何か自分たち以外の存在がいれば、すぐに気付けそうなほどに。

「エイミーが見えているっていう建物の中とかに居るのかな?」

 ミラが辺りを角灯で照らしながら言う。

「かもね。アタシら以外の匂いもしないし。この辺に何か居たら、すぐに気づけると思う」

 と、その時、エイミーは足元が微かに振動していることに気付いた。ミラも同じく気付いたらしい。お互いに顔を見合わせる。

「ヴィア! 走るよ!」

 今度は、離してしまわないよう、しっかりと妹の手を握りしめて、ミラがエイミーと同時に駆け出す。


 数瞬の後、突然、轟音が背後で響いた。

 走りながら背後を振り向くと、先程まで三人が立っていた辺りの地面から天へと向けて、太く長い何かがうねりを伴いながら突き出ていた。土と芝生が、辺り一面の宙へと巻き散らされている。


 大蛇だった。

 三十フィートは優にある大蛇が、月光を背にして大地から空中へと飛び出していた。口先からは、先端が二股に別れた細い舌が覗いている。縦長で白濁した瞳孔は、猫を思わせた。

 空中で胴体を器用に折り曲げた大蛇が、エイミー達の姿を認めると、獲物目掛けて一目散に飛び掛かって来る。


「来るぞっ!」

 エイミーが叫び、真横へと飛びのいた。やや勢い余って、地面へと派手に転がってしまう。

 大蛇の乱暴な着地によって巻き散らされた土が、辺り一面に降り注ぐ。大蛇は、その太く長い身体でとぐろを巻き、頭をゆらゆらと左右に振っている。

 品定めを終えた大蛇が標的にしたのは、エイミーからそう遠くないところに倒れ伏しているオリヴィアのようであった。大地の上を勢いよく蛇行しながら、オリヴィアへと急接近する。

 立ち上がり、オリヴィアの元へと駆け出したエイミーの視界の端に人影が一閃、横切った。

 ミラだ。

 月光に美しい金髪を煌めかせた彼女は、妹を狙わんとする大蛇の鼻先目掛けて、右膝を叩き込んだ。不意の一撃をもらった大蛇は、胴体を大きく捩って、地面へと横倒しになる。


 エイミーには、目の前の光景が俄かには信じられなかった。

 恐ろしく巨大な蛇が自分達を食い殺さんと襲い掛かってきたことが。そして、三十フィート超の大蛇が一少女の膝蹴りなどで体勢を崩したことが。その全てに、現実感が感じられなかった。

 立て続けに起こった現実味の無い出来事に思わず呆けていたエイミーだったが、ミラの放った一言で我に返った。


「エイミー、走って! 逃げてっ! まだ倒せてないっ!」

 ミラが、やや右脚を引きずりながら、こちらへと走って来る。

 彼女の言う通り、大蛇は体勢を崩したものの、まだ蠢いていた。爬虫類特有の仕草で胴体を左右へ不気味に折り曲げる動作を繰り返す。ミラと二人掛かりで、恐怖に足の竦んだオリヴィアを抱き起こすと、エイミーは煙突のある家の方へと駆け出した。後ろを振り返る余裕などない。


 玄関扉の鍵は幸運にも開いているようだった。三人は、一目散に玄関ホールへとなだれ込む。間髪を容れず、最後尾のエイミーが扉を閉め、手近にあった木製の家具を扉の前に引きずっておく。もっとも、あの大蛇相手には所詮、気休め程度にしかならないのかもしれないが。


 二人にも協力を仰ぐつもりで振り返ったエイミーは、思わず息を呑んだ。なぜなら、ミラの手元にある角灯の照らし出した光景が、俄かには信じがたかったからである。

 まるで蝙蝠や烏を彷彿とさせる漆黒の両翼。およそ人の子ならば持ち合わせることのない部位。それが、姉妹の背後にそれぞれ出現していた。大きさは丁度、その持ち主自身が目一杯に伸ばした腕の長さと同程度。禍々しさすら感じる左右一対の翼が、彼女たちの背中、両腕の付け根付近から、服を突き破って、文字通り生えていた。


「アンタら……それ――」


 驚きのあまり震える指で二人の翼を指し示すエイミー。だが、当の姉妹の方でもまた、あたかも今まさに驚愕の表情を浮かべるエイミーを鏡写しにしたかのように、吃驚していた。


