そして、目を開けると、いつのまにか夕方になっていた。


 口のはしからヨダレをたらしながら、なぜか私は、『えへへ』みたいな感じで笑っていた。

 のびをして思いっきりあくびをすると、ビックリするくらい空気がおいしくて、なんだかひさしぶりに息を吸ったような感じがした。


 体を起こして、目をこすって視界のくもりを払ってみると、流しソーメンはもう終わっていて、河原には誰の姿もなかった。


 私はそれからしばらく、ぼーっとしていた。体が起きても、頭のほうはまだ起きていなかったんだと思う。そのあいだ、なんの変化もなかった。ただ、川の流れる音がするだけ。


 意識がはっきりしてきて、初めに頭に浮かんだのは、『家に帰りたい』だった。でも今度は、体のほうがついてこなかった。まるで頭のぼんやりが体に降りてきたみたい。


 日がかたむいてもあたりはまだ暑いくらいだったけど、川辺かわべで寝ていたせいか、体が少し冷えていた。私は両ひざをかかえて、その上にあごをのっけながら、川に目をやった。


 川は夕日に染まって、すごくキレイだった。少しのあいだ、見とれて動けなくなっちゃうくらいに。


 いオレンジ色なのに、きとおっていて。水面はキラキラかがやいているのに、川底は真っ暗だった。

 そのせいか、そんなに深くないはずの川が、深く見える。遠くに感じる。橋の上からのぞく谷底よりも、山の上からながめる風景よりも。秋の晴れた空みたいに遠くて、夜空みたいに深い。だけどやっぱりオレンジぃの。


 ずっと見ていてもきないような、どんなに見ても足りないような、そんな不思議なキレイさだった。


 そろそろ帰ろうと思って顔をあげると、目に映ったものに注意をひかれた。

 そしてなぜだか私は、それがなんなのかわからないうちから、背筋が冷たくなってぶるっとふるえた。


 目をらしてみると、川の向こうの、土手どてと河原の境目さかいめあたりに、誰かがうつせで倒れていた。


 こっちを頭にして、くずれたエックスみたいなかたちで手足をぜんぶ投げだしている。そのままぜんぜんうごかない。


 たぶん女の人。若い人だと思う。


 もしかして熱中症で倒れてる? それとも、足をすべらせて頭を打っちゃったとか?


 さらに目をらしてみる。


 彼女は、私と同じような髪型かみがたで、同じような服装ふくそうだった。


 そんなにおどろいたつもりはなかったけど、私は少しのあいだ、息をするのを忘れていた。

 なんだか急に、自分のかみと着ている服が、頭と体にりついてきたように感じて、かなりおどろいた。のに、それでも私の体は、息を吸うわけじゃなくて、こごえたときみたいな息をもらすだけだった。


 苦しくなって息を吸うと、自分の声じゃないみたいな、かすれた音がのどで鳴った。


 それを合図にしたように、彼女は、突然むくりと体を起こした。


 そのままぺたんこずわりをして、あたりをくるりと見渡すと、みだれたかみととのえはじめた。

 手を、ワシの足のかたちにしたり、拍手はくしゅのかたちにしたりしながら。丁寧ていねい丁寧ていねいに。とかしたり、おさえたり。


 不思議な光景。現実じゃ、ないみたい。


 彼女は、私といっしょで、流しソーメンをながめるうちに寝てしまったのかもしれない。そうだったなら、不思議なことなんてなにもない。だって私がそうなんだもん。ひとつ目があるなら、ふたつ目だってあるよね。


 髪型かみがた服装ふくそうだってそうだよ。

 なかには、そんなにたくさん髪型かみがたの種類があるわけじゃないもん。服だってさ、似たようなものはたくさんある。それに、私はモデルさんじゃないし、それどころかオシャレさんでもないから、髪型かみがたはほとんど美容師びようしさんにおまかせだし、服はファストファッションですませてる。


 だから髪型かみがた服装ふくそうかぶったって、不思議なことなんて少しもないはず。


 これで顔までそっくりだったなら、それは不思議だろうけど、あいにく彼女の顔はわからなかった。それはなぜって、彼女は、おまつりでよく売っているような、キツネのお面をかぶっていたから。安っぽくてぺらぺらした、プラスチックのやつ。すぐにやぶけちゃう、あのお面ね。


