アンダーザスカイ

 しかし、矢束は怒っているだろうか。バイトを終えて、もう日付の変わる十二時。いまからメールなり電話なりするのは迷惑がられるかもしれない。バイトに向かう間は王子様連中に感じた形容しがたい胡散臭さにぼんやりとした苛立ちを持て余していたし、仕事の間は仕事のことだけ考えていたが、帰り道を歩きながら矢束のことを考え始めるなり、もう雨は止んで、アスファルトの上には水溜まりも残っていないのに、どんより胸の中に雲が掛かって来るのを止められない。

 馬鹿にしたつもりはなかった。……けれど彼がそう受け止め、傷付いてしまったのならば、責められるだけのことをしたと受け止めるべきだろう。自分にとって心地よい友達、……精神的なというよりは肉体的に充足させてくれる友達を、喪いがたいと律が思うほど、矢束はそれほど重たくは思っていないかもしれない。発展場に行くぐらいの勇気は備わっているのであるし、彼を満たしてくれる相手は律以外にもきっと幾らでもいるのだ。

 三摩くん、やなこと言うからもう嫌だ。

 そう思われたのならそれっきり。計らずも王子様の正体を見つけるに至ったし、あいつに教えてやりたいという気持ちはあるけれど、学内に七人もいるのならばやがて矢束も自力で見つける日が来るだろう。中寉とは一度顔を合わせて話をしているのだから、次に学内で会ったら容易く加蔵のもとへ導かれることになるはずだ。

 部屋に帰ったら、汗ばんだウェアを脱いで、もやもやを熱いシャワーで洗い流そうと思っていたのに、荷物を置くなり財布だけ持ってまた外に出た。自分のリズムで走り出す。バイトをした日は別にランニングをサボってもいいのだけれど、明日は大学もバイトも休みであるし、心の乳酸は早いところ外へ出してしまいたい気持ちもあった。新陳代謝のためには身体を動かして血を巡らせてしまうのが一番である。

 耳にはランダム再生の音楽。よりによって、矢束が教えてくれた「ヴェル・デ・ラ・ビット」の曲が流れ始めた。

 住宅街を抜け、跨線橋を渡り、数十メートルおきに常夜灯が照らす猪熊沼沿いのサイクリングロードに出た。五キロも走って戻ってくれば、ずいぶんすっきりするはずだ。

 まだ湿気の残る夜を駆け始めて間もなく、思考が足音のリズムで揺れ始めたのを覚える。

 矢束との関係は、ごく一時的なものだということは判っていた。

 前四日で三回矢束と会い、その何倍もの回数、セックスをした。律にとっても、きっと矢束にとっても楽しい時間ではあったけれど、これから先というものを律は少しも見出だすことは出来なかったし、矢束もそれは同じだろう。律は結局のところバイセクシャルの振りをしているだけで、あるいはノンケとしては寛容なだけで、……そうでないとしたら、矢束がちょっと特殊であるというだけのことだろう。矢束以外の男、例えば中寉や蒔田は容姿としては中性的であるし、特に蒔田はメイドの格好をしていて四年生である中寉より更に年上であるということは二十三か四だろうと想像出来るのだが、計算が合わない気持ちになる。少女のような男ではあったけれど、じゃあ矢束としたようなことを彼と出来るかと問われると、明確にノーである。女っぽい男だから矢束を抱いて気持ちいいと思うのではなく、……だとしたら、何故矢束を抱けるのだろう? チェックボックスをたくさん埋めることが、矢束相手に出来たのだろう?

 律の足は煉瓦色のゴムチップを固めて走りやすい道を淡々と蹴っていた。独りである。

 日々にこの道を走っていて、一周するのにマイペースで一時間を切ったことはない。ダイエットに成功して以降は走ること自体が楽しくなっているのだが、かといってランナーとして高い目的意識を持っているわけでもないので、これ以上タイムを突き詰めようという気もない。九時に走り始めれば十時まで、それぐらいの時間なら、家族でウォーキングしたり犬の散歩をする老夫婦の姿をみとめることがある。十時に走り始めれば十一時、この時間でもまだ、体力維持のために走っている仕事上がりのオフィスワーカーらしき姿をちらほら見ることが出来る。しかしさすがに日付が変わると人はいない。走り始めて半時間、ただ孤独な足音を鳴らして走り続けた律の前方に、トイレと自動販売機の灯りが見えてきた。東西にべたっと広い猪熊沼の外周サイクリングロードにはトイレが均等に四ヶ所あり、律の走り始めた地点からこれが二つ目のトイレである。トイレのあるエリアはどこもベンチが設けられ、夜まだ浅い時間帯だとそこで一休みをしているランナーの姿を見ることが出来るが、さすがにこの時間には誰もいるまい。

