ウェルカム

 土曜日曜と、部屋から出たのはジョギングのためだったのか野外露出プレイのためだったのか出たついでに買い物をするためだったのか判然としないのだが、とにかく猪熊沼に行ったのが二回あっただけで、それ以外の時間、律はずっと矢束の部屋で過ごした。つまりそれは、二昼夜を睡眠と食事と飲酒とセックスで潰したということを意味している。

 それでも矢束は「王子様」のことを忘れていなかった。月曜の午後のコマが終わるなり彼はやって来て、

「王子様のところに連れて行って」

 とせがんだ。

「……サークル棟だって言っただろ、独りで行けよ」

「えーやだ、知らない人たくさんいるところ苦手だよ、僕人見知るし」

「知るかよ、っつーか『知らない人』じゃねーだろ加蔵もあと中寉も一回顔合わしてんだから」

 こういったやりとりがあって、日曜夜から泊まった雨がようやく止みかかった夕暮れの空の下、サークル棟の「王子様部」のドアの前に辿り着いてしまった律である。矢束は背中に引っ付いて思い切りビクビクしているので、仕方なくごんごんとノックした。

「入りたまえ!」

 反応よく朗らかな声、亀沢のものである。

「やあやあ、誰かと思えば君ではないか! えーと、コツメカワウソではない、秋刀魚の煮付けでもない……」

「三摩です」

「そうだった、いや失敬。どうも、横文字でない名前は覚えづらくなってしまってね」

 何年も卒業しないで「王子様」なんぞやっているからそうなってしまうのではあるまいか。色々ともう手遅れな気がする。

「それで、今日も見学かな」

「この間のも『見学』のつもりはなかったんすけどね……。おい、……おい、いつまで隠れてんだお前が来たいっつったんだろ」

 矢束はドアの影からそうっと覗いている。昨夜はジョギングコースで盛大に遊んで、その度胸は律もちょっと引くぐらいだったのであるが、心の太さにムラがある男だ。

「ああ、プロヴェンツァーレ卿の助けたという彼か。プロヴェンツァーレ卿は五限が終わったら来るはずだ。それまで中でゆっくり待つといい。私たちはいま、学園祭での催しについて話し合っているところでね」

 部室の中には今日も、亀沢と本橋がいて、中寉もいた。仕事があるのか、蒔田はいない。テーブルの上には今日もアフタヌーンティーのセットが並んでいる。今日も今日とて美しいが考えていることの中身が伺えない(たぶん、ろくなものではないはずだ)中寉が「こんにちは」と二人の分の椅子を並べ、紅茶を淹れてくれた。

「では、本題に戻ろう。……メルネス卿とマリアネッラは、どうしてもこの日は我々の方に参加することは難しいと言うことだったね」

 本橋がホワイトボードに書いたタイムスケジュールを振り返りながら言った。どうやら中寉は「メルネス」なる王子様ネームを持っているらしい。矢束は律の隣、ぽかんと口を開けている。

「はい。僕らはバンドの方に出なければなりませんので。申し訳ありません」

「メルネス卿は王子であると同時に『ヴェル・デ・ラ・ビット』の『了』であり、ボーカルである、そしてマリアネッラはメイドであると同時に『ヴェル・デ・ラ・ビット』の『皐醒』でありキーボードである。それは仕方のないことだ」

 パイプ椅子に座り直した亀沢が腕組みをして唸る。

 ぎしっ、と矢束がパイプ椅子を軋ませた。

「ヴェル・デ・ラ・ビットの……!」

 のみならず、彼は声も漏らした。

 ゲイ・タウン宿木橋の女装男子四人組、矢束のお気に入りのバンド。灯台下暗しとはこういうのを言うのか、あるいは言わないのか……。

 ということは、だ。

 蒔田皐醒はそうなのかなと思ったが、中寉了もまた、同性愛者なのかも知れない。

 そういえば、「パートナー」という言葉を用いていたな、と律は思い出した。彼女、ではなくて。

 矢束が自身のスマートフォンをポケットから出す。慌ただしく操作して、出てきたのは「ヴェル・デ」のアルバムのジャケット、四人のメイド服の男たち。大きく写っているわけではないが、……センターを務めてこちらを冷たい目で睨んでいるのが中寉だろう、……目立たないが涙袋の目尻側に紅みがある。左奥にいるのは、改めて見ると確かに蒔田である。

