プリンス

 律が招かれたのは三つある三階建て長屋サークル棟の一番奥、グラウンドに面した棟の端の三階。狭くて急な階段を上がって行った先の、すりガラスの小窓がハマったドアには換気のための隙間が開けられていて、中からは人の話し声が漏れ聴こえてくる。

 中寉はトレーニングウェアのまま、死んだ目をした加蔵と一緒にここまで律を案内してくれた。

「『百聞は一見にしかず』という諺がありますね。ですから、どうぞ。この先は三摩くんご自身の目でお確かめになるのがよろしいと思いますよ。取って食われるということにはなりませんからご安心を」

 そう言った中寉の後ろで、加蔵は絶対に律と目を合わせないと決めているらしかった。

 ようわからんが……、と思いつつ、ドアを引いた。

 途端、紅茶の上品な芳香が鼻に届く。

「はっはっはっ……、いつもながらハートランド卿の話は愉快だ。特に野盗が卿の一喝で腰を抜かしたくだりは、全くもって傑作ではないかね」

「いやはや。このところのああした連中は、どうにも品がなくて良くありませんな。我々の半分でもいいから、インテリジェンスを身に付けて貰いたい」

 二人の男が、王冠を被っている。

 王冠、である。

 律の人生において、王冠という物体を見たのは小学校の学芸会のとき以来のことであった。サークル棟のどこの部屋にもあるものなのであろう長机を二つ並べて広々としたテーブルにした上には、純白のクロスが敷かれ、ティーカップと、あれは、なんて呼ぶんだろう、三段の、小さな棚か塔みたいに小皿が重なった食器があって、それぞれに小さなケーキが乗せられている。

 席に着いた二人の男は、パイプ椅子にて寛ぎながら、上品な仕草で紅茶を楽しんでいる。傍には、メイドさんが立っている。

 メイドさん。

 メイドさんである。メイドさんがそこにいる。

 メイドさんを見るのは、掛け値なしにこれが初めてのことである。

 王冠を被った二人の男の片方、「ハートランド」と呼ばれた方は、茶髪の、少しチャラい雰囲気のある長身の男である。名前は思い出せないが、見覚えがあった。何度か同じ講義だったことがあるのだろう。

「ところで、ブラッドリー卿は……」

 彼にブラッドリーと呼ばれた男は見たことがない。こちらは律よりも「ハートランド」よりも歳上であろう。というか、ひょっとしたら結構年齢が行っているのではないかという気がする。三十とまでは言わないが、二十二よりはもっと上に見える。

 そして、二人にお茶のお代わりを注ぐメイドさんは、こちらは大学生であろうが、どうも妙である。栗色の、ふんわり癖のある髪を後ろで束ね、とてもなよやかな顔立ちで、化粧もしているようだが、白いストッキングを履いた足を見るに、どうやら男である。

 なんだ、この世界観は。

 呆気に取られていた律に、最初に気付いたのはそのメイドさんであった。

「ようこそおいでくださいました。……入部希望の方ですね」

 やはり男の声である。顔は、化粧をしなくても十分に美しいものであるのだろう、ほとんど女のそれだ。

「ほう……、後期も始まって一月が経とうかというこの時期に、入部希望者とは珍しい」

 律を見とめた「ブラッドリー」が片眉を上げて、優雅に立ち上がる。

「我々は来る者拒まず去る者追わずをモットーとしている。……ああ、掛けたまえ、マリアネッラ、そこの小柄ながら精悍な身体付きの青年に椅子を」

 小柄、は余計である。マリアネッラと呼ばれた女装のメイドはもう既に、白手袋をした手でパイプ椅子を開き、「お客様、どうぞ」などと恭しく頭を下げた。

「君、名はなんと言う……、いやこれは失敬」

 金髪の方が、椅子から立ち上がり、呆然と立ち尽くす律の前までやって来て王冠を脱いだ。

「人に名を訊ねるより先に、私が名乗らなければ、ね。……私はレオニダス=ハートランド。世を忍ぶ仮の名はセイリュウ=モトハシ。どうか覚えておいてくれたまえ」

 もう一人の、恐らく大学生というものに「適齢期」があるなんて言うとまた問題になりそうではあるがしかし、どうやら二十五はもう超えていることは間違いなさそうな男も立ち上がり、