 そう思い込んでいたものだから、黒い人影が存在するのを見たときには、不気味さを感じた。

 周囲には人家も少ない。大通りや繁華街からはかなりの距離もある。この道をジョギングコースに取り入れる女性は少なくないようだし、それは決して悪くない考えではあるけれど、十時を過ぎたらやめておくべきである。……警戒を促すように「チカンに注意!」の看板が一定の間隔で立っている。

 こういうとき、律は自分が痴漢の被害に遭うなどとは思わない。むしろ、あれが女の人だったら嫌だな、と思ってしまうのである。ちょうどトイレに寄っていこうかなと思っていたところでもあった。女性が独りで休んでいるそばのトイレにわざわざ入っていくのは、なんだか悪い企みごとをしているように思われるのではないか……。

 自意識過剰と言われればそれまでなのであるが。

 一月ほど前、十一時過ぎにジョギングを始めて間もなく、前方に女性らしいジョガーの姿があった。こんな時間に危ないなあ、と思うと同時に、律の中に迷いが生じた。はたして、彼女を追って抜いていいものだろうか? 後ろから駆け寄ってくる足音を聴かせてしまったら、彼女に要らぬ恐怖心を与えてしまうのではあるまいか。しかしだからといって、一定の距離を置いて付いていくのはもっとよくない。控え目に言っても変質者と疑われる可能性がある。しばらくそう悩んだ末に、結局律は右回りと定められているコースを逆に走ることにしたのである。なお四十分ほど経ってから件の人物と鉢合わせて、それが女性ではなく髪の長い、鼻下髭を蓄えた小太りのおっさんだったことが判明したし、「ちょっと君ィ、ここは右回りって決まっとるんだよまったく」と説教まで食らう羽目になった律だった。

 黒いシルエットを見て、痴漢かも知れないと恐れるのではなく、自分が痴漢と疑われることを懸念する。とはいえ、これはこういう身体で生まれてしまったから仕方のないことである。仕方ない、トイレは次のところまで我慢するか、……それともしばらく走ったらそこらへんでやっちまうか、そういう選択肢をすんなり自分で用意できるのも、律が男であるからだ。

 黒い影の方が、律に気付いた。その輪郭に、僅かながら緊張が走ったことが判った。やはり女性だったようだ。俺は断じて痴漢ではありません、決してあなたに害を与える存在ではありません、そう主張するためにベンチから距離を設けて、決してペースを落とさずに走り続けようと決めて、まさにその五メートルほど横を走り抜けようとしたときだった。

「……三摩くん?」

 黒い影が、こちらに向けて声を投じたのは。

 瞬間的に全細胞が反応した。脳からの電気信号が脊髄を駆け巡って律を立ち止まらせる。

「お前」

 矢束だった。どれぐらいの時間そこにいたのか判然としないが、汗びっしょりで、まだ息は少し早いようだ。万が一女性ジョガーが通りがかったなら、痴漢と間違われたとして何の文句も言えまい。

「お前、何でこんな時間……」

「三摩くんこそ……、今日バイトだって言ってたのに」

 矢束が立ち上がった。その手にはスポーツドリンクのペットボトルがある。走るときに邪魔になるからだろう、前髪は律同様ピンで止めて、昼間一度も腕立て伏せを出来なかったときに着ていたトレーニングウェアを汗で湿らせている。

 何か、言わなければいけないことがあったはずだ。走っている間、考える時間は山ほどあったはずなのに、愚かなことに律には何の言葉も用意することが出来なかった。もっとも、こんなところで鉢合わせるなどとは思っていなかったのだからそれも仕方のないことではあろうけれど。

「……その、走ってみようって、思って」

 矢束は、なんだかぎこちなく笑う。

「ゆっくりでも、いいから。ちょっとでも、走ったら……、それが習慣付いたらさ、腕立て伏せ出来るようになるかはわかんないけど、でも、ちょっとぐらいは体力付くかなって思って。……でも、ここまで二時間もかかっちゃった、何度も休憩して、犬連れたおじいちゃんに追い抜かされたりとかして……。くたくたになって、足痛くなってきたから、また休憩して、十分前から……」