「矢束くんは僕らの音楽をご存知だったのですか」

 中寉がこちらに向けて言った。矢束は慌てて「ごめんなさい、邪魔しちゃって……」と頬を赤らめる。

 このけったいな、……という形容でいいのであろうバンドは、学園祭の日に演奏を披露するのだそうだ。

「ありがたいことに、学園祭の事務局長さん呼んでくださったのです。当初はライブの予定もない日でしたので、僕は王子様として、皐醒はメイドさんとして部のため世のため人のためにに働く予定だったのですが」

 ライブをやるとなれば、中寉と蒔田は「王子様部」としての活動を諦めざるを得ない。中寉は「王子様」なので他のメンバーで埋めることも出来るが、蒔田はメイドである。簡単に代わりが出来るものでもあるまい。そのために、彼らはその穴埋めに苦慮しているところであったらしい。

「ちなみに、当日は中庭でアフタヌーンティーパーティーを行う。入れ替え制さ。貴君らも是非来てくれたまえ」

 ブラッドリー=亀沢の言葉を、律は聴き流したが、隣の矢束はとても行きたそうな顔をしていた。

「神女の子に頼んでみようか。私には、多少あてがある」

 ハートランド=本橋が言った。神女というのは近所の女子大のことだ。

「うむ……、やはりそうしてもらうのがいいのだろうか。あそこの『お嬢様部』と交渉して、応援のメイドさんを頼んでみるか……」

 神女にも「お嬢様部」があるのか……、律は世界の広さに思いを馳せずにはいられない。

「しかし、神女の女学生が来られて、彼女たちにメイドさんをやって頂くとなると、問題があるのでは」

 メルネス=中寉からそんな指摘があった。

「男性陣が『王子様』として振る舞っている傍らに、彼女たちが『メイドさん』として働いているというのは差別的であると非難を向けられる可能性があります」

「むう、私たちと姫こと来客者とのツーショット写真を撮るのはどうしてもメイドの仕事になる……、確かにメルネス卿の言う通り、女性蔑視と言われる懸念があるな」

「あくまで男がメイドをしているという前提があるから認められているわけだ。……とはいえ、私やブラッドリー卿が女装をしたら王子様部が屋外お化け屋敷に早変わりしてしまうな。プロヴェンツァーレ卿であっても同じことだ……」

 とてもどうでもいいことのように律は思ってしまうのだが、当人たちは真剣そのものである。確かに加蔵が女装しているところを眺めながら紅茶を飲むのは難しいはずだ。目に入るたびに噴き出してしまうに違いないから。

「そうだ、以前……、ほら、マリアネッラが連れてきた彼はどうかな。私と同い歳ぐらいの……、大月くんと言ったかしら。彼なら可愛いメイドさんが出来るのでは」

「大月結人ゆいとはウチのギタリストです。彼のギターがなければヴェル・デの音楽は成立しません」

「なんと、そうだったか……。惜しいな実に惜しい。やんちゃでツンデレな二十七歳女装メイドなんて稀有な存在だと思ったのだが」

「結人くんには言わないでおきます。彼は毎度ライブが終わるたびにべこべこに凹んで立ち直るまでに一晩掛かるのです」

 結人って、こいつか、このギター持ってるやつか。二十七歳……。

 世の中には、色々な種類の悩みがあるものだ。それは尽き果てるということがない。夥しい数の悩みのうち、自分が抱えてしまった一つや二つだって持て余してしまうものであるところ、わざわざ他者の悩みに寄り添って一緒に向き合い解決策を探すなんてことは、律にはとても思い付かない。だから律は(そもそもなれるはずもないが)政治家になんてならんぞと決めているし、政治家のうちそれをきちんとやりこなせている人間なんてごく僅かである。