「エイミーこそ、頭に耳が――」


 ミラが、エイミーの頭部を凝視しながら呟く。

 促されるままにエイミーが、ミラの視線の先、頭頂部付近に右手をやると、違和感のある突起物に手が触れた。あるはずのない箇所に存在する異物。指で摘まむと、やや薄く、柔らかな手触りで、血流の脈動が指先に伝わってくる。そして、触っているという感覚が、指先だけではなく、その異物の存在する頭頂部付近においても直に感じる。ほとんど反射的に、左手が逆側の頭頂部付近に伸び、そして同じような異物がそこにもう一つ出現していることを知覚する。

 直感的、あるいは本能的にエイミーは悟る。これらが耳である、と。しかも、人間のつるりとしたそれではなく、まるで野犬のそれのような。

 そして、頭頂部付近に突如として出現した耳の存在を自覚するに至ったことで、自身の臀部付近のもう一つの違和感にも意識が自然と向く。右手を後ろに回し、上からズボンの中へ躊躇なく突っ込む。履き古したズボンの中で窮屈そうに収まっている異物。毛で包まれた謎の物体を掴み、引きずり出す。


「わっ、尻尾っ!」

 オリヴィアが、素っ頓狂な声を挙げた。

 長くしなやかで、豊かな毛で覆われた尻尾が、エイミーのズボンと上着の裾の間から顔を出す。

 獣の両耳と尻尾。それはまるで――。


「まるで、狼みたい。おとぎ話に出てくるような――」

 ミラが抑揚のない声で告げる。


「いや、アンタらだって――」

 エイミーは一旦言葉を区切る。

 そんな彼女の次の句が紡がれるのを待つかのように、あるいは紡がれないことを望むかのように、金髪の姉妹は、じっと微動だにせず見つめ返す。心中に去来する不安を押し鎮めるように、二人が呼吸を繰り返す度に、その口の端から覗くのは、左右に一つずつの獰猛で鋭利な牙。そう、それは――。


 吸血鬼。人間の首元に食いつき、血を吸う伝説上の怪物。目の前にいる金髪の少女二人の姿形は、まさに子供騙しの御伽噺で語り継がれる吸血鬼そのものであった。


 だが、三人の身に突如生じた変化について悠長に話し合う暇が、それ以上与えられることはなかった。


 それにいち早く気づいたのは、エイミーであった。

 新たに彼女の身体の一部と化した、いわば第三、第四の耳が、外敵の迫り来る音を察知したのだ。


「早く押さえろっ!」

 扉の前に鎮座する家具を押さえるべく、エイミーが真っ先に飛びついた。そして彼女の右側にミラが素早く位置取り、同じく全身で家具を扉へと押し付ける。二人に少し出遅れる形で、オリヴィアもエイミーの左側に駆け寄ると、見よう見まねで助力する。

 オリヴィアの到着とほぼ同時に、強い衝撃が家具越しに三人に襲い掛かる。扉と家具の木材が大きな音を立てて軋んだ。

「きゃあっ!」

 衝撃に吹き飛ばされて、オリヴィアが後ろ向きに転倒した。幸いにも扉は破られてはいないが、押さえるので精いっぱいの二人には、オリヴィアを引き起こす余裕などない。ミラも、一度心配そうに横を振り向いたが、すぐに扉の方へ専念し直す。

「オリヴィア、起きろっ! 押さえるんだよっ! 死にたくないなら急げ!」

 外側から扉を破らんとする体当たりが激しく続く中で、エイミーが怒鳴り声を上げる。

 オリヴィアは、小汚いシャツの袖口で、両目に浮かんだ涙を乱暴に拭うと、口元を引き締めて立ち上がった。そしてそのまま、中腰で抱き着くように家具を押さえにかかる。

 扉を挟んだ苛烈な攻防は永遠に続くかのように思われたが、しばらくの後、突如止んだ。扉の前で十数秒ほど、逡巡するようにとぐろを巻く音がした後、巨体が大地を這いずりながら遠ざかっていく。