「人の世というものは、出逢いと別れで出来ている」

 何やら詩のようなものをほざきながら律の前までやって来た。

「出逢いとは、ケミストリーだ。人と人とが出会うことで扉が開く。思いもよらぬ幸福に破顔し、……しかし時を経て、やがて別々の道を歩む日も来るかもしれない。ちょうど君と私のようにね」

 なに勝手なこと言ってんだこのおっさん。律はこの男と出会ったことを幸運であるとはどうしても思えそうになかった。

 目の前でくるんと一回転し、彼は跪いた。

 あくまでその流れに含まれる一動作であると言わんばかりに自然に、律の右手を取った。律にとっては全くもって自然なことではないのであるが。

「アレン=ブラッドリーだ。君、名前を聴かせてはくれまいか」

「三摩くんです」

 ずっと扉のところに立って一部始終を見ていながら助け舟を寄越さなかった中寉が言った。

「残念ながら、入部希望者ではありません。ご学友が加蔵くんに助けられたそうで、活動に興味を持ってくださったのです」

「なんと、そうだったか。……なんだ」

 立ち上がって、……俄かに普通の人間に戻ったようだった。王冠を、くるりんぱと額に乗せて、

「それならそうと最初から言ってくれればいいのに。ねぇ」

「そうすよね」

 茶髪も、恐らくそちらが地金なのだろう、パイプ椅子に座り直して膝を組んだ。

「どうぞ」

 とマリアネッラが紅茶の入ったカップを置いた。この人だけはまだメイド然としているが、男である。中寉と加蔵も各々にパイプ椅子を開いて腰掛ける。

「私たちは、……九隅大学公認サークル『王子様部』だ。そして私はサークル創設者であり代表を務めている亀沢秀一郎という」

 年嵩の男が言い、

「会計の本橋青龍」

 金髪の男が言った。

「学外部員の蒔田です」

 マリアネッラだった男がぺこりとお辞儀をした。

「改めまして、副代表の中寉です」

 中寉が言い、……加蔵は何も言わなかった。何度も学食で一緒に飯を食い、下らぬ話で盛り上がったこともある、……友達と呼んで差し支えのない男であるはずだが、こんな訳の分からないサークル活動をしていたことは全く知らなかったものだから、律としてはただただ呆然とするばかりである。

「そうだ。中寉さん、加蔵くんが誰かを助けたって本当?」

 茶髪の本橋が意外そうに訊いた。中寉が加蔵に視線をやる。彼はしょんぼりと俯いていたが、やがて意を決した様子で立ち上がり、

「……俺は、入れてもらえますか、ここの、『王子様部』の正式メンバーにしてもらえますか、……『王子様』としての名前を授かることはできますか」

 なんとも切羽詰まった様子でサークル代表の亀沢に問う。

 亀沢は、「ふむ……、そうだな」とゆるやかに立ち上がり、

「……『王子様』とは、心のありよう。民たちの心安らかなることを常に願い、そのために働くのが『王子様』である。……仮令白馬に跨っていなかったとしても、流れる血が真に高貴なるものでなかったとしても、……世のため人のために傷を負うことも恐れずに働くのが『王子様』だ」

 自身の手にした王冠を、そっ……、と加蔵の頭に置いた。

「……君は今日から、ナイトハルト=プロヴェンツァーレだ」

 本橋が、手を叩いた。中寉も、蒔田も、それを追って拍手をする。亀沢も。四人の拍手に包まれて、加蔵は感無量の面持ちで「ありがとうございます……、ありがとうございます……」と言葉を搾り出した。

 何一つ訳が判らない。

「三摩くんは、『王子様』にはなりたくないの?」

 女装男の蒔田は首を傾げて律に問うた。表情の浮かべ方や声の出し方は柔らかい、一目で男だと見抜かれるかどうかは半々だろうなと想像する。「男装の麗人」なんて言葉があるが、女装の美人ではある。

「身体しっかりしてるし、向いてると思うけどなぁ。もったいない。俺なんて身体動かすの苦手だからメイドさんだし、……君の方が了よりずっと王子様になれそうな気もするんだけど」