 中寉が、矢束を見詰めていた。紅い涙袋のせいか、童顔ながら妖艶さのようなものを纏った男がじいっと自分を見詰めていることに矢束も気付いたようだ。憧れのバンドマンに見詰められるってどんな気分なんだろう? コミュ障であることを自認している矢束はあからさまに挙動不審になって、意味もなく自分のシャツの裾を弄り回し始めていた。

 中寉は無慈悲にもパイプ椅子から立ち上がり、つかつかつかとやって来て、

「矢束くん」

 背中を丸めて、前髪越しに語り掛ける。

「ひゃい、あの、はい、なんでしょう」

「失礼」

 止める間もなかった。中寉が左手ですいと矢束の前髪を持ち上げる。険のある目付き、弱い眉、が中寉の独特な双眸に捉えられて、蛇に睨まれた蛙、いやもうちょっと可愛いげのある形容が何かあるだろう……、律が頭の中の辞書を捲って言葉を探しているうちに、

「ああ、やはり。こんなところに隠れていたのですね、僕の宝石」

 中寉が、あらぬことを口走った。

「は……、はい……?」

「ずっと探していたのです。幼い頃に失くしてしまって以来、ずっと。君の瞳の中に逃げ込んでいたのでは見つかるはずもありませんでした」

 この男は何を言っているのだ。律には全く判然としないが、中寉は大真面目な顔であるし、矢束は目に涙を浮かべて困惑しきって、しかし耳まで真っ赤になっている。律が覗き込んでもそんな顔になったことはないはずだ。

「矢束くん」

 中寉の細い指先が頬に触れた途端、「ぴゃ」と矢束の口が妙な声を漏らした。

「あの、あの、あの、なん、なんで、なんでしょか」

 ……コミュ障にはまだ親しくない相手に顔を覗かれるなんてさぞかし耐え難いことであろうと想像する。矢束は声のみならず全身を震わせているばかりだ。

「僕の姫になって頂けませんか」

 中寉の行動を黙って見守っていたブラッドリーとハートランド、すなわち亀沢と本橋が「おお」「それは名案」と声を上げた。

「ちょっと……、ちょっと待て、あんた何言ってんだ」

 確かに矢束は可愛い。

 三摩律の審美眼においては少なくとも、中寉よりも蒔田よりも可愛い男ではある。そしてこの可愛い男は、今朝律が言ったから、ジーンズの中に女物の下着を身に着けている。きちんとした女装をしたことは未だ一度もないけれど、そうすることへの興味をうっすらと抱いていることは認めている。「でも僕が着ても可愛くないよね」という自己評価の低さが、どうやらヴェル・デ・ラ・ビット、女装男四人組のバンドのメンバーたちを見て知っていることに依るらしいことは、律の中で得心がいったがそれはそれとして。

 亀沢だの本橋だの、あと加蔵、他にもいるのだったか、そうであろうとなかろうと、ふんぞり返った「王子様」どものお茶会の給仕をメイド服着て務めるなんて、矢束に何の得があるというのか。あと、そもそも誰がそんなところに紅茶を飲みに来るというのか。

「確かに、……矢束くんか、君が引き受けてくれるなら万事解決だ!」

 亀沢は立ち上がって諸手を挙げる。

「ちなみにですが」

 中寉がくるりと律に顔を向けた。

「アフタヌーンティーパーティーにおけるメイドさんの役割は決してお茶汲みではなくて、あくまでその場の雰囲気作りのためです。本物の女性であれ女装した男性であれ、女性としての記号を纏う人物に奉仕させるというのはいいものではありませんから。パーティーにいらしたお姫様たちにお茶を注いで差し上げるのはもちろん王子様のつとめ」