 三人は、ゆっくりと互いを見やると、誰ともなく家具にもたれかかりながら脱力した。


「逃げたのかな……?」

 オリヴィアが震え声で呟く。

 それに答える者は誰もいない。


 その時、ミラが弾かれた様に立ち上がった。

「戸締りっ! 他の入口のっ!」

 彼女の言わんとすることを瞬時に理解したエイミーは、自身の鈍さを呪いたくなった。迂闊だった。敵は、彼女たちが陣取っている入口以外から侵入してくる腹積もりなのかもしれない。


「ミラ、どうする? これどかして、ここから逃げるか?」

 エイミーに問われたミラは、思案気な顔を浮かべた後に、首を横に振った。

「危ない、と思う。もしかしたら、ここから出てくるのを待ち伏せているかもしれないし」

「押してダメなら引いてみろ、ってわけ? そんな知恵が回りそうには見えなかったけど?」

 エイミーが懐疑的に言う。

「あくまで可能性の話として、ね。少なくともこの入口は危険だと思う。他のところから出られないかどうか試してみるのはどう?」

「確かに一理あるかもね。なら、アイツに鉢合わせる前に、別の出口でも探すか」

 エイミーの提案に、ミラとオリヴィアは小さく頷いた。


 床に転がった角灯を拾い上げたエイミーを先頭に、三人は二階へ続く階段の横を通り過ぎて、玄関ホールを突っ切る。突き当りを左手に折れると、居間らしき部屋があった。

 角灯の仄かな明かりであっても、エイミー達にとっては、部屋全体の様子を把握するのに十分であった。家具はほとんどなく、部屋の中央に敷かれたままの泥で汚れた絨毯の他は、壊れた木製の椅子が数脚転がっている程度である。向かいの壁際に大きな暖炉のある部屋で、右手側にある窓の鎧戸はしっかりと閉じていた。


「どうするエイミー? ここの窓から逃げる?」

 ミラが問う。

「そうだな、さっきの玄関とは逆方向だし、逃げられるかも」とエイミーが答える。


 突如、屋根から鈍く軋む音がして、家全体が小刻みに振動した。その後、間を置かずに、煙突の中から何か大きなものが擦れる音がし始める。その不気味な物音に三人はぎょっとした。


「ミラぁ……」

 オリヴィアが震えた声で姉の腕に縋りつく。

 鋭敏に研ぎ澄まされたエイミーの聴覚が、早鐘を打つ三人分の心音を捉える。

 暖炉から視線を一切外さずに、三人は申し合わせたように、じりじりとすり足で後ずさり始める。

 その瞬間、質量のある何かが件の煙突の中を勢いよく滑り落ちる音がした。その何かは、炉室に残った灰を勢いよく巻き上げながら、室内へと滑り出て来る。

 オリヴィアが声にならない悲鳴を上げる。エイミーも全身を強張らせて、反射的に防御の姿勢を取る。だが、そんな彼女らをよそに、暖炉から顔を出したは、先端を床に這わせた状態のまま、それ以上微動だにしなかった。


 意を決したのはミラだった。引き留める暇もなく、立ち竦む二人を尻目に、臆することなく暖炉へと近づいて行く。

 足元に転がっているを靴先で軽く小突くと、ミラが口を開いた。

「やっぱり――これ、中身が入ってない……」

「――は?」

 思いもよらぬ発言を受けて、その真偽を確かめるべく、エイミーも暖炉へと駆け寄った。

 確かに彼女の言う通り、それはただの抜け殻であった。長さそのものは、先ほど外で遭遇した大蛇と恐らくは同じようであったが、肝心の中身が入っておらず、首のあたりを両手で掴むと軽々と持ち上がった。先端が力なく垂れ下がる。もう一方の先は、いまだ煙突の中に入ったままである。

「なんで?――」

 思わず疑問がエイミーの口から零れる。


 その疑問に答えるかのように、玄関ホールの方から何かが勢いよく砕け散る音がした。

 エイミーは瞬時に理解した。


 ――囮。


 内側で懸命に扉を押さえていた三人の注意を引きつけるためのデコイ。獰猛で本能のままに襲い掛かってくる怪物かと思いきや、この行動には明らかに、ただの獣が持ち得ることのないはずの知性を感じさせた。


