フェスタ

 十月。

 九隅大に通う一年生と二年生にとってはこれが初めての九隅大学学園祭ということになる。

 もちろん、感染対策は万全に。密を避け、飲食物を取り扱う店のみならずアルコールスプレーによる手指消毒は徹底。また規模も例年のそれよりは二回りほど小さくはなったが、学舎の賑わいは人々が取り戻した平和の象徴である。天候にも恵まれて、亀沢が「プリンスガーデン」と勝手に名付けたグラウンド脇の芝生に並んだパラソル付きのテーブルでは「王子様部」の面々が、いわゆる接客を伴う飲食提供を行った。

 これは律にも意外なことであったが、客足は絶えることがなかった。女子学生、見学に来た女子高生とその保護者、女性教授……、いずれにせよ女性ばかりかと思ったが、男子学生の姿もちらほら見られるし、西洋史のおじいちゃん教授がやって来て時代考証の確かさにお墨付きを与えていたことには驚かされた。加蔵と本橋が休みの日にサッカーを教えているというこどもたちが十一人もやって来たときには、てんやわんやの大騒ぎにもなったが……。

 そんな中で、矢束は二日間とも「メイドさん」として働いた。

 彼の前髪を上げるべきか下ろしたままでおくべきか、というのは、「王子様部」にて丸一日会議が行われるほど紛糾した課題であった。当の本人は「僕目付き悪いから下ろしておきたいです」と言ったのだが、中寉は「矢束くんのお顔はとても可愛いので多くの人に見せびらかしたいです」などと主張し、亀沢本橋は「本人が下ろしておきたいなら」と穏和な意見を述べ、加蔵は「そんなに重要な問題とは思えない」とごく妥当なことを言った。仕事でいなかった蒔田は「絶対前髪上げた方がいい。何故ならば矢束くんのおでこは」以下二千字にも及ぶ意見書をメールで送って来たが、要するに「ヴェル・デ・ラ・ビット」のメンバー二人が強硬な「前髪上げろ」派なのであった。

 矢束の顔がどういう評価を受けるものなのか、ということについて、律は意見を持たない。持ってはいけない立場を自覚しているし、意見を求められるような場にはそもそも近付きたくないと思ってもいた。結論から言えば矢束は土日二日間に亘って開催される学園祭の前半は前髪を下ろした「メカクレメイドさん」として過ごし、後半は前髪を上げて臨むことになって、意見の対立は軟着陸を迎えた。……本当はほとんど二日とも「メカクレ」で行くことに決まりかかっていたのだが、中寉は最終的に床でのたうちまわって駄々を捏ねてまで前髪を上げるよう求めたのでこうなった。二十二歳男性である彼が人間性をあまり大幅に毀損する前にまとまったのであれば何よりであったし、結果を見ればこれが唯一の正解であった。

 初日は不慣れなこともあって控えめに隅っこの方でもじもじしている姿が初々しくて良いと高評価を受け、翌日また近くを通りがかってみたら重たい前髪の下からは案外に鋭い双眸が露わになっていてこれもまた愛嬌があって良いとリピーターが続出したのである。中身はどうあれ見目麗しいことだけは確かな王子様とメイドさんが一人ずつ欠けたにも関わらず、二日目の陽が傾き始めた頃には、

「中寉くんが入って過去最高だった三年前と同じ規模の売上げだ」

 と亀沢はほくほく顔で王子様らしからぬことを言った。

「来年も是非頼むよ、ヴィットーリア!」

 既に二十七歳の亀沢が来年も学部生として在籍し学園祭の指揮を執るつもりでいるらしいことが、たぶん唯一にして最大の問題だろうと思ったのは律だけではなかったはずだ。

「もちろん、君もだよ、武者小路くん」

 肩をぽんぽんと叩く手を振り払って、

「さあ……、どうでしょうね」

 律は溜め息混じりに言った。

 律も「王子様」なのであった。





 ガーデンからテーブルを片付けて解散したのは午後五時近くのこと。

 間も無く始まるのが後夜祭、「ヴェル・デ・ラ・ビット」のこの学園祭最後のライブがあるのだ。どんなにへとへとだったとしても絶対に観たいと楽しみにしていた矢束にとってはこれこそがメインイベントである。夜のキャンパスにはまだ多くの学生が彷徨いていて、時節柄酒気こそ混じってはいないものの、なんとなく浮かれた空気が十月にしては生ぬるい風に乗って、西サークル棟三階「王子様部」の部室の開け放った窓から流れ込んでくる。

