ドランカー

 中寉と蒔田から受け取った「報酬」は二万円。

 律にとっても矢束にとっても普段持ち慣れぬ大金であった。とりあえず飯食うかと駅の周りを彷徨いてはみるが、空腹を覚えているわりには食指が動く店がない。

「三摩くん何か食べたいものないの」

「なんでもいい……、ぶっちゃけ牛丼でもラーメンでも」

 ただ、居酒屋は避けようと思っていた。

 やらかした翌日で矢束も酒を呑みたいとは言わないだろう。寧ろ、トラウマになってもう酒が嫌いになってしまうのではないかと。

 しかし、彼の目はガード下の赤提灯に向いていた。チェーンの居酒屋ではなくて、何十年もここに根を生やして、酒と焼きとんだけでやって来ました! といった見た目の古ぼけた店である。

「ああいうとこは、甘いのないかなあ」

 矢束が一人で入れる系統の店ではない。律でも単独で入るとなると、ちょっと勇気がいる。何となく及び腰になりつつも、陽が暮れて間もないのに早くも賑わっている店に入って二人してきょろきょろしていたら、愛想のいいおばちゃんがテーブル席に案内してくれた。

「レモンサワーっていうのは、酸っぱいの?」

「焼酎の入ったレモンスカッシュみたいなもんだよ」

「なんか、昨日先輩たちみんな呑んでた」

 その中で一人、「可愛い可愛い」言われながらカルーアミルクを呑んでいたのが矢束である。

「呑みきれなかったら俺が貰う」

 安心した様子で頷き、あとのオーダーは律任せ。換気はされているのだろうけれど、炭焼きの煙がもうもうとしている中に入れば、茶色く変色した壁の短冊の端から順に頼んでいきたくなってしまう。かろうじてどういうものか判っているのはレバとタンぐらいで、ハツとかテッポウとか、ツルというのは何だろうか。中寉がどうしても頭に浮かぶ。それからクイックメニューのもやしのナムルと冷やしトマト、野菜もきちんと摂りましょう。

 飲み物はすぐに届いた。

「まあ……、お疲れ」

「うん……」

 グラスを当て合うときには、早くもナムルとトマトも。

 あの男児二人が入ってきてしまったので、露天風呂での会話はあそこで止まった。矢束は弟くんの方から絶対に自分のものを隠さなければいけなかったし、囮として隠さずに立ち上がった律は「兄ちゃん、このお兄ちゃんのおちんちん毛がボーボーだよ! 毛がボーボー!」と弟くんに指を差される羽目になった。やかましいやそこまで毛深くないわいと憮然としたが、隣の矢束がつるつるなので自分の下半身がなんともむさ苦しい印象となることは避けられないのだった。

 付き合ってるの。

 そうですが何か。

 矢束の意見はそこにはなかった。あくまで律がそう思っているというだけ。

「……呑めそう?」

 レモンサワーの酸っぱさにきゅっと唇を尖らせた矢束だが、こくんと頷く。

 お前はどうなん、訊く言葉を、まだ向けていない。

 どっちだっていいや、という大雑把な感情もないではない。セックスフレンドのままでも「付き合ってる」と言うことは出来るかもしれないではないか。それならば双方の同意が要るものとも思わない。矢束が嫌と思ったならば、距離を置けばいいだけのこと。

 どのみち、前にも後ろにも他の客がいる中でそういう話は出来ないことは明らかだった。

「お前、学園祭マジで、えー……、あの、例のあれ、やんのか」

 中ジョッキを半分まで空にして訊いた律に、少しほっとしたような顔になって矢束が頷く。

「正直、最初はどうしようって思った。でも、……うん、いまは、やりたいって気持ちが強くなってる」

「それは、あれを着たいってこと?」

 少しだけ笑って、

「……僕、いま二十歳なんだよね」

 矢束は言った。そう広くないテーブルに、串物が届き始めた。それぞれ二本ずつ、味はおまかせ。シロは、ああこれのこと「シロ」って言うのか、タレがちょっと焦げて香ばしく、反り返った枕みたいな形の、たぶん大腸だ。判りやすいホルモンである。レバはもちろん肝臓で、こちらは塩。噛んでみると、中はしっとりと柔らかい。生臭さやパサパサ感はなくて、苦手な人でも美味しく食べられそうだ。