 これだってべつに不思議じゃないよ。

 いまは夏だし、おまつりなんてそこらじゅうでやっているんだから。


 買ったお面を気に入って。おまつりが楽しかったから。夏だからはめをはずして。太陽のまぶしいのが嫌で。ただなんとなく気まぐれに。

 ほら、理由なんていくらでもあげられるじゃん。


 でも、いろいろ考えてもダメだった。


 ぜんぜん不思議じゃないはずなのに、目に映るこの現実が、不思議で不思議でたまらなかった。


 突然、彼女は顔をあげた。

 たぶん、私に気がついたんだと思う。

 彼女は、まるで小動物のようにかわいらしく首をかしげた。そして、右手を肩くらいの高さにあげると、ひらひらと手を振りはじめた。


 私は少しおどろいてしまって、しばらくのあいだ固まっていた。

 それでも彼女は手を振りつづけた。私に声をかけるでもなく、ずっと黙って、めげることなくひらひらと。


 私は、やっとのことで手を振り返した。


 でも、彼女は、なんの反応もしてくれなかった。たださっきと変わらず、手を振りつづけるだけ。

 私が、おおきく手を振ってみせても、ちょっとおどけてみせても、手を振るのをやめてみても、彼女はなんの反応もしてくれない。

 ひたすら手を振るだけ。ひらひら、ひらひらって。


 もしかして、お面をしているから、彼女はなにも見えていないんじゃないかと思って、私は、ためしに横に移動してみた。すると彼女は、私のうごきを追って首をうごかして、顔をこっちに向けつづけた。見えてはいるんだ。


 土手どての坂のところなんかで、足元も見ないで歩いたせいか、私は転びそうになってしまった。

 すっかり忘れていた。この坂が、草でつるつるすべることを。


 あわててバランスをとって、なんとか転ばずにすんだけど、心臓しんぞうが痛いくらいドキドキしていた。


 たしかに転びそうになってビックリはした、けど、心臓しんぞうがこんなになっちゃうほどビックリはしてない。おかしい。こんなにドキドキするなんて。それとも。ビックリしたせいじゃなくて、体が教えてくれているのかな。危なかったぞ、って。もしも転んでいたら、大変なことになっていたぞ、って。


 そんなわけないか。だってさ。もしバランスをくずしてそうなっていたとしても、ただ、頭をぶつけるとか、ひざやひじをすりむいちゃうとかだけもんね。なら。なんでこんなに。心臓しんぞうけそうなくらいバクバクするんだろう。


 私はなんだか怖くなって、その場を離れることにした。


 いちおう最後に、彼女に『バイバイ』って手を振って、川に背を向けて坂をのぼり、私は土手どてみちに立った。

 そのまま帰ってもよかったんだろうけど、やっぱり後ろが気になって、私は後ろを振りかえった。


 彼女は変わらず手を振っていた。


 この子はいったい、なんなんだろう。そう思って私は、彼女の顔をじっと見つめた。といってもお面をつけているから、その表情はさっぱりわからない。


 でも、なぜか今度は反応してくれた。彼女は、頭を左右になんどもゆらゆらかたむけた。すごくかわいらしい仕草しぐさだった。

 だけど、彼女の考えがわからなくて、私はそれが、なんか嫌だった。知りたいって思った。だから、怖くて逃げたかったけど、どうしてもそうできなかった。


 私は、彼女に視線を向けてはらす、を、なんどかくりかえした。

 するうちに気がついた。三秒見つめると彼女はその仕草しぐさを始めること、見ているあいだそれを続けること、そして、少しでもよそ見をするとそれをやめてしまうこと。だけど、わかったのはそれくらい。あとはさっぱり。


 でも、彼女のその姿を見ていて、少しだけ思ったのは、ううん、感じたってほうが正しいのかな。


 彼女のそのうごきは、たしかにかわいらしい仕草しぐさだけど、なぜだか私には、お面の奥の彼女の顔が、無表情のような気がして、しかたがなかった。




 川辺かわべから街がにぎわうところまでの、ひらけた道を歩くそのあいだ、私はなんどか後ろを振りかえった。

 彼女がついて来ているんじゃないかって、そう思ったから。でも、その心配はただの思い過ごしだった。いくら振りかえっても、そこには誰の姿もなかったから。


 いま思い返すと、あの河原から『あべこべざか』に来るまでのあいだ、私は誰にも会っていなかった。

 人影ひとかげさえ見てない。

 クルマだって一台も見てなかった。

 かなりの距離を歩いたはずなのに。

 でもそれだって、私の思い過ごしかもしれない。だって、歩いているあいだ、私はずっとうわそらだったから。


 ずっと彼女のことを考えていた。


 彼女はもう家に帰ったのかなとか。


 彼女はどこに住んでいるんだろうとか。


 彼女はどんな顔をしているんだろうとか。

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