「大きなお世話ですよ、皐醒こうせい

 ぷん、と小さく怒った声を発して、

「加蔵くんが正メンバーに昇格したことは大変喜ばしいとして、お客人をお待たせするのは好ましいことではないのでは」

 と亀沢に促した。

「ああ、そうだな。……ええと、三摩くんだったか、君は『九隅大学サークル案内』を読んだことはあるかね?」

 あの、殺人的な厚さと重さを誇る本のことである。もちろんない。

「そうか、それは残念。……ああ、蒔田くん、君の細腕には重たいだろう、中寉くんはもっとだめだ、足に落として怪我をするシーンがありありと目に浮かぶようだ」

「僕をどれだけ非力だとお思いなのでしょう」

 結局ハートランド本橋が、奥の古ぼけてちょっと凹んだロッカーから二〇二二年度版の「サークル案内」誌を持ってきた。いつ見ても異様な分厚さである。付箋の挟まれた頁をどっこいしょと捲ったところに、……エレガントなフォントと薔薇の装飾をして、結果的にやや読みづらくもっと言えば近付き難い雰囲気を醸し出す「王子様部活動御案内」が掲載されていた。

 読みたくないなぁ、と思ったのだけど、

「さあ、読んでみてくれたまえ」

 身を乗り出して亀沢が言うので、嫌ですとも言い難い。

 溜め息を呑み込みつつ覗き込んだ「御案内」に曰く……。

 人と人とが助け合う、そんな当たり前のことさえ希薄になりつつある昨今。我ら「王子様部」は世の民草たちの幸福のために働く人材を求めている。具体的な活動内容は以下の通り。

 一、猪熊駅前パトロール

 二、他大学「お嬢様部」との文化的交流(現下の状況を鑑み、リモートによる活動報告会)

「……なんすか『お嬢様部』って」

 律の言葉に、その場の全員が「えっ」と声を上げて律を見た。思ってもみなかった反応なので、律としても面食らう。

「少し前ですが、こういうニュースがあって、大変話題になったのですが」

 中寉がスマートフォンの画面を見せてくれた。……どこかの大学の「お嬢様部」メンバーたちの清掃活動が好意的に取り上げられているニュースが載っていた。全く何もこれっぽっちも知らない世界の話であった……。

 サークル案内の続きを目で追う。

 三、ハイソサエティお茶会

 活動日は随時、王宮はサークル西棟二〇五号室。合宿は年度内にウイルス感染状況が好転した際に検討する。衣装貸出あり。

 貴君も「王子様」となり、学業と就職活動にアドバンテージを得ようではないか。

 ……律には言葉もない。いったいどの程度の数の人間がこの文句を読んで「へえいいな、俺も『王子様』になりたいな」と思うのであろうか……、と考えたが、いま自分を取り囲んでいる亀沢中寉本橋蒔田、更にはまともな奴だと思っていたのに加蔵までもがそうなのだ……。

「……あの」

「何かね」

「この……、『就活にアドバンテージ』って何すか」

 パッと亀沢が表情を輝かせた。

「よく訊いてくれたね! そう、そうなのだよ君、『王子様部』は就職に有利だ。と言って、特に何か具体的な支援を行っているわけではないのだが……、この点については、事実としてさほど苦しむことなく就職を決めている中寉くんと蒔田くんに説明してもらうのが通りがいいだろう」

 中寉と蒔田は顔を見合わせて、

「俺たち、バイト先にそのまま雇われただけですけど」

「そもそも皐醒は入部する前から社員格でしたが」

 口々に亀沢の発言を修正した。二人は同じ会社に勤めているらしかった。

「しかしながら、就職に有利というのは決して誇大な話ではありません。この部にはここにいるメンバーを含めて九隅大生が七人、ほか皐醒のような学外部員四人所属していますが、皐醒のように既に社会人になっている人間を除けば四年生は僕を含めて四人、そのうち三人はいずれも採用先のレベルはどうあれ、大過なく就職活動を終えて採用を勝ち取っていることは事実です」

「レベルは本人が入りたい企業とは無関係だからね。でも一人、スタンドリッジ卿……、ええと、本名は原口さんか、今日はいないけど、貴重な『姫王子』だ」

 ひめおうじ?