 矢束の住む山北台に近いコースの入り口からここまで二時間というのは、驚異的な遅さである。

「……そのペースだと、お前の家に着く頃には陽が昇ってんぞ」

 こくん、頷いて、今度の微笑みははにかんでいるのだということが判った。

「お前以外にも、いたよ、腕立て一回も出来ない奴。……この間の、駅で声掛けてきたあいつ」

 双眸が見えている。だから、そこに鮮やかな驚きと、僅かばかりの喜びとが立ち上るところを、律は暗がりでももうはっきりと見抜くことができた。

「一回、肘曲げたところでお前みたいにべたんって。そのまんましばらく動かなかった。……あと、あいつ四年生だってさ」

 今度は、百パーセント純粋な驚きだった。

「嘘……、嘘でしょ? あんな……、中学生みたいな子なのに!」

「中学生は言い過ぎだろ」

「だって、だってあの子きっとおちんちんに毛ぇ生えてないよ!」

 何となく、それはそんな気もするが。

「……生えてねーのはお前も同じだろうがよ」

 律の頬は自然と笑みを形作った。「王子様部」の部室に招かれたときからずっと重たく硬くなっていたはずなのに。

「僕のは、……だって、剃ってるし。あの子……、いや先輩なのに『あの子』はダメか、あの人はまだ生えてなくって、きっと包茎なんだよ」

「そんな気もする」

 矢束の座っていた隣に腰を下ろすと、矢束も座った。

「お前すげー汗臭いな」

「三摩くんだって汗臭いよ。……でも、えー、何で? あの人、九隅大だったんだ……? トレーニングルームに来たの?」

「一昨日言った、加蔵と一緒にな。あのちっこいの、中寉って言うんだって。真ん中の中に、鳥の『鶴』の偏だけ残して『中寉』って読むんだってさ」

「変わった苗字、……は僕らもわりとそうか」

 本当に言わなければいけないことが何であったか、いまもまだ、律には判らなかったが、

「あいつら、……加蔵と中寉、『王子様』だってよ」

 それはまず伝えなければいけないことであったと思うし、きっとそれだけ伝えられればひとまずは十分であるはずだ。

 中寉がぽかんと口を開けた。

「他にも、『王子様』がいっぱいいる……、いた。あと、メイドがいた。メイドっつっても男……、そいつはもう就職してるって言ってたな、女装メイド。学内には他にも『王子様』が何人もいるって話だ」

「……ごめん三摩くん、何言ってんだか全然わかんないんだけど……」

「安心しろ、俺も自分で何言ってんのか全然わかってない」

 それでも、一から丁寧に説明していく。「王子様部」のこと、加蔵が矢束を救い出した「王子様」であったこと、彼らがサークル活動の一環として、言うなればボランティアとして夜の駅で困っている人を救っていること、あの珍妙な「王子様ネーム」のことについても。

「部長の亀沢っていうのは、もう二十七だって」

「それじゃあ全然就職に有利になってないよね」

「そう思った。えーと……、何だっけ、亀沢がブラッドリーで、本橋がハートランドで、……中寉は聞き忘れたな、メイドの蒔田はマリアネッラ」

「国籍ばらっばらな気がするね……。加蔵くん……、加蔵くんは?」

「あいつは……、プロ……、何だっけ、プロボクサーじゃなくて……、でも確かプロから始まる名前。お前を助けたから正式な『王子様』になれたんだってさ」

 本当に、馬鹿な冗談みたいな話だ。しかるに冗談であったならまだいい。連中は、本気で「王子様ごっこ」をやっているのである。

 矢束は「お嬢様部」の話を「ネットニュースで読んだよ。今ね、思いきって女の子も『お姫様部』にすればいいのになって思った」と言った。そうか、それそんな有名なニュースだったのか。

「でも、『お嬢様部』の人たちも『王子様部』の人たちも、気持ちは何となく判るな……。普段の自分のままでは絶対になれないじゃない、お嬢様にも王子様にも。でも、少しの時間でもそれを楽しめたら、……その、ブラッドリー王子? が言ったみたいに、意識少し変わるかもしれないね」

 加蔵など、まさにその典型例なのだろう。平民が王子と成り行くプロセスを、律と矢束は分担して見たようなものだ。

 矢束が、自分もそうなれるかもしれないと想像することは自然である。筋肉が付けば自信に繋がるなんて安直な発想だったかもしれない、……それこそ「脳筋」と言われてもいいぐらいの。

「ごめんな」

 ぽつり、吐息のように言葉が零れた。自分が一番に言わなければいけなかったのが何であったか、凝り固まって乳酸の溜まっていた脳が矢束との会話で少しばかりほぐれて、やっと口まで降りてきて、言葉の形になった。

