第3話 Vice ring


   Ⅲ  Vice ring


「一分くらい稼げば、大丈夫?」

 ミラがエイミーに問う。

「はっ」とエイミーは鼻で笑い、「馬鹿にしてんの? 三十秒あれば足りる。――まぁアンタの妹がドジ踏まなきゃだけど、ね」横目でオリヴィアを見やる。

「私、しっかり頑張るからっ」

 オリヴィアが緊張した面持ちで言う。


 エイミーが、流れ者の姉妹と協力関係を築いてから、およそ二週間弱。人数が増えた分、食い扶持の必要量も増えたが、それを上回るだけの稼ぎは得ていた。

 根城のホワイトチャペルを明け方に出発して、現在は、昼近くになっていた。本日の仕事場は、ハノーヴァースクエアの聖ジョージ教会の教区。ロンドン中心部の高級住宅地だ。

 ロンドンにおいて区割りされた警察管区の中でも、首都警察スコットランドヤードが特に治安維持のために目を光らせている場所でもある。もっとも、それが意味するところは、その分稼げる猟場だということに他ならない。人数が増えると、こういった洗練された住宅街での出稼ぎが格段にしやすくなる。わざわざイーストエンドから足を延ばしてくるだけの価値はあった。

 先週もこの教区では一儲けさせてもらったところだ。裕福そうな上流階級の邸宅の庭で飼い猫が徘徊しているところをエイミーが手際よく袋詰めにし、それを偶然目撃した正義感の強い浮浪児が見事取り返したという設定で、見てくれの良いミラが飼い主へと届けたことにより、お礼に半ポンド金貨を頂戴したところである。


 特段打ち合わせたわけでもないが、三人の間では自然と役割分担が形成されていった。

 人当たりの良さそうな外見と、正体が露見した時に求められる身体能力の高さという点で、ミラが囮役。エイミーはその隙に、長年の経験と勘でもって、換金性の高い値打ちものの金品を短時間で選別、物色する役。そして、オリヴィアは、エイミーの手伝いをするか、あるいは見張り役などを務めていた。


 この日は、先日の猫誘拐の仕事途中に目を付けていた、一軒の邸宅が猟場である。

 まず、ミラが正面玄関の呼び鈴を鳴らし、召使を誘い出す。今回はこの邸宅の主人が注文した仕立服の勘定について、親方から聞いてこいと言われた使い走りの少年という体だ。シャツとズボンを着て、長めの金髪をハンチング帽の中に収めると、完全に年季奉公少年にしか見えない。

 召使が、確認を取るために奥へ引っ込むと、その隙にミラは、玄関ホールに置いてある、外套や傘、さらには銀の握り付きのステッキなどを持てるだけ持ち去って姿を消す。

 他方でエイミーは、召使がいなくなった台所に裏手の勝手口から飛び込んで、銀食器や換金性の高い品物を根こそぎ、持参したずた袋の中へと手早く放り込んでいく。

 二人の合流地点は、街角を曲がったところだ。オリヴィアには、そこに止めてある、古着を積んだ手押し荷車の番をさせている。戦利品は、古着の下に全て隠して、そのまま人目につかないよう逃亡する構えだ。また、オリヴィアは、警官が持ちビートの巡回に来ないかどうかの見張り役も兼ねている。


 きっちり三十秒で片を付けたエイミーがオリヴィアのところへ戻ると、既にミラも撤収済みであった。お互いの戦利品をずた袋ごと古着の下へと手際よく滑り込ませるやいなや、三人は、一目散に西へと手押し荷車を走らせる。道中、辻を左右に幾度か折れておく用心も忘れない。

 オクスフォード通りを西に突き進むと、ハイドパークが見えてくる。エイミーは、もう一度念のために振り返り、追手の無いことを確認すると、歩を緩めた。他の二人の足取りもそれに合わせる形で、緩やかになる。ハイドパークに沿う形で、サウスケンジントンを目指して南へと進んでいく。午後は、その辺りでもう一仕事行う予定だ。その後、その足で、アールズコートの馴染みの故買人のところを訪れたら、贓物を持ったまま東へと帰らずに済む。荷車はただの拾い物だから、その辺の路地裏にでも捨て置けば足りる。


