アーユーレディ

 今夜は律に会えないと思っていたのだろう。独りの夜を超えることになると思って、でも律に言われたことを彼なりに受け止めて、彼にとってはとてもハードな運動をしようと試みた。想像するに、その心を後押しすることが、明確に女物の下着を穿くことと繋がっているのだ。

 背中を向けた矢束の身体を後ろから抱き締めてみる。貧弱だけど、締まりのない身体である。肩越しに見下ろしたところには、男としての膨らみを帯びながら、色と形はまるっきり女の、……ピンク色をして、でも極端に性的というわけでもなく機能本位な印象のショーツが見える。

 笑いが込み上げることはなかった。

「……興奮してる?」

 矢束は答えない。仮にする、と答えられたとしても、律はそれをおかしいとは思わないし、彼がきっと、それを穿いている姿に望む評価が貰える可能性がゼロではないことを願っていることを想像することも出来た。

「俺は、嗤わないから」

 結論はすんなり出た。

「着たい服着ろよ。……別にな、自信持てとかは思わないけども、俺は普通に、……今日も中寉見たし、あと蒔田はメイド服だった、……まあ女っぽい面だと思ったよ、だけど、お前はあいつらより可愛いし」

 目付きが悪いのも、愛嬌だろうと思うのだ。これはルッキズムではあろう、と自己判断した上で律は思う。

「でも……、でもさぁ……」

 尿意と戦いながらではある、微かに震え、腰を落ち着きなくくねらせているところに関しては、滑稽であると見るべきだろうか?

 滑稽でないエロスというものを、律は一個も思い付かなかった。時間を掛ければ幾つか挙げることも出来ようが、反射的には本当に一個も。

「三摩くん、こんなの、見たって、嬉しくないでしょ、勃たないでしょ……」

「俺が勃つために穿いてんじゃねーだろ」

「それは、そう、そうだけどっ」

「お前が穿きたいって思って穿いてんだから、そこから先って要るのか? あと言っとくと、普通に勃ってるけど」

「えっ」

 ハーフパンツの前部で場違いであるのみならず悪趣味であるとの誹りを避けられない自己主張をしている熱源を、矢束のピンク色の尻に押し付けて伝えた瞬間、矢束の意識に空白が生じた。

「……っあ!」

 限界を超えて、ほとんどもう、表面張力に等しいぎりぎりで保たれていたらしい矢束の下腹部の器が揺れて、下着にぽつりと滲みた。成人した男性が彼自身の尿で下着を濡らすところは初めて見た。いや、そういう条件付きの検索しなくとも、三摩律の人生で人の失禁を見た経験などごく僅かであるが、それを見て居た堪れない気持ちになるならいざ知らず、……興奮したことなど。

 矢束の、汗の味の耳を噛んだ。ようやくのことで矢束が自身の蛇口を外に出して、その時点でもう、誰かに見られたら「痴漢」となる二人組と化して道の真ん中に水溜りを作る。最後に立ちションしたのいつ? 俺は先月、もうちょっと行った先で、人来ねえよなって確認してから、……さすがにさぁ、道の真ん中ではやんねーよ、まだそんとき十時半とかだったし。ちょっと道から逸れてさ、茂みに入ってから。男だからね、まあ、準備に五秒、出すのに十五秒、後始末も大雑把に五秒、茂みに入って出てくる時間も合わせて一分もあればじゅうぶん。

 んで、出てったらさぁ、……さっきまでだーれもいなかったのに、そういうときに限って前からと後ろから人来んの、中年夫婦と、若い大学生の女の子二人組。

 先月から立て看板の枚数増えたの、俺のせいかもしれんよね……。

「お前の身体から出るもんって、あんま臭くないんだよな」

 くしゅくしゅと髪を撫ぜて、額にキスをして、まだ出しっぱなしのものにも、軽めのものではあるけれど腰を屈めて。ぴく、と震えた矢束は恥ずかしさで真っ赤になっている。

「お前ぐらい動かんやつの汗はわりとスパイシーなもんだと思ってたけど。血が綺麗なんだろうな」

 もっとゆっくり観察したいけれど、自分も尿意を抱えている身である。勃ち上がったそれに、湿った夜の草いきれが心地いい。律の男の反応を目にして、少し傷を負っていたのかも知れない矢束の心に火が点る。どうせ元から汗でびっしょりだったんだし、家まで歩いてるうちに目立たなくなるよと言ってやる必要はどうやらなさそうだ。