 律はもう二度と着ないつもりの和服から着替えて凝った肩をぐるぐる回し、矢束はさすがに草臥れた顔でパイプ椅子に収まり、髪留めのピンこそ外しはしたもののフリルの付いたカチューシャはそのまま、まだ九割以上は「メイドさん」のままでいた。目元はいつもの通り伺えないが、どうやら眠りに落ちていて、薄く開いた唇からごく静かな息の音が聴こえてくるたび、薄い胸が膨らんでは萎む。

 ライブまではまだ少し時間がある。正式な「王子様部」のメンバーになったつもりのない律と矢束ながら、部室の戸締りを任されているのは、この後に「ヴェル・デ」のメンバーの打ち上げに誘われていて、部室の鍵はその際中寉に返却するよう頼まれているからだ。

 グラウンドは混雑しますが、サークル棟からでしたらのんびりとお楽しみ頂けると思いますよ。

 特等席で俺たちのパフォーマンス観てね!

 ……と、中寉蒔田に言われているのである。

 なるほど、黄昏の陽を浴びたステージはやや遠いが真っ直ぐに眺めることが出来るし、グラウンドは既に相当な混雑ぶりである。日中のライブは講堂で行われていたようだが、後夜祭はこの通り屋外での開催となる。場所柄「フェス」の空気感も漂っている。

「んん……、寝ちゃった……」

 矢束がパイプ椅子の上で大きく手足を伸ばして欠伸をする。

 男の線が出がちな腕はイミテーションの真珠があしらわれた肘までの白いグローブで、足は黒のストッキングで覆っているもので、男っぽさは限りなく薄められている。しかし、男であることを否定するものではない。男の在り方の選択肢の一つ、それを突き詰めて可愛くしたもの……、として見ることに、律は抵抗を感じない。

「どうだったよ、女装」

 律の問いに、

「んー……、そうだねぇ……」

 立ち上がって首を傾げて、

「三摩くん的にはどう?」

 逆に答えを求めてきた。あまり素直ではない男だということを知った上でそうするということは、矢束自身もあまりいい言葉を貰えるとは思っていないのだろう。

「……トイレどうしてたの?」

「どうって……、普通に男子トイレだよ。当たり前でしょ」

「じゃなくって、やり方」

 トイレの「先客」はどう思ったか、想像が付かない。

「個室。……立ったままスカート捲ってなんて出来ないよ」

 律は、矢束も、そういうことをしそうなタイプの男の美しい顔が二つ浮かんだけれど、わざわざ確認し合わなかった。その顔を含む四人がステージの上に現れて、音を鳴らし始めた。二人で並んでプレハブの窓辺に肘を掛けて覗く。メイド服を着ているという以外、四人の男には少しもおかしいところはなく、……つまり、マイクスタンドの高さを調整している中寉は中学生みたいだし、キーボードで指慣らしをする蒔田は女子高校生めいている。蒔田のパートナーであるギタリストの大月結人は女装しているのにボサボサ髪でどんな服を着ていようがお構いなしの様子、そして笛担当の中国人・蕭凱龍という男は腰までの髪と謐けさを感じさせる白い顔で、やはり四人の中で一番女性に見えた。

「なんか、中寉先輩も蒔田先輩もこうやって見るとやっぱりすごくかっこいいね……」

 憧れる言葉を、矢束が呟いた。

 そうかなあ、とへそ曲がりな言葉を口にしかけたけれど、まあ、そこを否定する必要はないかと呑み込む。中寉蒔田は共に厄介な男には違いないが、彼らの在り様の美しいこともまた、素直に認められるぐらいの度量は備えておくべきだろう。

「お前もかっこいいし、あいつらよりも可愛いよ」

「はっ?」

 律の言葉に高い声を上げて顔を向ける。律は言うべきことは言ってやったつもりで、徐々に音鳴らしからフレーズの繰り返しへと移行しながらテンションを上げていく四人を眺めていた。

