出産しゅっさん予定日よていびを間近に控えていたけど、買い忘れに気づいたその日のうちに、ママとパパはベビーカーを買いに出かけた。


 そろそろお昼というときに気がついて、ママが大騒おおさわぎしはじめて、それでパパが見かねて、ふたりはそのままお昼ごはんも食べずに出かけたんだって。

 もしかすると、ママのお腹のなかで私は、こう思っていたかもね。……私のこと忘れてない? ……お腹へった……お昼ごはんが先じゃない……? ってね。


 順調じゅんちょうに買い物をすませて、さあ家に帰って、少し遅いお昼ごはんにしようってときに、それは起こった。


 ふたりはパパの運転で、流しソーメンをしていたあの川の向こうがわの、街外まちはずれの、家の建ちならぶあたりを走っていた。


 季節は夏で、炎天下えんてんかだったみたい。

 だけどその日は風がすごく強くて、そこまでの暑さは感じなかったらしい。エアコンが苦手なママのこともあって、エアコンはつけずに、クルマの窓をすべて全開ぜんかいにしていた。外からは、夏の匂いがして、近所の子どもたちのはしゃぐ声が聞こえたって。


 家がたくさんあるところだったから、もちろんパパは、クルマをノロノロ走らせていた。いつ誰が飛びだしてくるかわからないからね。

 それに、パパはよそ見も居眠いねむりもしていなかった。それは正しいことだけど、このときだけは、そうしていたほうがよかったのかな。


 そろそろ家エリアを抜けるというときだった。

 路地裏ろじうらから小さなかげが飛びだしてきて、そのままふたりの乗るクルマの前に走ってくると、そこで立ち止まって、ビックリしたようにパパとママのほうを見た。


 それは小さな子イヌだった。


 いイヌらしくて、首輪くびわを着けていたけどそばにぬしはいなくて、首輪くびわにつながった散歩さんぽひもを地面にひきずっていた。


 急に前に出て来られちゃったけど、ノロノロ運転だったから、ゆっくりブレーキをんでも、子イヌにぶつからずに余裕よゆうで止まれたと思うって、ママは言っていた。じっさいにパパも、最初はじんわりとブレーキをんだらしい。


 だけど、その途中で、子イヌが大きな声で、「ワンッ!」って鳴いた。


 パパはそれにおどろいて、思いきり急ブレーキをんで、ハンドルを切ってしまった。

 なんでそんなにおどろくのって感じだけど、ママが言うには、子イヌの声はホントにおびえてて怖そうで、「パパっ!」「ママっ!」「たすけてっ!!」って叫んでいるように聞こえたらしい。


 それでふたりの乗るクルマは、近くの電信柱でんしんばしらにぶつかってしまった。


 でも、もとがノロノロ運転だったから、ほんとうにかるくぶつかっただけだった。ただ、ナンバープレートのあたりが少しへこんだくらいで、クルマの見た目はほとんど変わらないくらいだったらしい。


 それでもふたりにはちょっとした衝撃しょうげきがあった。だけど、クルマのダメージがそれくらいだったのなら、電信柱でんしんばしらにぶつかった衝撃しょうげきよりも、急ブレーキをんだはずみのほうが大きかったのかもしれない。


 ママはとっさに自分のお腹をかばって、体をまるめて脚でふんばったから、なんともなかった。


 パパのほうだって、そんなにどこかを強く打ったりはしなかった。

 ただ、ママをかばおうとして片手をハンドルからはなしたせいか、ふんばりがかなくて、おでこをハンドルに、かるくコツンとぶつけてしまった。


 それはほんとうにかるくで、ハンドルに頭をのっけるくらいで、まるで、つくえして、ちょっと休憩きゅうけいしようとするみたいだったらしい。


 だからパパはこのときにはピンピンしていて、ママになんどもあやまって、普通にクルマから降りて、それから、冷や汗をかきながらだけど、これをにファミリーカー買っちゃうかー、なんて、のんきに言っていたんだって。


 ふたりはそれから、近くでおびえていた子イヌをつかまえて、首輪くびわぬしの名前や住所じゅうしょが書かれていないか確認してみた。

 だけどそれらしいものはなくて、困ったわねぇ、どうしよっかぁ、なんて言い合っていた。

 そうするうちに、どこからともなく声が聞こえてきて、これぞ主婦しゅふって格好かっこうのおばさんが、ふたりのところに走ってきた。


 その人は子イヌのぬしで、ふたりが事情じじょうを話すと、泣きそうな顔をしてとりみだして、パパとママになんどもなんどもあやまった。

 その勢いがすごくて、パパとママはすんごいおどろいたらしい。おばさんを落ち着かせるが大変なくらいだったって。


 おばさんから話を聞くと、そのまえの日のお昼くらいから、その子イヌはずっと行方不明ゆくえふめいだったらしい。

 おばさんと、小学生にあがったばかりのむすめさんとのふたりで、子イヌの散歩さんぽに出ていたその途中に、子イヌが逃げだしてしまった。


 突然どこか遠くから、知らないイヌの鳴き声がして、その拍子ひょうしに、急に子イヌが走りだしたものだから、おばさんはそれにおどろいて、思わず散歩さんぽひもから手をはなしちゃったんだって。


 おばさんとむすめさんは子イヌを必死ひっしに追いかけたけど、子イヌは信じられないくらいの速さでみるみる遠ざかっていって、とても追いつけなかったらしい。まるで、地面をすべっていくようだったんだってさ。


 そして子イヌは、その声にさそわれるように走っていって、そのまま姿を消してしまった。


 それでもふたりはイヌの鳴き声のするほうに走った。だけどその声もだんだんと遠ざかっていって、そのうちに聞こえなくなってしまった。


 それからおばさんとむすめさんは、日が落ちてあたりが暗くなるまで、子イヌを探しまわった。道ゆく人やそのあたりの家の人に、子イヌを見なかったかってたずねたりして。だけど、どんなに探しても見つからなくて、その日はそこで切りあげて家に帰った。


 それから、むすめさんはさんざん泣いて、泣き疲れて寝てしまうまで、おばさんをずっとめつづけた。

 おばさんは責任せきにんを感じて、その日のうちにまよいイヌのがみをつくって、翌朝はやく起きて、つくったがみを持って、旦那だんなさんといっしょに子イヌ探しに出かけた。


 まえの日と同じように聞き込みをしたり、たよれそうな人に片っぱしから電話して協力してもらったり、それから、あたりの電信柱でんしんばしらがみをしたり。


 それを聞いてパパとママは、クルマをぶつけた電信柱でんしんばしらに振りかえってみた。

 するとそこには、ちょうどそのがみがしてあって、写真のなかの子イヌがつぶらなひとみで、じっとふたりのことを見下ろしていたんだって。


 それからパパとママは、少し話をしただけで、おばさんとはそのまま別れたみたい。

 クルマのほうはナンバープレートがちょっぴり『くの字』になって、そのまわりが少しへこんだくらいだったし、ふたりもピンピンしていて、電信柱でんしんばしら無傷むきずだったから、ケーサツに電話とかはしなかったらしい。

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