「外なのに……」

「なー、外なのになぁ。お前が外なのにエロいとこ見せるからだよ」

「エロい……」

「全体的にだいぶ」

 男同士であるから、鋭い硬さを帯びてしまったそれを単純な「泌尿器」として取り扱うことがどれほど難しいか、矢束にも解っているに違いなかった。この身体に生まれて二十年、いまだに朝のトイレで難渋することしばしばである。とはいえ、男が男の身体で味わう労苦なんて、他はいずれもどうということもない。立ちションが出来るアドバンテージだけでお釣りが来る。

「先に、……三摩くん、抜く……?」

 そう表現するのはもう時代遅れだけど敢えてそうするならば、「女子みたいな」色の「女子が穿くべき」形の下着から零れた矢束の男の証はもう完全に上を向いているのだ。矢束がインターネットで購入しているというそうした下着を、明確に性的な理由を携えて矢束が店頭購入しない理由は別に賢くなかろうとも判るけれど、女性のお客はどんな顔して見るだろう? やっぱり忌避の視線を向けられてしまうものだろうか。そうだよな、しょうがねーよな、上手くいかんよな……。

 女装して買いに行ったらどうだろう? それで通報されたなら、通報する方が悪い気がする。どんなパンツを穿くのも自由だろうし、どんな理由で穿くのも自由である。ただ、矢束自身がそれをしたがるかというと別の話ではあろう。

「抜いてくれんの? まだいいよ、フェラされてる最中に口の中で漏らしちゃうと思うから」

 矢束が跪いた。彼は律のそれを口にすることに、ほとんど何の抵抗もないらしかった。彼の「蛇口」その他がこうした行為を経て病んだことは幸いにしてない(彼は律が初めて泊まりに行った日に、わざわざ診断書まで見せてくれたのだ。俺はどうなんだろ、とかえってそちらを心配したくなった律だった)ようだが、してみると、ここまで過激なことをするのは律が初めてなのかも知れない。

「……出そう」

 早漏な方だと告げてある。けれど、これはそうではない。強張った肉に挟まれて細まった尿道を込み上げた液体がその口の中を満たすのが判る。

 喉が渇いていたのだろう。矢束はごくすんなりと、驚くべきスムーズさでそれを飲んでいく。もちろん律も無遠慮な勢いで解き放つような真似はしない。……何をやってんだろうな、わざわざお互いに苦しい思いまでして。

 それでも、また幾つかのレ点を打ったことで、次のフェーズに移ってしまったような気がする。汗で少しべたつくことが解っていながら、律は何度も矢束の髪を撫ぜていた。こいつの目付きが悪く見えるのは、切れ味鋭い形をしているのみならず、三白眼であるせいだな……。その目にじっと見上げられながら放尿を終えてももう、それだけでは収まらないほどの欲が律の身の中でのたうっていた。

 お前はあいつらより可愛いし。

 自分の言ったことを反芻する。

 逆に、お前より可愛いのってどんなやつだ。それは、男なのかそれとも女なのか。

 そういう物差しを俺は持ってきて、「あ、矢束より可愛い」と思った相手がいたとして、それでどうするのか。

「おしまい……?」

「なんでちょっと残念そうなんだよ」

「うん……、美味しかったから」

 目の隠れる普段の髪型は、彼の存在感を薄める。こうして前髪を上げると、たちまち彼の望まない形で目立つことになってしまうのではないか。きっと、「可愛い」という評価を彼は貰えない、……貰えたためしがないのではあるまいか。どうして? こんなに可愛いのに。

 ではどうして? 俺はこいつがこんなに可愛く見える?