「別に腕立て出来なくたって、体力がなくたって、中寉は王子なんだよ。それは気の持ちよう一つで……、なのに、嫌なこと言った」

 矢束の視線が横顔に当てられているのが判った。

「だから、……なんつーか、そういうのも、……筋肉がないとか体力がないとか、そういうのもさ、個性だと思ったんだ。それは別に他人が強制して変えさすようなもんじゃねーと思ったし、……だから、……ごめん」

 全面的にそう思っているかと言われれば、まだ少し、心が捩れる。けれど、矢束を嫌な気持ちにしてしまった時点で謝る義務が自分にはあると律は思った。それは決して「ご不快を与える表現があったのなら撤回する」などという紋切り型の、そう言ったんだからもうそれでいいだろ的なものではなくて。

 無意味に延びていた心の鼻っ柱を自分で半分に折り畳んでみた。これまで彼女と喧嘩しても、「俺悪くねーし」と思ったら意地でも謝らなかった律だったけれど、こいつに嫌われるのは嫌だなと思えるぐらいには成長したということだろうか?

 それが仮令、矢束蒼が自分に快楽をもたらす存在だからという理由であったとしても、……令和の世にもこう言うことは差別とは受け止められないことを祈って言うならば、男は胃袋を掴まれれば弱いし、陰茎をしゃぶられるともっと弱い生き物だということを、二十一の男である律はもう学んでいた。

「……三摩くんって、意外と優しいって言われない?」

 言葉に遅れて、唇が頬に触れた。「何も気にしてないよ。僕も、……三摩くんぐらいには体力付けたいって思ったんだ。この間いっしょにここ走って、足引っ張っちゃったし、体力付けて、筋肉付けてさ、そしたら、ジョギング付き合えるし、トレーニングも。あと、いつか三摩くんのことおんぶしてあげられるようになるかもしれない」

「おんぶ……?」

「僕が君にされて嬉しいって思ったことを、僕もしてあげられたらいいなって思った。……だって君は、僕がしてもらえたら嬉しいなって思うことを、僕がそれを求めるよりも先にしてくれたから」

 汗臭いと言ったのは嘘だった。両手でしっかり抱き着くだけでは足りなくなったのか、矢束は大きく足を広げて律の腿を跨いで、キスをする。

「いないよ、あんな人。男と初めてするのにいきなりフェラしてくれる人」

 律にとっては興味と実験、しかし矢束にとっては強い意味を持ったのかもしれない。そうだとして、どんな不都合があったろう?

 喧嘩、と呼べるほどのものではなかったかもしれない、しかし、そう言えるのは喉元過ぎればなんとやら、無事仲直りすることが出来たからだ。チェックボックスがまた一つ埋まる。

 喧嘩をして、仲直り。

 あと、屋根のないところでキス。

「……探してくれたんだ、僕の王子様……。それも、ありがとう」

 苦難の旅の末に「王子様」を見つけたのならば、またちょっと違う感慨めいたものが胸に浮かんでいたのではなかろうか。律が何かをしたわけではない。たまたま中寉と加蔵、二人の「王子様」の話を聴いてしまったというだけである。加えて言うなら、九隅大のあちこちに「王子様」はいるのだ。

 ひょっとしたら、気付いていないだけで講義のときの隣の席が「王子様」かも知れない。

「……今夜は、会えないなあって。今夜は三摩くんがバイトだし明日は僕がバイトだし。ヘソ曲げなきゃよかったなって思った」

 ぎゅう、と抱き着く腕に力を籠める矢束に、請われるままにキスに応えていたら、不意にその頭が引いて、「……ここ、人来ない?」と自分から人の膝に乗っておきながら、今更そんなことを気にする。

「来るよ。痴漢が出る」

「マ? ……三摩くん見たことあるの?」

「ない」

「三摩くん襲われちゃわない?」

 寧ろ、それは矢束自身が心配すべきことであろう。追われて逃げ切れるだけの体力もないし、暴力に訴えられたらなすすべなくやられてしまうだろう。その痴漢が「このさい男でもいい」などと考える感覚の持ち主であったならば。

「だから、……お前がこの時間走るって言うなら、俺が付き合ってやるよ」

 汗とスポーツドリンクの味の唇が、不思議と悪いとは感じられない。

「……防犯カメラとかは……?」

「カメラに映ったらまずいようなことすんのかよ」

 いまはまだ、平気なはずだ。膝の上に乗せて、合意の上でのキスをしているだけだから。

「カメラがちゃんと付いてたら、痴漢の被害だって出ないだろ」

「ああ……、それもそうだね……」

 矢束が一瞬、トイレに目をやった。屋根のあるところの方が安心だと思ったのかも知れない。けれど衛生面での不安も当然あるだろう。

「ちょっと下りて。俺普通にしょんべんしたいから」

 矢束はなぜか、残念そうな顔をした。立ち上がって、トイレに向けて歩き始めた律の手は、まもなく彼の手に掴まれた。「三摩くん、あれ」と彼の視線の先を見る。トイレの入り口に防犯カメラが設置されているのが見えた。なるほど、トイレに連れ込んで狼藉を働く者がいないかどうか見張っているのだろうと想像する。だったらもっとこう、コース上にもあちこち設置しておけばいいのに。