「二十歳ってことは、……あと何年かしたら僕は、ああいうの絶対着れなくなっちゃう」

「蒔田は二十三だ」

「蒔田先輩は、だってあの人は特別だよ、あんなに綺麗なんだもん、ああいう人がああいう服を着るのは誰にも迷惑なんて掛からない、もっと言っちゃえば、公共の福祉かもしれない」

「世のため人のため?」

「うん。中寉先輩も。『ヴェル・デ・ラ・ビット』の人たちは、みんな可愛かったり綺麗だったりで、……写真見たでしょ? ああいう格好してても滑稽な感じはぜんぜんしないんだ」

 それに関しては同意できる。蒔田は美しい、そして中寉も。一番「似合っていない」と思われる結人には、それはそれで妙な愛嬌というか、可愛いげがあった。もう一人、蒔田の中国語の師匠という人は、一番背が高くて腰までのストレートヘア。男なのに、どこかしら妖艶さが漂っていて、一番女性的であるとさえ言えるかも知れない。

 自分は彼らとは違うと、矢束は言う。

「お前も、あいつらと大差ないよ」

 ジョッキを持ち上げて、ぐびりと呑んで、そっと視線を向けると矢束はレモンサワーのグラスを両手で持って口を開けていた。

 もうあと何年かしたら、似合わなくなってしまう。叶えるタイミングはいましかないと、言うなれば追い詰められて矢束はメイド服を着ることを選んだ。千載一遇の機会とでも呼ぶべき、学園祭で。

 しかし、律は、全く別な意見を持っている。

「お前はたぶん、いまの蒔田とか、あと、他の二人、……二十七って言ってたっけ、あいつらぐらいになっても、着たいときに来て、誰かの迷惑になるなんてことない。……っつーか、人が着たい服着てんの見て誰かが不快になるとかそっちの方がおかしいだろ」

 そう言う律自身は、着るものにたいした拘りもないのだが。今日だってTシャツとジーンズである。……まあ、蒔田とそういうシーンがあるのかもしれない、全くないとも言い切れない、などと浅はかなことを考えていたものだから、下着と靴下は下ろしてまだ間もないものを選んだけれど。

「少なくとも、俺は嗤わない。いいよ、お前がおっさんになっても『今日これ着たい』つってそういうの持ってきても、どうぞって言うよ。そんでもし似合わないと思ったらそれも言うし」

 まだ、実際に着ている姿を見たことはない。矢束のタンスには、女物の下着は入ってはいたけれど、服は一着もないのだ。それでも容易に想像することが出来たのは、この男のメイド服姿は他の誰がどう見ようと、三摩律という男の目にはきっと、大層萌えるものであろうということ。

「当日、下、どれ穿く?」

「え」

「下っていうか、中」

 律はそこで久しぶりに笑った。

「捲られるかも知れないぞ」

「そっ……、そんなことする人来ないよ、だってたぶん、来るの女子ばっかりだよ」

 お目当てが「王子様」だからそれもそうか。言うまでもなく、女が男の穿いているスカートを捲るのは、男が女にするのと同じく犯罪である。

「あのピンクのにしたら。リボンが付いてるやつ。あれが一番可愛いだろ」

 矢束の頬が紅く染まるのは、レモンサワーだけのせいではないだろう。

「……三摩くんがそう言うなら、そうする……」

「まあ、新しいの買ってもいいだろうけど」

 矢束はぐっと顎を引いて、きっと髪の向こうから精一杯虚勢を張った目で律を睨んで言うのだ。

「……じゃあ、三摩くんが選んでよ。僕、その日、それ穿くから」

 公共の場でなかったら、その頭をごしごしと撫ぜてやったっていい。いまの一連の会話が、律の求めた答えの全てだった。

 ツル、なる部位が届いた。筒状の部位で、塩。どんなもんだろうかとかじってみると、淡白で、こりこりと筋肉質である。

「僕が……、あのね、僕が学園祭であれ着るって決めたのって、……もちろん、その、僕が着たい、着てみたい、一度だけでいいからって思ったのもあるんだけど……、なんだろこれ、美味しいね」