「もう大丈夫……?」

 オリヴィアが不安そうに辺りを見回しながら尋ねる。

「ちょっとオリヴィア、あんまり辺りをきょろきょろ見回すんじゃないよ」エイミーが窘める。

「そうだね」ミラも頷いて、「不審に思われちゃうよ、ヴィア。それに、堂々としていれば、案外バレないよ」

「あんまり怪しそうだと」エイミーは意地悪く笑うと、「ヤードの泥臭い生エビ(警官)どもから棍棒で滅多打ちにされるかも、ね」右手で大仰に棍棒で殴りつけるジェスチャーをする。

「えぇっ!――どうしよう、ミラぁ」と、隣を歩く姉の上着に縋りつくオリヴィア。

「もうエイミーったら、あんまり怖がらせちゃだめだよ」

 左手でエイミーのくせっ毛を優しく撫でつけながら、窘めるようにミラが言う。

「別に嘘でもなんでもないでしょ。現にアタシは、ドジ踏んだ奴らが警官共に袋叩きにされるとこを今まで散々、この目で見てきたんだし。同じ目に遭いたくなかったら、十分注意しなきゃならないって、コイツにもしっかりと教えとく必要はあるでしょ? アタシまで仲良く縛り首は御免だから」


 手近なところにいた街頭商人から、ハムサンドとオレンジを人数分調達すると、三人はサウスケンジントンへの道すがら、昼食を胃袋へと流し込んだ。

 ハイドパーク南側の大通りには、ロンドン随一の高級店が通りの左右にひしめき合うように立ち並んでいた。きっと、あれらの建物の中には、宝石のように飾り立てられた品々が、華やかに陳列されているに違いない。世界に冠たる大英帝国の富と栄華がここには顕現している、といっても過言ではなかろう。


 通り過ぎざまに馬車の中でふんぞり返った紳士から、投げ掛けられる侮蔑の眼差し。クリノリンで不格好にスカートの裾を膨らませた婦人たちは、上品ぶった滑稽な足取りで、エイミー達から露骨に距離を取る。

 さながら大英帝国とは、石炭の代わりに金を火室で惜しげもなく燃やすことで、世界の上に我が物顔で敷いた鋼鉄の線路を驀進する蒸気機関車だ。そして貧者とは、富める者にしてみれば、そこから自身の力不足で振り落とされた敗者に過ぎないのだろう。

 ゆえに、荷車を押す浮浪児たちに向けられているのは、自らの優位性を確認するための眼差し。弱肉強食のこの世界における自身の確固たる地位を再確認するための行為なのだ。


「ねぇ」と、オリヴィアが徐に口を開いた。「あの、凄く大きな建物もお店なの?」

 彼女が指差す先にあったのは、ひときわ大きく、そして瀟洒な建物だった。

「百貨店だよ」

 オレンジを頬張りながらエイミーが答える。

「百貨店って何? 普通のお店と違うの?」

「アタシも入ったことはないから、詳しくは知らない。ただ昔に聞いた話だと、世界中から仕入れた色々な物や食べ物が売ってるとか何とか」

「へぇー、どんなのが売ってるんだろう?」

 オリヴィアは、無邪気さを伴う興味の視線を大通りの中でも異彩を放つ豪華絢爛な建物へと向けている。

「さぁね。いずれにせよ文無しのアタシらにとっては、もしかすると外国以上に遠い場所なんじゃない? 考えるだけ無駄」

「まぁ、でも」とミラ。「いっぱいお金を貯めて、綺麗な服を着たら、入れてもらえると思うよ。だから、それまでの楽しみにしておくと良いんじゃないかな、ヴィア」

「はんっ」とエイミーは鼻で笑う。「いつの話になるやら」

「じゃあエイミーには、夢とか目標ってないの?」

 オリヴィアが、やや口を尖らせて問うてくる。

「ないね」

 即答するエイミー。

「これっぽっちも?」

 妹に続けて、ミラが言う。

「そうだな――強いて言えば、安定した収入と寝床ってとこ。それ以外には今のところ、あんまし興味ない。逆に聞くけど、こんな生活してるアタシらが夢とか目標とか持ったところで意味なくない?」