 玄関ホールの床に腹を押し付けながら蛇行する不気味な音。戸口に一人で立ち竦んでいたオリヴィアが、わなわなと恐怖に身を震わせながらも一目散に暖炉の方へと駆け寄る。

 ぽっかりと暗黒の闇を覗かせた戸口。そこに、凶猛な捕食者の鎌首が姿を現す。今宵二度目となる対面。

 顔の先に突き出た鼻の穴を二、三度ひくつかせ、細長い真紅の舌を振動させながら出し入れする様は、文字通り、狩るべき獲物を前にして舌なめずりしているかのようであった。

 絶体絶命。エイミーの十数年ばかりの人生の中で、間違いなく最大の危機であった。

 逃げ場のない部屋の隅に、三人が散歩杖のように突っ立っている状況は、非常によろしくない。


 敵は、彼我の距離を測っているようであった。両者の間に訪れる刹那の緊張。そして、張り詰めたその糸は、一瞬で途切れる。


 予備動作として上体を軽く引いた大蛇は、次の瞬間には、彼女達目掛けて、ピストルから放たれた弾丸のごとく飛び掛かってきた。目一杯に開かれた口腔には、鋭い牙が鎮座している。

 エイミーとミラは、ほぼ同時にそれぞれ左右に別れて飛び退いた。呆けたオリヴィアを抱えている分、ミラの方が回避動作が緩慢である。虚空に飛び込んで空振る形となった敵は、与しやすいと判断した二人の方へ向き直り、次撃の予備動作へと遅滞なく移行する。


 大蛇の注意がエイミーから逸れた。その隙にエイミーは、敵との距離を詰めると、明後日の方向を向いている大蛇の鼻先に角灯を力一杯横薙ぎに打ち付ける。衝撃でガラスが割れ、破片となって辺りに飛び散り、中に収まっていた獣脂蝋燭が根本付近で折れ、熱を帯びた蝋の滴がエイミーの頬にかかる。


 敵の照準が、エイミーへと移る。

 エイミーの手応えとは裏腹に、大蛇の鼻先には悲しみを覚えるほど手傷一つすらついていなかった。

 不意打ちを受けたことに怒りを覚えたのか、鼻息を荒くして、大蛇がエイミーの方へと方向転換して襲い掛かってきた。


 咄嗟に身を屈めたエイミーは、一直線に宙を突っ切る大蛇を頭上すれすれで躱すと、その太い首筋に左手を掛け、絨毯を蹴った。エイミーの身体は持ち主が経験したことがないほど、軽く舞い上がり、意図していた通りに易々と、敵の首筋に跨ることができた。彼女自身、正直なところを言えば、これに戸惑いすら覚えるほどに。

 この身体能力の向上は、恐らく狼のような外見になったことと理由を同じくしているのであろう。

 そのようなことを頭の片隅で過らせつつも、エイミーは淀みない所作で、右手をポケットに入れ、愛用の折り畳みナイフを取り出し、白刃を露にした。逆手に持ち替えると、柄に左手を添えて躊躇なく、あらゆる生物の急所の一つ、自分が跨る大蛇の首筋目掛けて振り下ろす。

 的確に振り下ろされた刃先が、鱗に覆われた首筋に接吻する。


 だが、次の瞬間、情けない音を立てて、刃が根本近くで折れた。狙いをつけたはずの鱗には傷一つすらついていない。


 大蛇が頭部を左右に大きく乱暴に振るう。そのせいでエイミーは、振り落とされ、背中から床へと落下する。そんな彼女を視界に捉えた敵は、首をしならせながらエイミーに向かって大口を開けて突撃を敢行した。

 床に仰向けになっていたエイミーは、その攻撃を戸口側へ転がることで辛くも回避する。


 そして、敵の追撃に対処するべく、様子を窺っていたところ、異変に気付いた。

 ――部屋に煙が充満している。


 先程までの応酬の最中には気づかなかったが、角灯が割れた際に、蝋燭の火が絨毯に燃え移ったようである。燃え移った、と言っても、せいぜいボヤ程度である。だが何故かその煙の中、大蛇はエイミーを見失ってしまっているようであった。巨体をうねらせながら頭部を振り回している様は、さながら滑稽な円舞曲を踊っているかのようですらある。