 矢束はどうやらこういう歯応えのある部位が好きであるらしい。追加しようと思ったが、すぐ近くのカウンターで「ツルある?」とオーダーした客が「すいませんもうおしまいです」と断られていた。どうやら稀少な部位であったようで、ありつけたのは幸運なことだったらしい。それにしても、どこの部位だったんだろう? スマートフォンで検索をかけて見て、……矢束には言わないでおこうと思った。彼は律の動揺には気付かず、ツルをぺろりと平らげて、

「三摩くんに、……その、三摩くんにね、やって欲しいと思って……」

 こんな場所でタイミングでそんなラディカルなこと言っちゃうのか、と一瞬律を驚かせた。そうではないとすぐに気付いたが。

「やるって、まさか」

「うん、……王子様」

「馬鹿言え」

 それに関しては却下である、どうしたって無理である。あんな、歯の浮くような言い回しを、馬鹿みたいな王冠を被って、この俺が?

 矢束は冗談を言っている顔ではなかった。

「中寉先輩が今朝言ってたんだ。『三摩くんは王子様部に入ってはくれないものでしょうか』って」

 皐醒と二人で話していたのです。三摩くんは言葉遣いは粗っぽいですけど、とても男らしいですし、清潔感もあります。

「……清潔感」

「あるよ」

「……あるだろ、普通は」

 しかるに、矢束が言うにはそうでもないらしい。いや、中寉と蒔田のブリーフが黄ばんでいたという話ではなくて、

「僕が、じゃなくてね、一般的に『いいな』って思われる男の人の、一番大事なポイントって清潔感があるかどうかなんだよ。顔がいいっていうのは、その人の顔が、ちゃんと毎日出掛ける前に顔洗って、髭剃ってるか整えてるかとか、そういうこと。人間はさ、不潔にしてると病気するから、本能的に清潔な人に対して好感を持つように出来てる。『王子様』たちは、あの二人なんか特にそうだけど、みんなすごく清潔だった。モテない人って、そういうの気にしないから、素材がよかったとしても何となくやっぱりちょっと、嫌な感じする」

「そういうもんなの」

「うん。僕も、……その、ええと、そういう出会いの場でね、選り好み出来る立場かっていうのはちょっと置いといて、でもやっぱり、清潔感のない人は嫌だって、最初行くとき、それだけはしっかり決めてた。ほら、その……、リスクもある気がしたし」

 これは、あくまで矢束蒼という一人のバイセクシャルの意見ではある。

 しかし言われてみると、毎朝出掛ける前にシャワーを浴びて髭を剃り歯を磨き、しっかり陽に当てて乾いたシャツを着て制汗剤を使ってから家を出る。帰ってきたらやっぱりシャワーを浴びるなり入浴するなりして、もちろん休みの日にはしっかり洗濯をして……、という律にとっては当たり前のルーティーンの一つが欠ければ、途端に矢束の及第点を満たすことは出来なくなってしまっていたことだろう。

「でも、お前が初めて見た俺って汗だくだったろ」

「だけど、ぜんぜん汗臭くなかった。いかにも洗い立てって感じの真っ白なタオル持ってた」

「何枚も持ってるけども」

「僕最初、この人実家暮らしなのかなって思ったんだ。親御さんがそういうの全部やってくれるのかなって。でも、独り暮らしだって聴いて、じゃあ、自分でやってるんだ、ちゃんとした人なんだって思って。だから、いいなって思って……。三摩くんのおうち、このあいだ行ったでしょ、ジョギングのあと。思ってた通りの部屋だった」

「どうせお前のとこに比べたら狭い部屋だよ」

「狭さは感じなかった。しっかり片付いてて、雨の後だったのに部屋の空気はすっきりしてて、台所も、お風呂もね。この人すごく丁寧にお掃除するんだろうなって。三摩くんって、家庭科の成績よかったでしょ」

