三,薬膳

「わっ。美奈子みなこちゃん、朝からずいぶんとたくさん作ったねえ」

「うん。いつもようちゃんに料理任せっきりだから、休みの日くらいは私が作ろうかなって」

「炒飯に餃子に卵スープ……。朝から中華料理なんて、美奈子ちゃんは元気だなあ」

「もしかして、中華の気分じゃなかった?」

「ううん、美奈子ちゃんが作ってくれたものならなんでも嬉しいよ。けど、一般的な朝食って味噌汁とか卵焼きとか、あっさりしたものが多いイメージだったから」


 彼の言葉に、私はきょとんとした。谷口美奈子――旧姓である上野家では、休日の朝食は毎週父親が作っていたが、毎回肉料理や揚げ物など、朝からがっつり食べることが多かった。「男は休日くらい自分の好きなものをゆっくり食べたいんだよ」というのが口癖で、それが一般的な休日の朝食なのだと信じ込んできた。だから洋ちゃんの好きな中華料理を作ったのだ、と彼に話してみると、彼はぶっと吹き出した。

「あはははは。ああ、前から美奈子ちゃんってスタミナあるなーと思ってたんだよね。お義父さんの食育のおかげだったのか」

「ごめんなさい、全然知らなかったわ。今から作り直してもいいかしら」

「いや、いいよ。もし上野家の常識がそうだったなら僕もちょっと体験してみたいし。それに、美奈子ちゃんの卵スープ、大好きなんだよね」

 そういって、彼はダイニングテーブルの椅子を引いた。


 半年前に結婚した夫の洋太郎ようたろうは、そういう人だった。自分と他人との認識の違いがあっても、自分の正当性を押しつけることはない。自分の方が卑屈になることも、それで不満をため込むこともない。知人の紹介で初めて会ったとき、すぐに彼の温厚な雰囲気に惹かれた。私の方から連絡を取る形でデートを重ね、交際して2年が経とうとしていた年末の良き日に、私たちは晴れて夫婦となった。

 目の前で中華風卵スープのわかめを美味しそうに咀嚼する彼を見て、結婚とはつくづく不思議なものだと考える。全く違う土地、違う家庭、違う価値観で育ってきた人間が、生活を共有する。人生が交差する。ときには文化の違いに戸惑ったり、打ちのめされそうになることもあるけれど、時が経てば自然に互いの人生が調和されて生活になる。

「今度から、味付けの薄いスタミナ食を勉強しようかな」

 卵スープに散らした胡麻をぽりぽりと味わいながらそんなことを言ってみた。

「スタミナ食っていう点は、譲れないんだ」

「だって休日くらい一日中精力的に過ごしたいじゃない」

「そんなこと言ったって、美奈子ちゃんも僕も休日はずっと家でのんびり過ごしてるじゃないか」

 いたずらっ子がひそひそ話をするように私たちは笑う。見えている幸福の形が同じでも違っても、私たちはそういうお互いのことを愛していた。




  *




 とん、とん、と包丁がまな板に触れる。円みを帯びた優しい音が、妙に間延びしたリズムを刻んでいく。平日の朝、リビングから聞こえていたこの音を、隣の寝室で布団に包まって聞くのが大好きだった。

 しゃく、しゃく、と根菜に刃を入れる。冷蔵庫から塩蔵わかめを取り出し、さっと水で洗う。ちょっと塩気が残ったわかめが、洋太郎の好みだった。味噌は白味噌、具はじゃがいもとわかめと玉ねぎ。一人で生きていれば知らなかったはずの味を、洋太郎が教えてくれた。玉ねぎの刺激で視界はどんどん涙で滲んで曇って頬を滑って、いつの間にか止まらなくなった。

 ダイニングに静かな嗚咽が響く。いくらあの日から月日が経っても、三人家族用のダイニングテーブルや2LDKの部屋は、独りぼっちには広くて孤独で仕方が無かった。




  *




 五月の、まだ陽ざしの柔らかいある休日のことだった。

「美奈子ちゃん、ちょっといいかな」

 リビングの隣の寝室にいた洋太郎に手招きをされ、私は野菜を刻む手を止めて彼の方を見た。まだまだ洋太郎好みのあっさりした味付けではないが、比較的軽くいただける昼食を作っているところだった。リビングの隣にある寝室は、洋太郎の仕事場も兼ねている。朝からなにやら作業をしていたようだが、何かあったのだろうか。そう思って寝室に入り、彼が作業していたパソコンの画面を見ると、和モダンな抹茶カラーに、白抜きの枝垂れた木――栁のシルエットが描かれていた。

「これ凄く素敵。デザインの勉強でもしてるの?」

「ううん。これは、我が社のホームページのロゴだよ」

「ええ?でも洋ちゃんの勤めてる会社って……」

「違う、起業したんだ」

「ああそう……って、ええ?」

 素っ頓狂な声を上げた私の隣で、洋ちゃんは、なかなかいい出来だろう、と自慢げに頷いた。


「全然知らなかった。自分で会社を立ち上げようと思っていただなんて」

 リビングで湯呑みに緑茶を注ぎながら、私は何度もそう繰り返した。洋ちゃんは、長時間のパソコン作業で目が疲れたのか、蒸しタオルを目に乗せてソファに寝転んでいる。

「驚かせようと思って内緒にしてたんだ。本当はホームページとか手続きが全部終わってから言おうと思ってたんだけど、読者層は女性がメインだと思うから、美奈子ちゃんの意見が聞きたくて」