 その時、鎧戸が窓枠ごと、外へ向かって吹き飛んだ。燻煙の中、目を凝らして見ると、窓際でミラが姿を隠すように姿勢を低くするのが見えた。

 大蛇は、外界へと通じるに至った窓の方に向き直ると、窓際のミラに気づくことすらなく、そのまま夜の帳の中へ飛び出して行った。


 何故、敵が外へ出て行ったのか分からず戸惑っているエイミーのもとに、ミラと彼女に手を引かれたオリヴィアが駆け寄って来た。


「さぁ、今のうちに態勢を立て直そう」

 ミラが、戸口の外へエイミーを促しながら小声で囁く。

「なんで――アイツ、出て行ったんだ?」

 同じく小声でエイミーは尋ねた。

「前に本で読んだんだけど、蛇って単に目だけで敵を見つけるわけじゃないらしいの。獲物の匂いとか体温とかでも判断するって。確かに普通の蛇よりは大きいけど、もしかしたら同じかもって、絨毯が燃えたときに思いついたんだ。煙の中で私達を見失っているみたいだったから、窓を開けたら外に逃げたと思い込んでくれるんじゃないかって」

 答えながらミラは、戸口をくぐり廊下へと出る。

「でも、あの蛇は凄く頭が良いから、外には逃げていないって、多分すぐにバレると思う。だから、この稼げた少しの時間で、何とか倒す方法を考えないと」

「ねぇミラ、今のうちに、外に逃げた方が良かったんじゃないの?」とオリヴィア。

「いや、無理だな」とエイミーが代わりに答える。「アイツのスピードだと、何も障害物のない屋外で三人無事に逃げ切るのは難しいんじゃない? むしろ、まだ遮蔽物があって、奴の大きさ的に動きが制約される屋内の方がマシ」

 マシ、を嫌味っぽく強調する。

「そういうこと」ミラが頷いた。

「だけど、アレが戻って来たら――また戦うんでしょ?」

 語尾が尻すぼみになりながら、両目に涙を浮かべるオリヴィア。

「まぁ、――逃げ切れない以上、戦うしかないんじゃない?」

 半ば投げやりな態度のエイミーに、普段とは異なり、オリヴィアが珍しくなおも食い下がる。

「でも、どうやって倒すの? ナイフも刺さらなかったのに。もしかしたら無敵なのかも……」

「うっ、うっさいな。それをこれから考えるんでしょっ」


「大丈夫だよ、ヴィア。心配しないで」

 ミラが、不安がるオリヴィアの頭に手を載せて優しく撫でながら笑いかける。

「生き物は無敵じゃない。みんないつか死ぬんだよ。死ななくて無敵なのは、多分神様だけ。で、あれは神様じゃない。だから勝てる方法は、きっとあるよ」

 そんな二人の様子に、エイミーは悪態をつく。

「はっ、神様だ何だって、あのクソジェーンの真似事かよ。主がどうとか、アダムがどうとか、何か意味分かんないことばっかり、ほざいてたし」

 エイミーがそう言うと、ミラは彼女の方を向いたまま、押し黙ってしまった。じっと無言で何か考え込んでいる彼女のその沈黙が、まるで自分を責めているかのように感じ、ほんの少しだけバツの悪くなったエイミーが再び口を開く。

「――あんだよ。別に、怒ることないじゃん」

 エイミーに言われて、ふと我に帰ったミラは、口許を僅かに緩めた。

「あぁ、違うの。ごめんね。黙ってたのは別に怒ってるわけじゃなくて。――あのね、二人とも聞いてくれる? アレ、もしかしたら倒せるかも」

 やや頬を紅潮させた彼女の思いもかけない発言は、エイミーとオリヴィアを驚愕させるに足りるものであった。

「は?」

「本当に?」

「まぁ、もしかしたら、だけどね」


 ミラが、手短に自分の考えを二人に話す。


「た、確かに。それなら倒せるかも……」とオリヴィア。

「そうだな」とエイミー。

「だけどね」ミラが口を開く。「そのためには、かなりの強度がないと無理だと思うんだ。普通のじゃ多分上手くいかない。そんな都合の良い物なんて、今すぐには手に入らない――」