 まあ、いい方ではあったと思う。ただ単に、片付いていた方がいいと思ってやっていることだし、そうすることが苦にならないタイプでもある。

「三摩くんには当たり前のことかもしれないけど、それってすごく大事なことだよ」

 まだ矢束のグラスには半分以上レモンサワーが入っていたが、酒が回っているせいだろう、彼の舌は滑らかになっていた。

 昨日の失態で、矢束が酒を呑むことを嫌いにならなくてよかったと思う。矢束がまだ少し不馴れに、グラスからちびりと舐めるその唇を見るのが、どうやら好きであるらしい自分に律は気付いていた。ちょっと臆病に、でも行儀よく、少しずつ呑む姿のどこがいいのかと言えば、それが上品に映るからかもしれない。

 そもそもの話として、この男とああした時間を過ごすことが出来たのは、律が思っていたよりもずっと、この男の肌が美しく清らかなものであったからではないか。その肌の、どうしたって汚れる場所さえ口にすることが出来てしまったのは、懸念していたほど臭くなかったからではなかったか。

 清潔感、なるほど。じっくり考えると納得の行く話ではあった。清潔にしているという相互了解あればこそ、眉を顰められるような遊び方もできるのだ。

「だからね、きっと三摩くん『王子様』向いてるんだよ」

 その結論については納得行かないが。

 律がたくさんのチェックボックスを埋めていったように、矢束も同じことをしたのだ。大前提として清潔かどうかという箱が埋まったところから、三摩律と肌を重ねたいと思い始めた。いったいどれぐらいの率で埋めることが出来ただろう? 埋まっていないものがあるとしたら、どんなところ?

 訊いてみたいような、怖くて訊けないような……。

「……みんな、『王子様』の原石なのかも知れないよね」

 矢束は、少し酔いの回って潤んだ目で言う。

「それを研いで磨いて、輝かせてるのが『王子様』なんだよ。僕はちっちゃい石で、自分でそれを磨くこともしなかったから、逆立ちしたって『王子様』にはもうなれないけど、……三摩くんはきっと無意識にそれを磨いててさ、だから、自分でも知らないうちに僕の『王子様』になっちゃったんだ。すごく上手に僕のことおんぶしてくれる王子様に」

 そんなんでいいのかよ、とは思ったけれど。

 ちょっとばかり、納得がいってしまったのも事実だ。

 だって律は、どんなに美しかろうと蒔田と中寉には勃たない。そして、まだ無数この世にいる女にも、律は魅力を感じなくなってしまっている。

 王子様にはなれなかった矢束は、世界にたった一人のお姫様になってしまったのだ……。

「……このあと、三摩くんどうする?」

「どうするって?」

「おうち帰って、走る?」

 まだ七時を回ったところだ。野菜と串物と、追加で頼んだ煮込みである程度腹は満ちている。しかし、足りないものがあるとすれば。

 もし同じものを、矢束が求めているのだとすれば。

「お前明日二限だっけ?」

 律は一限からである。まだ一つも穴を開けていない文学論の講義である。

「……休んじゃってもいいかなって」

 言葉の裏に心が折り合う。たぶん、いくつか穴はあろうけれど、矢束蒼を埋められるのは三摩律しかいないという結論は、もう変わらない。

「……どこ行きたい」

 少し、宙を見上げて、矢束は微笑んだ。

「どこでもいいよ。三摩くんがおんぶして連れて行ってよ」

「走るの無理なんだからせめて歩け」

「やだ。三摩くんがおんぶしてくれないと歩けない」

 だったら、何処へ連れて行ったって文句は言わせない。店内では迷惑になるからと、支払いを済ませるまでは大人しくしていた矢束は、店を出るなり律の背中に飛び乗ってきた。馬鹿な大学生二人の酔っ払いになって、初めて会った日と同じく電車に乗って、さあ、どこへ連れて行こう。

 こいつの膀胱が平気なうちに辿り着ける、二人きりの場所を目指そう。

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