「……続き、してもいい……?」

「外なのに? 俺に痴漢するつもりか?」

「二人でなればいいじゃん……」

 立ち上がった矢束の下着から覗く熱と律の熱とが触れ合った。

「めちゃくちゃだよ、こんなの。僕、自分がこういうパンツ穿いてるの、誰にも共感なんてしてもらえなくていいって思ってた」

「前の彼氏は興奮しなかった?」

「……別れるって言われたのこれが原因だよ。こういうの嫌いな人もいるし、だから三摩くんに見せるの、怖かった。……自覚ないんだろうけどね、三摩くんは普通じゃないんだよ、めちゃくちゃ変態なんだね」

 もう「変態」は言われ慣れてしまった。

「『変態』と一緒にいるのは楽しいか?」

「えー……?」

 誰かが向こうから来たなら、女性ものの下着から尻を半分はみ出させているのが丸見えになる。何なら、全部見せてやろうと手を回して下ろした。些細なことでも、矢束の心の動きがそのまま脈動として伝わってくるのは、律にとって快かった。

「どうしよう……、楽しいのかな、ドキドキはしてる。いけないって解ってるのにさ、僕野外露出なんてしたことないよ」

「言っとくけど俺だってねーからな」

 信じていない顔だった。

「どうするよ」

「ゴムない」

「じゃなくて……、お前だって変態じゃねーかやる気満々なんじゃねーか」

「違っ……、三摩くんがそのまんまじゃ帰れないでしょ、挿れたいとか言ってくるんじゃないかと思ってっ」

 ゴムを持っていたら、間違いなく言っていた。

その辺りはまだ、「三摩くん」は「『非常識』って」言われたことがないので、言わないのであるが。

「……おんぶして家まで連れて行ってやろうか」

 矢束は一瞬、ぱっと目を輝かせたが、すぐに冷静さを取り戻す。

「運動の意味ないし、……あと、背中で擦れて、いっちゃうと思うし」

 はぁ……、と溜息を吐いて、「明日は、ゴム持って来ようね」と矢束は言って、シャツを捲り上げる。凹凸の少ない白い肌を、常夜灯の光がぼんやりと舐めた。

 胸から膝まで矢束は裸である。星は見えないけれどもう雲間から宇宙からの除く夜の底に、律も彼に裸を見せている。端的に言えば矢束も律も変態として存在しているのだった。どちらがどれぐらいマシということもなく、どう足掻こうとも変態にしか見えないお揃いの身体としているのだった。

「先にいかせてやろうか」

「えーやだ……、三摩くんこそお先にどうぞ」

 どっちも、達した後には「うっわーすげぇ馬鹿なことやった」と思うことを知っているのだ。双方ともに相当勝手、それならと、抱き寄せられることを矢束は待っていたようだ。矢束の手が律に絡んだ。当たり前のようにそうする矢束を、例えば可憐であると言えばいいか。目つきの悪い、中途半端というか端っこだけ女装した男である矢束蒼は、律の肉を手のひらで愛しながら、「キスしたい」と訊いて来た、……わざわざなんでだ、ああそうか、俺の呑んだからか。唇で答えてやったら、律が手のひらに包み込んだ熱が嬉しそうに弾んだ。

「……三摩くん、もう濡れてるんだぁ……、外、興奮する……?」

 濡れていて当然ではないか、短い時間とは言えお前の口の中にあったんだ。

「明日、ほんとにゴム持って来ようね……? 明日はここで最後までしよ……」

「……全裸になんの?」

「なって欲しい……?」

 矢束は、多分、本当に可愛い。

 中寉も可愛いのだ、蒔田も可愛いのだろう。中寉はどうか判らないが、女装していた蒔田は「可愛い」という評価を、きっと肯定的に受け止められるのだろうと想像するし、だから、「あんた可愛いですね」とでも言ってやればよかった。