「女性でありながら『王子様』を志した方のことを、便宜上そうお呼びすることななっています」

 中寉が注釈を加えた。

「スタンドリッジ卿は小さい頃からの夢を叶えた。来年の春からは毎朝テレビのアナウンサーだよ」

 律には、はあ、と開けた口から気の抜けた声が出せるぐらいだ。

 九隅大は、一応は私学文系最高峰と言われているので、毎年「えっそんなところに」と思うような超有名企業に入社する者がいる。テレビに出てきた作家やコメンテイターのプロフィールを見ると最終学歴が「九隅大学文学部卒」とあるのを見ても、そう驚くほどのことはないのであるが、律は現在そういった華々しい未来とはあまり関係が無さそうなところにいた。

「それで、なぜ就職に有利かということに関して申し上げるのならば」

「『王子様』として振る舞うことで、本人の意識を少し前向きにすることが出来るんじゃないかなって、俺たちは分析してるけどね」

 中寉と蒔田は兄弟のように息がぴったりだった。

「例に挙げて申し訳ないですが、加蔵くんは一年生で入部したばかりのころにはまともに人の目を見てお話が出来ない子でしたね」

 そうなのか、と目をやると、王冠を被った彼は恥ずかしそうに小さく頷く。そういえば……、と思い出す。こいつは、一年後期の基礎演習で一緒だったときには声も小さくて、背がでかいわりにおどおどしていやがるな、という印象を律に抱かせたのだ。

 それが、二年に上がって少しして再会したときには見違えていたのである。こいつこんなに堂々としていたっけ、身体が逞しくなっていたことにも驚かされたが、それ以上に威風とでも呼ぶべきものが滲み出していたのだ。

「王子様に必要なものって、三摩くん、何だと思う? ああ、現実の、外国の王子様じゃなくってさ、『王子様部の王子様』だよ。そこを考えてもらえれば、どうして就職に有利かっていうのは自ずと明らかなんじゃないかな」

 蒔田にそう問われた。

 実際の王子様の姿ではない、かりそめの、言ってしまえばコスプレの王子様たちである。ブラッドリー? ハートランド? プロ……、なんだっけ。よくもまあそんなこっ恥ずかしい名前を堂々と名乗れるものだと思ってしまった。あと何だその王冠は。パーティーグッズか。

 一方で、さっきの彼らの声の出し方はいずれも腹から堂々と張ったものであったし、浮かべる表情は自信に溢れたものであった。自分が「王子様」である以上は、決して民草(ここでは「王子様部」所属メンバー以外のあらゆる人間を指すのだろう)に弱々しい姿を見せるわけにはいかないという徹底的な自己意識がそれを可能にするのではないか。

 なるほど、それは確かに就職の面接のときに活きて来そうな話ではある。

 就活のことを考えると、律だって心がきゅっとなる。否定的な言葉ばかりぶつけられたり、周囲と比較して劣っているかもしれない自分が醜態を晒すことを想像してしまって、ああ何で人は就活なんてもんをしなきゃいけないんだろうなぁと嘆きたくなってしまう。

 なぜって、自信がないからだ。面接官の前で、まだ何者でもない自分というものを誇れるほど、律の根本は太くも靭くもない。

 しかるに、「私は王子様である」と思ったならば。

 仮に備えているものが吹けば飛ぶような誇りに過ぎなくとも、自信とは「自分を信じる」と書くではないか。その誇りを信じられるという時点で、ほかより胸を張って声を出せよう……。

 律が答えらしきものに辿り着いたことを見て取ったのだろう。

「三摩くん、『サークル案内』の次のページ見てみて。ここの大学の案内だと、同ジャンルの活動をしているサークルが並ぶことになってるんだ」

 蒔田が示した次のページには、代々猪熊沼の美化活動を行っているサークル。

 その次は、山北台運動公園でこどもたちの運動を支援する活動を行っているサークル。

 更にその次は、市内の児童館で定期的に読み聞かせや母子家庭のこどもたちのために料理を振る舞う活動をしているサークル。

 いずれも、ボランティアサークルである。「王子様部」はそうした団体と同様の括りになっているのだ。活動内容の一番に「駅前のパトロール」が出てくるからということだろう。