 律のパートナーが可愛い男であることは、きっと今日彼のこの姿を見た誰もが理解したはずだ。本人はコンプレックスらしい目付きの悪さも人見知りぶりも、全部愛嬌に変換してしまえるだけのものが、矢束には備わっている。愛されて在るべき男が矢束蒼であり、だからこそ「若旦那」であるところの律は王子様そっちのけで矢束に群がった男子学生に囲まれてぎこちなくピースサインを作って写真を撮られる光景を見て、嫉妬した、……ああ、ものの見事にヤキモチを妬いた。しかし同時にほのかな優越を抱いていたことも事実なのだ。お前らが一緒に写真撮ってるそいつが穿いてる下着のことまで俺は知ってるんだぞ、という、甚だ程度の低い優越感ではあったけれど。

 演奏の準備が整ったらしい、音が止んだ。

「……三摩くんは、他の誰よりも一番王子様だったよ。少なくとも、僕にとっては、……僕にとって、だけは……」

 矢束の言葉の余韻を味わっているうちに、マイクの前に立った中寉がオーディエンスに向けてぺこりとお辞儀をした。それを合図に、群衆が静まり返る。

「えー……」

 言葉の口火を切るのは、ギターの大月。やや掠れ気味の高い声で、気だるげに。

「こんばんは、……ものずきな九隅大学の学園祭実行委員の皆さん呼んでくれてどうもありがとうございます。宿木橋から来ました、ヴェル・デ・ラ・ビットです、お集まりの皆さんも、とてもものずきなことで、どーもありがとうございます……、はい」

「何であれ好きなものがあるというのはいいことです」

 中寉は一貫して冷めきった顔でいた。形のよさであらゆる問題をカバーし尽くしてしまえる、稀有な人種である。

「楽しい思い出を作ってこのお祭を終わらせましょう。僕たちも、楽しい思い出を作って帰ります。どうか最後までごゆっくりお楽しみください、僕たちで孔だらけになってください、もうなってる人は、どうぞもっと孔だらけになってください」

「原型留めないぐらいボコボコになってください」

「イキ狂ってくださいね。では始めましょう」

 音が躍る、音に踊る。

 中寉の声は高く鋭く、大月のギターは暴力的であり、蕭凱龍の見たこともない形の横笛からは哀切な旋律が夜風そのものとなってオーディエンスの間を駆け抜けた。それぞれが好き勝手に音を立てているようで、普段の振る舞いを忘れさせるほど秩序立った音符を刻んでいるのが蒔田で、彼の指先が編成上空虚になりかねない低音をしっかりと踏み締めて、音楽に厚みを加えているのだった。

 イヤフォンに閉じ込めて聴くだけでは味わえない音の圧が、律と矢束の窓まで届く。矢束よりももっと小さな中寉はこんなに遠いのに大きく見えるし、あのぐだぐだした蒔田は誰よりもクールだ。窓桟にかけた矢束の白手袋の手に、指先に、痺れるような力が籠ったのが見えた。

 だから、キスをした。

 顔を離してステージに目をやったとき、叫び声を上げる中寉と目が合った気がする。彼のガラスのように冷たい顔に、蜂蜜バターの笑みが浮かんだ気がした。矢束が目をまん丸くしていることは、重たく垂れ込める前髪に隠されていても判った。公共の場で、と言いたいことも。

 平気だよ。誰が見たって俺たちはいま、すっごく似合いの王子様とお姫様だ。

 あいつらの音楽が世界に突き立てる杭に隠れた一瞬の隙に愛を確かめ合ったとして、何の問題もあるまい。

 乱暴なジャンプと共に一曲目が終わったとき、矢束は心も身体もすっかり律に委ねきることに決めてしまった。

「見なくていいのかよ」

 っつーか、あいつらにバレんぞ。

 妖艶な女装男四人のパフォーマンスに撃たれたオーディエンスの溜め息と響めきがグラウンドを震わせていた。どのみち中寉以外に二人を目撃したものはいなかっただろう。中寉が慇懃無礼に「どうもありがとうございます」と頭を下げて、次の曲に行く前に、くるりと踵を返して蒔田の元へ歩み寄り、何か囁いた気配だ。蒔田が「えー!」と上げた声はマイクには拾われなかったが、彼が嬉しそうに二人の窓へ目を向けた。その視線から逃げるように、律は矢束の腰に手を回して座る。ここは世界の外側、しかし彼らの音と繋がっている。