「いや、そうでもないでしょ」

 エイミーが悪い笑みを浮かべながら遮った。盗みに入るのに打ってつけの家を見つけた時によく浮かべる表情だ。

「あるじゃん。丁度良いのが」


   *


 乱暴な体当たりで無残に砕け散った木製の玄関扉と家具の成れの果てが散らばる玄関ホール。そこにエイミーが、扉を失った玄関から入り込む夜風に吹かれるままに赤毛を靡かせながら、一人で立っていた。上着を脱いで肌着一枚だが、あまり寒さは感じなかった。

 彼女の右腕には、即席のアームガード代わりに、三人分の上着がぐるりと巻き付けられており、手の平だけが、そこから露出している。

 赤毛の頭には、狼を思わせる立派な二つの耳がぴんと立っており、周囲の物音を漏らさず捉える。


 霜の降りた芝生が夜風に優しく靡く音。近くの森の中で野鳥が囀る音。

 大小入り乱れた夜の音の中、辺りの景色に似つかわしくない不協和音が鼓膜を震わした。獲物を求めて地面を這いずり回る不快な雑音。段々とこちらへ近づいて来る。


 ――ようやくお出ましだ。


 その時、ぴゅう、と口笛が一瞬聞こえた。準備が整ったというミラからの合図だ。


 大きく一度深呼吸すると、エイミーは威勢よく屋外へと躍り出た。向かって左手の方から目当ての敵が接近して来ていた。彼我の距離は、目測でおよそ七十フィート。

 今宵、三度目の会敵。二度までは、こちら側が一方的に狩られる側であった。だが、三度目は違う。今度はこちらが狩るのだ。


 エイミーの姿を認めた大蛇は、お決まりのごとく鎌首をもたげると、こちらへ向かって突進して来た。エイミーが今まで生きてきた世界では決して目にすることのなかったはずの光景なのに、一夜も経たずに、もはや見飽きつつすらあることに、思わず苦笑したくなる。

 エイミーは踵を返すと、一目散に玄関ホールを駆け抜ける。真後ろを向いた獣耳が、敵の位置情報を絶え間なく集音し続ける。突き当りを左に曲がり、先ほど一線を交えた部屋へと飛び込む。絨毯のボヤは既に自然鎮火しており、窓から吹き込む外気によって煙もほとんど霧散している。

 そのまま部屋の中央を突っ切って、奥の暖炉を目指す。


 大蛇も部屋に入って来た。

 灰をまき散らしながら、エイミーが炉室に頭から飛び込む。そんなエイミーに照準を合わせて、大蛇も一目散に続く。

 振り向いたエイミーと大蛇の目が合う。お互いの距離は、もはや十フィートもない。

 煙突の上に右手を伸ばしたエイミーは、そこに放物線を描いて垂れ下がっているの中央をしっかりと握り締め、ぐいと強く引いた。

 大蛇の鼻息が彼女の顔にかかる。


 すると、彼女が握り締めている紐状の物が、垂直方向へと一気に引き上げられた。エイミーを捉え損ねた大蛇は、炉室の奥の煉瓦に勢いよくぶつかり、煙突を大きく揺らし、灰を遠慮なく巻き上げる。咄嗟に左手で鼻と口を覆ったものの、逃げ場の無い煙突の中でその灰を吸い込んだエイミーは上昇を続けながら大きくむせる。

 天を仰ぎ見ると、真四角に切り取られた夜空がその面積をぐんぐんと増やしていく。そして遠ざかりつつある足元の方を見やると、大蛇が頭を一旦引っ込めた後、器用に身体をくねらせながら、煙突の中に侵入して来ていた。

 大きな頭部が煙突の中に無事に入りきると、あとは早かった。

 行き場を求めて煙突内を覆いつくす煙のごとく、すごい勢いで内部を駆け登って来る。一心に獲物を食い殺さんという気迫を感じる。


 煙突の出口付近まで引き上げられたエイミーは、右手の紐状の物を掴んだまま、両のつま先で煙突内部の壁を蹴り、垂直方向へ飛び上がった。煙突の縁に左手を掛けて、腕の力で煙突の外へと勢いよく飛び出す。

 夜の澄んだ空気で、肺腑が心地良く満たされてゆく。

 屋根の上には、ミラとオリヴィア。エイミーが握る紐状の物の先端を二人掛かりで手元に手繰り寄せていた彼女達と目が合う。二人ともエイミーと同じく、上着を脱いで肌着一枚だけで寒空の下にいる。