「私はそうは思わないけど」とミラ。

「たまに手に入った本を読んでるとね。もっと世界の色々なところを見て回りたいなって思うよ。たくさんお金を貯めたら、いつかヴィアやエイミーと一緒に、この国の色んなところや他の国も見て回りたい、かな」

 楽しげな表情を浮かべて、ミラが言う。

 孤児にしては珍しく、ミラは文字が読めた。聞けば、昔、近所の教会で教わったそうだ。文字が読めないエイミーにはかび臭い本など、本屋の店先で掠めて幾ばくかの金に換えるだけの存在でしかなかったが、ミラにとっては決して手の届くことのない世界へと夢想の翼を広げるための手段なのだろう。


「まぁ結局のところ、金ってわけか」

 エイミーは、身も蓋もない要約をする。

 足元には目もくれない、気取った金持ちが勢い良くすっ転んでくれることを願って、振り向きざまにエイミーは通り過ぎた百貨店の方へと、食べ終えたオレンジの皮を投げ捨てる。


 ――前に向き直ると、オリヴィアが消えていた。


「ねぇ、オリヴィアは?」

 思わず足を止めて、隣のミラに問う。

「あれっ、いない」

 ミラも、妹がいつの間にかいないことに気付き、辺りを見回した。

「ミラ、あそこっ」

 エイミーが指差したのは、既に通り過ぎた真後ろ。

 オリヴィアが、小さな手に何か布のような物を掴んで、こちらへと走ってくる。

「ヴィア、勝手にいなくなったら駄目だよっ」

 ミラが窘める。

「ごめんなさい。でも、これ拾ったの」

 手に握った物をエイミーとミラに自慢げに広げて見せてくる。それは、純白の絹のハンカチであった。エイミーが指で軽く触れてみたところ、その手触りから、かなり高級な品であることが窺える。

「これどうしたの?」

 ミラが問う。

「さっきすれ違ったあの人が、落としていったんだ」

 オリヴィアが指差す先にいたのは、エイミー達とは逆方向に歩いていく老紳士であった。大方、懐中時計か何かを取り出す際に、ポケットから落ちたのだろう。落としたことに気付いているふうではなかった。

「ねぇ、これも売れる?」とオリヴィアが尋ねてくる。

 確かに故買屋へと持ち込めば、それなりの値がつきそうではあった。イニシャルなども特に刺繍されてはいなかったので、換金する上で問題もないであろう。

 そう答えるつもりで、エイミーが顔をあげると、件の老紳士が立ち止まり左右のポケットに手を入れているのが見えた。


 ――これは良くない。


 エイミーの第六感が即座にそう告げた。だがエイミーがオリヴィアにハンカチを隠すよう告げるよりも、老紳士がこちらを振り返る方が早かった。遠目からでも分かる純白のハンカチとそれを手にした浮浪児ども。そして、彼は知る由もないが、荷車の古着の下には、盗品が満載されているときた。

 非常に宜しくない状況なのは、火を見るよりも明らかであった。

 心臓が早鐘を打つ。


「泥棒だぁっ!」


 老紳士が、有らん限りの力を込めて叫ぶ。かすれた声を懸命に張り上げる。

 すると、御者が手綱を力一杯引き、馬が甲高い声でいななく。車輪を軋ませながら急停車した辻馬車の中から、傾いたシルクハットを載せた頭が目を白黒させながら突き出てくる。仕立服屋からは、巻き尺を首に掛けた中年店主が何事かと顔を出す。高級百貨店の正面入り口では、通りの様子を窺いに飛び出て来た、野次馬根性溢れる見習い青年が、通りにほっぽってあるオレンジの皮で勢いよく足を滑らせ尻もちをつく。

 まるで豆売りの少年が、売り物がぎっしり詰まった籠を思いっ切り石畳の上へとひっくり返してしまったかのような、上を下への大騒ぎであった。


「走れっ!」


 エイミーが号令を掛ける。

 逃げるのに邪魔な荷車を路上に捨て置き、ミラがオリヴィアの手を引っ張って駆け出す。姉に続く形で、妹も後れて走り出す。もっとも、何が起きたのかまだ十分に呑み込めていないという表情を浮かべたまま、である。もう一方の手には、忌々しい布切れをなおも握りしめていた。