「次の曲に参ります」

 スタンドマイクに戻ったらしい中寉の声に遅れて、また蕭凱龍が高い笛の音を夜空に向かって解き放つ。律は執拗に唇を求めてくる矢束をあやしながら、彼のストッキングを伝線させないように丁寧に太腿まで下ろし、下着の足の間へ左手を入れる。柔らかくて温かな触り心地は、これまで幾度か穿いているところを見せて・観察させて・触れさせて・愛させてくれてきた女性物のそれよりもどこか素朴である。無理もない、あれよりももう少し生地としては厚手で、実用性重視、デザイン的にはだっさい、けれどどこがどう性的なのか解りたくもないのに解るようになってしまった──矢束が穿いてりゃそれだけでもう十分過ぎるぐらいに性的な代物に決まってんだろ──ブリーフである。

「見せて」

 律の太腿を跨ぐ矢束自身に紺色のプリーツスカートを捲らせて、世界に届く光の量が減ってきても、その白さは際立つ。窓、出口、どう形容してもいいが、丹念な仕事の結果として男が男自身の欲の矛先を必要に応じて解放するために作られた重ね布が必須のものとして設けられているのがブリーフである。もっと言えば、いま律の背中で世界を恋に陥れんと声を上げる中寉がどうやらとてもしばしば湿っぽく汚して黄ばませているのがこの部分である。

 そこに、くっきりと先鋭的な欲が顕れている。キスと、緩やかなハグ、そしてほんの少しなぞっただけで、もう律を愛する・律の愛する・律だけの・お姫様としての思いが止まらなくなっている。

 どんなことがあったっていいや。生きていればそれでいいや。……中寉が叫んでいる。音以上の震動が伝わってくるのは、彼の声に煽られたオーディエンスが跳ねるからだろう。命の欠片を身体のどこでもいいけれどどこかしらから解き放ちたいと思ってしまうからだろう、そういう気持ちを止められないからだろう。

「似合ってんじゃん。これからもさ、お前の穿きたいもん穿けばいいや」

 右手で前髪を上げる。悪い形、とは言わない、でもどっちかって言ったらやっぱり険があって、鋭い刃のようで、決して優しそうには見えない三白眼、……を揺らして、濡らして、それでも少し、微笑んで頷く。

「ブリーフ、穿いてる僕でも、興奮してくれる?」

「そうだなぁ……」

 ボクサーブリーフの矢束を見た、女性物の矢束を見た、包まれているのが矢束であるならば、そうだなぁ、褌、マンキニ、紐でもレジ袋でも何でもいいや。本人が穿いて楽しいなら、興奮するなら、そういう矢束は大概可愛いので、可愛がらずにはいられなくなるに決まっている。

 柔和な印象の生地越しに熱くて硬いものに触れる。矢束は敏感に腰を揺らしながらも、引くことはしない。スカートの裾を握って、声を殺す努力も放棄した。世界は今、「ヴェル・デ・ラ・ビット」に夢中、だけど俺たちはいまお互いのことにだけ集中。

「どんだけ興奮してんだよ」

 意地悪を言いながらも、窮屈そうに見えるのは不憫で、とっとと解放してやりたい気持ちも催す。こんなにかっちりとメイドさんの服を着て、清楚な印象を振り撒きながら、下着で自身の男であることを密やかに主張して過ごした二日間、矢束蒼を男として愛してやらないままこの祭を終えてしまう訳にはいかない。どうやら当人に自覚はなさそうだが、生地の少し湿っぽい窓を割り開いて、閉じ籠められていた情熱を解放して外気に触れさせてやる。果肉を濡らして反り返る欲の細幹を晒すことで、矢束の気持ちが一層昂るのが律には判った。

 まだ互いにパートナーとは言えなかった頃に猪熊沼の外周で脱がせた時も興奮していた。外の風に乗って「ヴェル・デ」の音が生で飛び込んで来た。

「なあ、お前はちゃんと観てろよ、あいつら。あとで中寉が『見てくんなかった』ってヘソ曲げてまた床で手足バタバタさせるかもしんねーだろ」

「そっ……、そんなの……」

「あいつのパートナーはそういうあいつ見て『可愛いな』って思うのかも知れないけど、俺は思わんわ」

 それよりも、淫らなブリーフメイドさんの方がずっと可愛い。壁に背中を委ねたまま、矢束の尻を持ち上げる。たくさんのオーディエンスを前にして、まさか中寉たちもこちらのことばかりを気にしているはずもあるまいが、さっきのキスの続きをしていると気付かれるかもしれない。