 エイミーが目配せをする。

 二人は軽く頷くと、事前に打ち合わせた通りの配置につく。

 ミラ、エイミー、そしてオリヴィアの順で、それぞれが握る紐状の物が屋根の上でV字を一筆書きに描く。


 煙突から飛び出して、屋根の縁に両足で着地したエイミーは、背後に視線を向ける。

 そこには屋根もなく、落ちれば地上まで一直線の、底冷えするような空間が広がっていた。だが、身震いする暇はない。足元の揺れが激しさを増す。煙突から間もなく怪物がお目見えする。


 ――来た。


 三、二、一。

 エイミーは心の中でカウントして、タイミングを見計らう。


 大蛇の鼻先が、ついに外気に触れる。

 お互いの間隔は、もはや数インチ程度。


 エイミーの背丈より高く、上方向に飛び出した敵は、身体を器用に折り曲げ、屋根の縁ギリギリに佇む彼女目掛けて、粘液の糸を引いた口腔を目一杯に開く。彼女の目の前に、まるで奈落の底を思わせるかのような暗闇が出現する。獰猛な牙がエイミーをついに捕らえんと振り下ろされる。


 その瞬間、エイミーは、握り締めた右拳を大蛇の口腔へと突っ込んだ。それと同時に、敵の口が閉じられ、右前腕が鋭利な牙で挟まれる。

 所詮、気休め程度でしかない即席のアームガードを易々と貫通した牙は、上下からエイミーの前腕の肉を容赦なく抉る。


 エイミーは、苦痛に顔を歪めつつも、自分が分担した役目を完遂すべく、口腔内で右の握り拳を開き、代わりに手近にあった舌を掴んだ。そして、目の前に突き出た大蛇の下唇を左手で力任せに握り締めると、屋根の縁を両足で蹴飛ばし、エイミーは、全体重を後ろに掛けて、敵もろとも一切の躊躇なく背中から地上へと落下する。

 ありったけの声量を振り絞って叫んだ。


「落ちろおおっ!」


 狼の咆哮が、夜を切り裂く。

 その叫びは、目の前の大蛇はもちろん、仲間に向けられたものでもあった。

 エイミーの合図と同時に、紐状の物の両端をそれぞれ握り締めたミラとオリヴィアが、エイミーとは反対側の縁から地上へとダイブし、屋根の上から姿を消す。

 数瞬の後、ミラとオリヴィアが持つ紐状の物の中心部、すなわちエイミーが大蛇の口腔内に置き土産として残してきたが、ついに牙を剥く。

 エイミーに、そしてそれ以上に大地の理たる重力に引かれて落下を始める大蛇。その口の両端に引っ掛けられた紐状の物が、大蛇の口から尾っぽの方へ向けて、その体躯を引き裂き始めたのだ。


 裂け目から体液が迸り、エイミーの全身に容赦なく降り注ぐ。

 大蛇の体躯の下半分をいまだ収めた煙突の外壁に、落雷のごとく亀裂が走る。崩れ落ちる瓦礫の合間から、ついに大蛇の全身が引きずり出された。大蛇の口に通された紐状の物が、あたかも指で摘まんだ葦を繊維に沿って縦に引き裂いていくように、その体躯を容赦なく無慈悲に上下に二分していく。


 苦悶に蠢き、最後の力を振り絞った大蛇の尾っぽが、宙で大きく一度しなり、屋根へと渾身の一撃を食らわせる。尾っぽが衝突した部分を中心に、屋根が轟音を立てながら崩壊し始める。

 それでも、赤毛の狼少女と金髪の吸血鬼少女達の落下を止めることは叶わない。だがそれ以上に、大蛇の体躯を引き裂く主要力量は、皮肉にも、彼自身の重量であった。


 善悪の知識の樹の実を食すよう、アダムとエバを唆した蛇。宙を舞いしとも、主に受けた呪いから逃れることは決して叶わず、自身に課せられた宿命に従い、彼は再び大地へと還る――。