「そんな物、さっさと捨てちゃいなっ!」

 エイミーが怒鳴る。

 些か以上に手遅れで、もはや何の意味ももたない行為であったが、つい口を衝いて出てしまった。オリヴィアは、夢の中で何か恐ろしい物でもいつの間にか掴んでしまっていたことに気付いたかのように、慌ててハンカチを手放す。


 一目散に大通りを駆け抜ける三人の貧民孤児達。それを殊勝な正義感と体力を存分に持て余した善良な市民様達が追いかける。


 突っ走る三人の視界の先、五十ヤードほど進んだところの路地から青い人影が大通りへと躍り込んできた。騒ぎを聞きつけた巡査だ。この辺りが彼の持ち場なのだろう。全身青づくめの詰襟制服に、黒光りするトップハットを被った、悪名高き首都警察スコットランドヤードの尖兵その人のご登場である。

 彼は辺りの状況を素早く確認し、騒ぎの元凶を認めると、鹿爪らしい顔で、こちらへと走って来る。彼は走りながら、ズボンの後ろポケットに差し込んである木製の警棒を取り出した。


 ――どうする? このまま突っ切るか、それとも引き返すか。


 三人とは言え、子供だけで警棒を持った巡査に挑むのか。あるいは、踵を返して、複数だが烏合の衆に過ぎない素人集団を蹴散らして活路を拓くのか。それとも――。

 横を振り向くと、ミラもこちらを向いたところだった。彼女のハンチング帽は、いつの間にか無くなっており、長い金髪が無造作に風になびいている。


 阿吽の呼吸。目と目で通じ合う。

 左手側に見えた小路へ飛び込むように方向転換したのは、二人ともほぼ同時であった。その先に逃走経路の当てがあるわけではない。だが、いざとなったらテムズに飛び込んででも、逃げ切ってやるつもりだった。

 その時、一緒に左折したはずのミラが、突如立ち止まった。数歩先を走っていたエイミーも、何事かと振り返る。すると、視界に飛び込んできたのは、小路の入口付近でうつ伏せになって倒れているオリヴィアの姿であった。

 二人の急な方向転換についていけず、姉の手を離れて転んだのだ。


「ヴィアっ!」

 ミラが妹の元へと駆け寄り、抱き起そうとする。そこに迫るのは、振りかざした肥大な正義感の行き場を求める者ども。


 このまま自分だけでも逃げるべきか、それとも助けに戻るか。

 刹那の逡巡。理性が結論に達する前に、身体が二人の元へ自然と駆け出した。

 孤児として賢く生き抜くことを信条とするエイミーにとって、全くもって非合理的な行動。後手に回った理性が、頭の片隅でもっともらしい理屈を捻り出そうと無駄な足掻きを続けている。


 ――これは、決して情に流されたわけではない。以前の借りを返すだけに過ぎない。あるいは、便利な仕事仲間をこんなところで失うのは、自分にとって大きな損失だからだ。

 これは、自己犠牲などでは決してない。そんなもの、飯のタネにすらなり得ない。追手の先頭に立つ巡査に一撃を食らわせることで怯ませ、二人が体勢を立て直すための時間を稼ぐことは、エイミーにとって利益になる。だから実行する。それだけだ。


 二人の横を疾風のように駆け抜けると、そのままの勢いで、正面から迫って来る巡査へと力任せに体当たりをした。これで、後ろの連中でも巻き込みながら倒れ込んでくれないものか。

 しかし、エイミーの思惑とは裏腹に、巡査は全く態勢を崩さなかった。彼の大きな左手がエイミーの首根っこを掴み、野良猫をつまみ上げるかのように彼女の華奢な体躯を易々と宙に浮かせる。


「おいっ、大人しくしろ!」


 巡査は、なおも暴れるエイミーを丸太のように太い片腕で路上へと投げ落とし、うつ伏せにした。彼の片膝が、乱暴にエイミーの背中の上へと押しあてられる。もはやこうなってしまっては、たかだか十二、三歳程度の少女に為す術はなかった。

 彼女は、打ち付けられた全身の痛みと、押さえつけられていることによる呼吸の辛さの中、路上で抱き合う金髪の姉妹が、義憤に駆られた即席巡査達に捕らえられるのを眺めることしかできなかった。


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