「僕も、……おしっこしたい。三摩くんが来るなんて思ってなかったから、トイレ行こうかなって思ってたとこだった。……でも、三摩くんがいて、おしっこ、するなら、僕も三摩くんと一緒にしたい」

 思うに、この男は変態なのだ。律もたいがい変態であるが、もうちょっと濃い色のマニアックさをしていると判断していい。それを許容しようと構えるまでもなく、へーそれすげえな面白いな、と興味と共に丸呑み出来てしまうのが律である。

 矢束が愛くるしい男であるという点も大きかろう。少々マニアックな要素があっても、この男を齧るときにはちょっとしたスパイス程度のものでしかない。いや、味をよりよくするためには、そのスパイスの存在が寧ろプラスに働くと見てもいいだろう。

 端的に言えば、男であるという事実さえももう、律にとってはさほど大きくはない。

 尿意を堪えながら、光に背を向けて歩く。一定の間隔、およそ十五メートルから二十メートルほどの距離で立ち並ぶ常夜灯と常夜灯の隙間に、一瞬、濃度の濃い暗闇がある。僅かな安全地帯と呼ぶべき場所であろう。

 矢束の尿意が高まっていることが判る。どこでおしっこするのだろう、と落ち着きなくずっと考えているに違いない。暗闇の深みに味を踏み入れるたび、今度こそという気持ちに矢束がなって、膀胱が安心しかけるのが判った。

 しかし、律が立ち止まったのは常夜灯が青白い光で照らす道の真ん中だ。

「……えっ……、こっ、ここ……、ここ……?」

 矢束はもう既に、黒のレギンスと重ね穿いた紺色のハーフパンツの前を抑えている。成人が尿意を堪えるためにそこまでするということは、文字通り切羽詰まっていることの証であろう。

「カメラなさそうだぞ」

「でもっ……」

「普通にさ、俺もここじゃないとこ、どっかの山でトレイルするとして、しょんべんしたいなーと思ったらそこらへんで済ませちゃうと思う。……お前がいつか体力付いて、山とか走ってみたいって思うようになったら連れて行ってやるよ。でも、そういうときにサッと済ませられないのはちょっと困るな」

 実際のところ、トレイルランの経験は一回しかないし、翌日酷い筋肉痛になって、「はー思ってたよりだいぶしんどいなこれ……、当分はいいかぁ……」というのが正直な感想だったのだけれど。

 しかし、矢束が一緒なら、……別にウォーキング程度のものでもいい、十分に楽しいだろう。そして、二人であるがゆえの楽しみも込みでプランニングするならば。矢束も、もちろん律も、性欲は強い方であるから……。

 もっと言ってしまえば、

「それとも、漏らすか?」

 矢束のことをとやかく言えないぐらいに律もマニアックの謗りは避けられないし、初めての男相手で何の抵抗もなくフェラチオが出来たというのは、要は細かいこと抜きにした方が楽しめるに違いないし、やったことないことはとりあえずやってみてから好悪の判断をすればいいと思っているから。成人男が漏らすところは見たことないな、見てどう思うんだろう……、ぐらいなものだ。

 ぐっと、今夜は丸見えの鋭い目で律を睨んでから、腰に引っ掛かったハーフパンツを下ろす。それから矢束の貧弱な腿から脹脛に吸い付くようなレギンスのウエストを、ぐいぐいと焦りを帯びた動きで下ろして行く。

「……見ないで」

 初めての夜に洗濯機の中で見掛けた女の下着を穿いているということはすぐ判った。穿いて見せろよと二回ほど言ったのだが、「嗤われるから嫌だ」と言われて、……確かにそれが笑えるものであると思ったなら、笑ってしまうだろうと思ったから、無理強いはもちろんしなかった。これまで律が裸にしたとき、矢束は一貫して地味な黒のボクサーブリーフであったから、あくまでそれは独りの時の愉楽なのだろうと解釈していた律である。もっとも、そこにどんな楽しみがあるのかは、まだ律の理解を超えているのだけど。

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