「そうだな、……そういう下着穿いててもいいし、すっぽんぽんでもいい……」

 けれど、矢束はもっと可愛いと律は思う。

 男ではある、目付きも悪い、律より悪い。でも、レ点で埋まった四角い箱の数はもうとうに、どんな姿であれ、

「お前、可愛いから」

 という言葉で矢束蒼を評するに十分な数を満たしていた。

「……っん……」

 常夜灯が照らす夜の舞台の上で、一対になって悦びを与え合う。矢束の手が律に心地良く感じられるのは、同じだけのものを律が彼に与えることが出来ているからだろう。舌と舌とを口の外で絡め合うところで鳴るのと同じ音が、互いの指先で鳴っている。先端同士が触れ合ったところから、その場所でもキスをすることに執着した。一度でも糸で繋がったなら、もう、解けてしまうことを恐れるようになる。

 明日本当にコンドームを携えてここに来ることになるのかどうかは判らない、来られたらいいなと思うけれど、例えばまた雨が降るようなこともないとも限らないのだ。それならそれで、どちらかの部屋で、同じようにして過ごせばいい。背景がどこであれ、律はそんな明日を楽しみにしている。もうあと何分かでやって来て、そう呼ばなくなる日のことを、心から楽しみにしている。

「うぁ……、や……ばい……、三摩くん……、やばい……」

 舌に声を伝わせて、糸が切れた。また新しい糸を結ぶために、矢束の舌が律の口へ飛び込んできた。早く、と焦りを帯びて深く深く、律を追い立てる舌だ。

 とっくの昔に、俺だってやべえよ。

「矢束」

 気を付けていないと、あらぬことを口走ってしまいそうだった。だから矢束の舌に言葉を塞がれているのは、却って好都合。大袈裟な約束もしないまま、望む明日を望むままに迎えて、よく似合う変態同士として楽しい時間を過ごしていくためには、ここら辺りで矢束蒼にレ点を打っていくのもやめておくのが吉であろう。

 矢束の先端から噴き出たものが、律に絡む。律が散らしたものは、……角度的に彼がそう望んだとしか思われないのだが、腹に、胸に。

「すっごい……、三摩くん、飛ばし過ぎっ……」

 一晩会わなかっただけでこんなに良く感じられてしまうのかという事実が、少し怖い。会わない日が二つ三つと重なることだってあるだろう、全く会わなくなる日だってきっと遠からず来るだろう。だから、踏み止まれるところにいなければいけないことは瞭然と解っている。この男が、「王子様」と再会して、自分と居る時よりももっともっと嬉しそうに笑う顔を想像した瞬間に肺の中に零された砂が、ちくちくと痛い。

「お前だって、めちゃめちゃ濃いじゃねーかよ……、どんだけ興奮してんだ」

 律が撒いた種を指に乗せてぺろりと舐めて、「三摩くんのもめちゃ濃い」と無邪気に笑った。もう、罪を犯しているという意識は克服した様子である。

「やばいねぇ、外でしちゃった」

 その証拠に、顔はすっきりと晴れやかでさえある。

「拭くもの、タオルしかないぞ」

「あー僕タオル持って来てない。そっか、汗かくもんね、次からちゃんと持って来ないと……」

 責任を帯びて矢束の身体を拭いて、自分のものをとタオルを寄せた手を、矢束が止めた。

「僕が汚しちゃったから、綺麗にする」

 半裸のまま、再び跪いた矢束が顔を寄せる。お前それ自分のだぞいいのかよと制止することは出来なかった。

「……ほんとだ、僕のも濃い……」

 帰るんじゃねーのかよ、という言葉を呑み込んで、舌で拭われていく、……蜜の沼に首元まではまって見る夢だ。とりかえしのつかないところが何処だったのか、律にはもう判らなくなっていた。

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