 矢束のプリーツスカートが降った。律はその幕の中に閉じ籠り、体温を吸ったブリーフの双臀を存分に揉みしだきながら矢束の雄の欲を頬張る。矢束は両手で窓桟に掴まりながら、声を堪え、表情を抑え──なくとも、顔の半分はどうせ見えないのだけど──て、……別に声は出せばいいじゃん、どうせ誰にも聴こえない、俺だけは聴きたい。

「……ッンっ、んぅ、……っあ……、あ……!」

 三摩律にだけは、中寉よりもいい声だと思わせる声が、窓桟にしがみつきながら無意識のうちに自ら腰を振る矢束の唇から漏れ出した。律の舌へ幾度も空撃ちの震えを伝え、愛と欲ゆえに滲んで止まらぬ潮蜜の味をもたらす。律は男のそれとしては至上の柔らかさを持つ矢束の桃肉をブリーフの滑らかな肌触りと共に愉しみながら、矢束の概念上の子宮が矛盾の震えを堪えることを諦めて、アヌスのひくつきを伝えてくることをもいとおしく感じていた。

「み……っ、ゅま、くっ……い、っきそ……、いっ……ンぁっ、ひ、ひたっ、ひょんな動かひゅっ、ンっ、んんッ!」

 やっぱりこいつの声は可愛い。男の声なのだけど、そんなに極端に高いわけでもないのだけれど、好きだ。なお、カラオケに行って知ったが、音痴である。でもそれも含めて好きだ。

 矢束の達することを待っていたわけでもなかろうが、また曲が止まる。中寉と大月のアンニュイなMCの間に、ずるずると律の胸腹と通過して腿に落ちた矢束の前髪をまた上げて、濡れた目を見る。目元がピンク色に染まっているのが、中寉よりもずっと性的だ。

「早過ぎだろ」

 キスは嫌がるだろうなと配慮を働かせた律なのに、矢束は構わず唇を重ねてきた。

「ひょん、なのっ、あんなぁ、ひた、めひゃめひゃ動かひゅんだもんっ……、おひっこチビるかと思ったぁ……!」

「っつーか、チビってたろ。しょっぱかったし。さっきのキスでチビったんだろ。中寉みたくなってんじゃねーか」

 律も失礼であるが、

「……中寉先輩みたいなのはやだぁ……」

 こいつも、本当に大概である。

「別に臭くもねーし不味くもねーな」

「それは三摩くんがヘンタイだからだよね! 僕のは絶対臭いから!」

「あいつらのよりマシだろうと思うけどな」

「そんなことないよ先輩たちのはきっとシトラスのにおいだよ」

「だとしたらあいつらなんかの病気だろ」

 だけどこういうところも含めていいと言う。甘いばかりではない、矢束自身の唾液で薄められてもなお舌に残る味も含めて、愛すると言う。

 矢束は突っ張ったストッキングを挟んで律の腰に跨がり、未だ自分の欲の収まっていないことを伝えるために改めてスカートを捲って見せた。のみならず、自身の足の間を律の熱に押し当てて刺激する。絡んだ舌を伝って、声にならない声で求めてくる淫らさを、可愛いと、柊だけは言う。

「なに。欲しいのかよ」

「みふまくんらって欲しいでしょ……、僕のぉ……、呑んで、興奮ひてるんだ、……三摩くんは、さいしょっから、ずっと、ヘンタイだ……」

 寧ろ、それがよかったのかもしれないな、なんて思う。律が変態だったから、矢束にとってたまらなく刺激的だったから、そして、最低限の要件は問題なく満たしていたから、……はじめて付き合う同い歳のパートナーをレ点で埋めて、いまこうして、安心して変態に相応しい淫乱ぶりを隠さず披露してくれるのだ。

 新しい曲が始まった、……「ヴェル・デ」の曲はもう全部聴いたが、馴染みのないイントロだ。新曲かもしれない。

「言って……、三摩くん、聴かせて、三摩くんの声、……僕を欲しがってくれる……? 僕に、挿れたいって思う……? 僕で、イキたい……? 僕のことだけ考えて、僕を、抱きたい……?」