 中寉が言う。

「ボランティア活動をしたという履歴は、学生たちの欲しがるものの一つですね」

 先ほど加蔵が王子様部の「正メンバー」としてプロなんとかいう名前を享けるところを見た。駅のパトロールで矢束を救出したことによって、……その一回でいいのか、あるいは何度かそういう善行を積んでポイントを貯める必要があるのかは判然としないし別に知りたくもないが、その活動が認められて加蔵は王子様になった。つまり、王子様というものはそれだけボランティア活動の実績を積んだ者に与えられる称号であるということだ。

 ……しかし、面接で何て言うんだろう? 学生時代はどんな活動を行ってきましたかと問われて、「はい、私は『王子様』として世の人々を守るために……」なんて言う学生を雇いたい企業なんてあるのだろうか。とはいえ当人にとって自信となるらしいことは、もう判った。

「三摩くんも二年だって言ってたね」

 本橋が言った。「俺も二年なんだ。部長の手前こんなこと言っちゃうのはあれだけど、俺もさ、就活に有利になったらいいなと思って『王子様部』に入ったんだ」

「正直でよろしい」

 亀沢はうむうむと鷹揚に頷いた。

 先行き不透明な時代である。就職活動に対しての不安が、「王子様部」での活動によって払拭されると判断する者が、とりあえず少ないながらもいるのだということは、まあ判った。無論、律はそこに含まれることはないが。

 ……ここで気になることが一つ。

「……あの、亀沢さん? は、幾つなんすか」

「二十七だ」

「就職は」

「していないよ。どうも、私の場合長く王子でいすぎてしまったようで、面接のときにも完全に王子の自覚のまま臨んでしまうのだよ……」

 ダメじゃねえか。

「ちなみに僕と皐醒は山王駅周辺での自発的なパトロール活動を部長にお認め頂いて王子になりました。皐醒は『王子よりもメイドさんがいい』と言ったのでこの通りですが」

「だって、就職はしちゃってるしね。メイドさんよくない? ねえ、三摩くんも着てみない?」

 これ以上ここにいる意味はもう無さそうだった。いやそもそも、中寉に招かれて付いて来たのが間違いだった。

「……なあ加蔵、お前が助けた奴、……矢束って言うんだけどさ、そいつが、お前に会って礼が言いたいって」

 王冠を被った友人は、慌てて首を振った。

「礼を言われるようなことをしたつもりはない。俺はあくまで部の活動の一環として、……そして、鉄道マンになるという自分の夢を叶えるためにしただけだ」

 それは多分、「王子様」として理想とされる謙虚さなのではあるまいか。

「いや、まあそうなのかも知れないけど、矢束はお前に会いたがってる。ここの場所あいつに教えとくから」

「君、待ちたまえ。民草の夢を壊すような真似はするべきではないのではないか。その矢束という少年は、名も知らぬ王子に助けられていまも無事に暮らしている……、プロヴェンツァーレ王子にとってはそれで十分なのだ」

 亀沢が口を挟んだ。王子様で居続けた結果就職も出来ず、普段の振る舞いからしてもう「王子様」の服が脱げなくなってしまった男の言葉は、いちいち芝居がかっていて、有り体に言えば鬱陶しく感じられた。

「俺はプロヴェンツァーレ王子に具申してんじゃなくて、加蔵っていう自分の同期に向けて言ってんすよ」

 矢束はきっと喜ぶだろう。そしてここへ来て、この現実を目の当たりにして、……そこから先、あいつがどう思うかは知らない。自分も「王子様」になりたいと思うならそれはそれでいいのだろうし、夢が壊れたと嘆くのなら、……夢をいつまでも夢のままで追い続けるのは時間の無駄であろうから、早い段階で目覚めるのも悪くはないだろう。

「紅茶ごちそうさまでした。じゃあ、さよなら」

 立ち上がって踵を返した律に、

「ごきげんよう」

 と声を揃えて四人の王子様と一人のメイドが言った。中寉だけが、

「矢束くんに宜しくお伝えください」

 もう一言添えて来た。

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