 全くどうでもいい話ではある。中寉の髪に鼻が触れそうな距離にあって、矢束がいっぱいいっぱいになっていることの方が気になるところである。

「でも、でも、あの、む、無理です無理ですやっぱ無理っ、幾ら『ヴェル・デ・ラ・ビットの了くん』に頼まれてもそんなの無理ですっ」

 意外なほどの俊敏さでぬるんと椅子から転がり落ちて抜け出して、逃げの一手を打つ矢束であった。しかるに、足がもつれてたちまち床に転がる。

「危ない!」

 すんでのところで、中寉がその手を取って抱き寄せる、……が、中寉もまた、腕立て伏せが一回も出来ない筋金入りの貧弱男である。いや、そういう自覚がありながらも矢束を守ろうと反射的に動いたことに関しては、一定の評価を与えるべきなのかも知れない。

 巻き込まれて律まで椅子から転げ落ち、二人の全体重の下敷きになったことを除けば……。それぞれは軽いに違いないが、成人男性二人の全体重がのし掛かるのであるから、さすがに苦しい。

「ご無事ですか」

 中寉が冷静そのものの声で言う。うつ伏せになった律の後頭部に、矢束の後頭部が乗っている。そこがとても熱い。そして、律の視界には床に手をついてかろうじて自身の体重を支える中寉の細い右手が見えている。

「ひゃ、ひゃっ……」

 矢束の情けない声が聴こえてきた。背中の上の二人の顔の間の距離は、ほとんどごく僅かしかないはずだ。

「お願いします、矢束くん。メイドさんになって頂けませんか」

 だから嫌だって言ってんだろ、と呻いた律の耳に、

「ふぁ……、はいっ……、あの、僕でよろしければ……」

 矢束の声が聴こえてきた。

「これは、……床ドン」

 床ドン……?

「メルネス卿の床ドンとは、ずいぶんと貴重なものを見たものだ……。歓迎するよ、矢束くん。我ら『王子様部』の臨時メンバーとして、我々も君を最大限にサポートしよう。今日から君は……、そうだな、ヴィットーリア!」

 ついでに聴こえてきた本橋と亀沢の言葉は、律にとって本当に全くもって、これ以上ないぐらいにどうでもいいとしか言いようのないものであった。

 これは、律自身がそうであるのでよく判ることなのだが、ウイルスが世界に根を張り巡らせ切った二〇二一年に入学した彼らは新入生歓迎会を端緒とする上級生からの全方面ちやほや攻撃を受けないでここまで来ている。上級生の方は、彼らは彼らでここ二年ほどそれを実践する場は設けられないできたものの、蓄積され注ぎ足され何代も受け継がれてきた「新入生ちやほやスキル」を自家薬籠中のものとしているわけであるから、秘伝のタレで甘く濃く煮付けて新入生を自分たちのサークルの色に染めてしまうことにかけては隙がない。特に二十七歳でまだ学籍を置いているのが亀沢である。

「ヴィットーリア、この後は空いているかな……、うむ、よろしい! ではこれから君を歓迎する宴を催そう!」

 という彼の号令によって、矢束は訳も判らぬまま呑み会へと連れ出される。矢束は成人しているので酒が呑める。とはいえ、既に怖い目を見ている通り、酒に弱い。

「三摩くんも一緒に来てください」

 中寉がくいと律のシャツの裾を引っ張った。

「は? なんで……」

「先日お見かけしたときのように矢束くんがぐでんぐでんになったら、君がきちんとおうちまでおんぶして運んでいかなければいけません」

 結局、律までもがその新歓コンパに連れていかれる羽目になってしまった。そうこうしているうちに加蔵がやって来て、とうとう矢束は「王子様」との出会いを果たし、真っ赤になりながら、だいぶテンパって拙いものではあったけれど、礼の言葉を伝えることが出来たのだった。

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