 煽るように律の頬を舐めるという淫らさを存分に発揮しながら、縋るように抱き着く気弱さ。矢束蒼の全部をまだ知ったわけではないけれど、この男にまだ、まだまだ奥があるという事実を律は祝福したい。死ぬまでに全部、全部、全部全部全部見ないといけない。時間なんて幾らあっても足りない。

「ヴィヴィッドにまばゆく光る時間をギラギラと欲でどぎつく彩って」

 ちょうどよく中寉が紡いだ言葉に倣って今この瞬間だって貴重な一秒。

「欲しいよ。挿れたいよ、お前でイキたいよ。お前のことだけ考えて、お前を抱いて、ぎゅうぎゅうにして、そんでもまだ隙間があんならそこに他の色んなこと詰め込んで生きていくさ、死ぬまで」

 下品な詩人になって。一応は文学の体を成す程度、……一応でいい、スカート捲ってブリーフ下ろして、湧いて湧いて止まらない唾液で濡らしただけの指でも待ちわびていた矢束の入口は歓迎してくれる。窓桟に身を委ねて、音を浴びて、律の指に引きずられて突き出すように高く上がっては深く沈み込み、肌にびりびり痺れるような震えを伝わせる矢束は音楽で言えばオルタナティヴロックであり文学ならば純文学のとっちらかった散文だ、この味を理解できるのは俺だけだと学部生特有の唯我独尊に思い切り酔い痴れた末に、視線の先、立て続けに二曲目の新曲、凄まじいカッティング、六つ縦に連なった音符を一小節に十五個つまり黒い丸の数で言えば幾つだと暗算の出来ないタイミングでばら蒔く大月の音に彼の言葉の通りボコボコにされながら、今日も、当たり前のように、だって、もう当たり前になっているので、矢束と一つになる。これが自然な形だと、女装してブリーフを穿いた矢束のありのまま、現時点で完璧昨日も完璧だったし明日も完璧なのだと矢束蒼の一秒を一瞬を、残らず律は食べてしまう。小さな見た目で案外肉厚さを感じさせる締め付けに呑み込まれて、なかなか華奢さが解消されない背中に胸を当てて、金の貯まらなそうな小さな耳を食む。

「お前が好きだよ、お前は、男だろうが何だろうが、俺にとって一番……、一番可愛くて、なぁ……、『お姫様』なんだよ、矢束、お前だけ、……お前だけ、俺の『お姫様』なんだよ」

 一晩でも溜めておいたら気の狂うレベルで暴れる焦熱を注ぎ込む相手は金輪際お前だけだ。

 そもそも、俺をここまで狂わせる人間なんて、……いきもの全体レベルで考えたって、他にいるもんかよ。蕭の笛が爪の形になって切り裂く、大月のギターと蒔田のキーボードが腹底から拳か頭突きで突き上げてくる、そして中寉の声は堕天使の骨張った羽で何度も何度も何度も何度も引っ叩いて来やがるのだ、あいつらすげえな、でも、お前が一番すごいんだよ、俺にとって一番すごいっていう、そんだけで。

「っい、してる、……愛してるっ、愛してるっ……、三摩く、ッンっ、愛してるッ」

 すっかり暮れた空の、だから膨らむステージの光の端ッこで、律が衝く度に矢束が上げる声も、二人の身体が重なる度に弾ける音も、まばたきの間に消えてしまう、夏ならぬ秋の夜の、うたかたの夢。

 ああそんなことあったなぁ、いつかそう思い出す日にも二人一緒なら、似たようなことをまたどこかでやるのだ、他のどんな恋人たちと変わらぬように。

 マジでその日までその日から先も何度だって甦る時間を、青春と呼ぶ。

 不幸な禍にひとたび塞がれようとも、あらゆるいきものに在って然るべき時間をそう呼ぶ。

 ……のだと思いながら、矢束の刻むスタッカートに屈するように注ぎ込む時、ステージの上ではアンコールを待たずに中寉が丁寧にお辞儀をしている。最後にひらひら、窓辺に重なった律と矢束に向けて手を振る。

 真っ赤になって左腕で顔を覆う矢束の右手を取って、バイバイ、ありがとうございましたよ、と律も手を振り返した。

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君の王子様になりたくない 415.315.156 @yoiko_saiko_ichikoro

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