   *


 アダムとエバがエデンの園で食した樹の実、すなわち知恵の実が何であったかについては、諸説あるらしい。その有力候補の一つは、林檎である。そして、その林檎にまつわる有名な逸話と言えば、やはり我がイングランドが誇る科学者、アイザック・ニュートンをおいて他にないであろう。彼による万有引力発見の契機となったのは、当該逸話によれば、木から林檎が落ちるのを目にしたことだという。


 半壊した邸宅。口から腹までを真っ二つに引き裂かれ、大地の上で息絶えた大蛇。その口から右腕を引き抜くことすら億劫だという風に、エイミーは大の字で地面の上に仰向けとなったまま、半ば呆けていた。


 首を動かして、大蛇の腹の辺りまで食い込んだ紐状の物を半ば放心状態で見やりながら、先ほどミラに聞かされたニュートンとかいう科学者の逸話を頭の中で反芻する。


 なるほど。

 確かに、クソジェーンのアダムとエバの話から林檎とニュートンを連想して、重力を使って仕留める発想に繋げることは、エイミーには思いつかなかったであろう。


 ――それにしても。

 

 正直なところ、賭けだった。

 煙突内の煉瓦で出来た構造上のつっかえについては、ミラとオリヴィアが抜け殻を回収する際に砕き、予め通行しやすくしておけば足りるであろうと思われた。

 問題は、大蛇を引き裂くための刃である。

 ミラの発案したアイデアを実行に移すためには、十分な長さと強度を持ったロープの存在が絶対条件であった。だが、そんな物など誰も都合良く持ち合わせてはいないし、たとえ運良く手頃なロープが見つかったとしても、ナイフが折れたことに鑑みれば、大蛇の口に引っ掛けたところで、途中でロープの方が耐え切れずに千切れるのが容易に想像し得た。


 だが僥倖なことに、ミラの話を受けたエイミーの脳内に、ある物を活用する可能性がすぐに浮かんだ。


 そう、煙突から囮として放り込まれた大蛇の抜け殻。

 普通の武器が通らないほど硬い敵に有効打を与えるには、少なくとも同程度の硬さを持った物を使うしかない。

 昔、盗品屈の主人から聞いた話が思い出される。硬いダイヤモンドを加工する際、通常の工具では歯が立たないため、ダイヤモンドで削るのだ、と。

 硬さが同じであれば、ダメージを与えることができる。

 これが自然法則であるのならば、それはまた怪物相手であっても通用し得るのではないか。

 脱皮した皮をロープ代わりにして、ミラのアイデアを実行に移すという作戦。脱皮した皮よりも本体の方が硬いということもあり得たが、文字通り命を懸けたギャンブルは、辛くもエイミー達の勝利に終わった。


 半壊した家を迂回して、ミラとオリヴィアがエイミーの方へと駆けて来る足音が聞こえる。死骸の口をこじ開けて、血まみれになった右腕を牙から引き抜くと、エイミーは徐に立ち上がった。


 小走りで近づいて来る二人のもとへと足を踏み出したエイミーの視界が、突如ぐらりと反転した。身体の平衡感覚を失い、そのまま地面へと倒れ伏す。


「エイミーっ⁉」

 エイミーに駆け寄ったミラが、両膝をついて上体を抱き起こす。

 言葉を発しようと試みるものの、エイミーの口は小刻みに痙攣し、持ち主の思い通りに動かない。痺れが全身に広がり、まるで身体が寄る辺なく宙に浮いているかのような感覚。

 左右から二人が何か話しかけてくるが、それをただの音としてしか認識できず、内容を上手く理解することができない。


 まとまりのない雑踏のような思考が渦巻く脳内で、この急激な異変は、もしかすると大蛇の牙に毒でも含まれていたのかもしれないことが原因なのだろうと、朧げに直感する。


 ――ここで、アタシは死ぬのかな?


 霞む視界の中に、必死で自分に何かを呼び掛け続けているミラと、その横で泣きじゃくっているオリヴィアが、ぼんやりと映る。

 開けていることすら辛くなり、閉じた瞼の裏に浮かぶのは、そんな彼女達の姿と――在りし日の母の姿であった。


 あの廃屋でアンタら二人に出会ってから、最近こんな目に遭ってばっかり。

 アタシばかりがこんな目に遭う。


 ――ほんっと、最悪なことばっかりだ。


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