「いや、充分立派な出来だと思うけど……強いて言うなら、全体的に寒色が多いから、ヘッダーは赤にした方が色のバランスは良くなると思う」

「さすが美奈子ちゃん。そうやって意見をちゃんと言ってくれるとこ、好きだなあ」

 洋太郎はおどけてそう言った。湯呑みの中で茶葉が舞い踊る。束の間の沈黙が下りた後、さっきから気になっていたことを聞いてみた。

「ねえ、あの栁って、この絵をモチーフにしたの?」

 彼は瞼の上の蒸しタオルを取ってこちらを向いた。私が、ほら、と反対側の壁を指さすと、彼は「ああ」と言って目を細めた。私たちの視線の先には、栁と清流の絵がプリントされた大きなタペストリーが飾られていた。新婚旅行に行ったときに、現地の土産屋で買ったものだ。水彩画の、優しい色調の絵。今ではリビングで眺める度に、二人で幸せな旅の記憶を思い出していた。

「花嫁との幸せな思い出を会社のロゴにするなんて、公私混同ですねえ」

 にやにやしながらからかってみると、洋太郎は真剣な顔をして、「仕事も愛もどっちも全力で生きていきたいと思っているのです」と、ソファの上でふんぞり返っていた。

「ところで、主に何をする会社なの?読者は女性がメインって言ってたけど」

「ざっくり言うと、Webマガジンだよ。基本的に、家事とか生活のノウハウについてまとめていきたいと思ってる。ほら、僕って在宅ワーク中心だから家事をする機会が多いだろう? 男性の視点も踏まえた主婦層向けの生活誌って少ないから、作ってみようと思って」

「なるほどね。何で紙媒体じゃなくて、Webにしたの?」

「ゆくゆくは、閲覧者が自分の知識を気軽に投稿できたり、読者へのアンケートもできるようにしたいんだ。それに、紙媒体だとストアで買うのにお金がかかるからね。一人暮らしを始めた学生とか、新婚さんは金銭的な余裕も時間の余裕も少ないから、少しでもそういう人の役に立ちたくて」

 私は、洋太郎に心からの尊敬の眼差しを向けた。この人は、常に自分以外の人生に目を向けて生きている。どうしたら自分が会ったこともないような人を救えるか、日々模索して生きている。自分だって忙しいはずなのに。楽をしたいはずなのに。


 洋太郎はそういう人だった。




  *




 コンロに火を入れ、白いボウルに卵を割り入れた。だし醤油と胡麻を加えながら、数回大雑把にかき混ぜる。フライパンに流し入れると、ジュッと油の跳ねる音がした。手際よく転がして、形を整える。こういう朝食の一品は凝らずにさっと作ったほうが返って美味しいのだ、というのが洋太郎の持論だったらしい。らしい、というのは、私が本人から聞いた訳ではなく、あのWebマガジンにそう書いてあったのを読んだからだ。三年ほど前、会社を立ち上げた洋太郎は、そのWebマガジンを「あおやなぎ」と名付けた。安直すぎないかと思ったが、ひらがなの柔らかな雰囲気と、洋太郎の書く繊細で流れるような文章と相まって、調和のとれた媒体になっていった。

 あともう一品、魚を焼く前に、ダイニングテーブルに一人分の茶碗と汁椀と箸、それからメインの魚と卵焼き用の長皿を用意した。冷蔵庫からほうれん草の甘味噌和えが入った小鉢を取り出し、それも置く。それでもダイニングテーブルは三分の一の広さも使っていない。どれだけ品数を増やしても、友人を呼んで食事をしても、きっとこの空間が満たされることはないだろう。

 あの日常の、ささやかで幸せな会話を思い出す度、胸が抉られるようになる。

 



 *




 なんか見る、と洋太郎がのんびり私に投げかけた。

 家にあるディスクの映画を見たいときに洋太郎が使う常套句だ。そして私も大事な予定がない限り、うん、と頷く。「あおやなぎ」がスタートしてそろそろ一年。活動も軌道に乗り始め、最近は私もそれを手伝うために家事を習得してきた頃のことだった。

 長身を屈めた洋太郎がテレビの下にあるラックを漁っている間、私は茶葉を急須に入れて、湯を沸かす。緑茶を入れた湯呑みが二つできあがると、洋太郎はディスクをセットし終えていた。家にある映画は何周も見ているが、毎回緑茶を入れる間にセットされるディスクが何の映画なのか、私には始まるまでわからない。本編が始まるまでの間、私は何の映画なのか、密かに推理するのを楽しみとしている。

 オープニングムービーが流れ、本編が始まった辺りで、私は答え合わせをすることとなった。今回は―私のお気に入りの映画だった。繊細な美しいアニメーションで注目を浴びている監督の新作。熱い緑茶の水面あたりをすすりながら、洋太郎も食い入るように画面を見つめていた。

 細やかな情景描写とともに描かれるのは、「子供が親を選べる世界」というなんとも非現実的なテーマだ。子供は皆、生まれてから七歳になるまで大規模な施設で育ち、七歳以降は自分がいいと思った両親をリストの中から選べる、という設定になっている。《生まれた環境による格差や不平等を出来る限り排除し、子供の権利を最大限に尊重するための社会システムなのだ≫と政治家が声高にそう言うシーンが流れる。その後、子供たちが生活する施設での良質な教育や生活が紹介されて前半が終了する。後半では、物心ついたときから本当の両親と暮らす決意をしている少年と、病気がちで自分の人生に興味が無い十六歳の少女が、各々で選んだ家庭に引き取られ、それぞれの道を歩んでいく姿を描いている。

 私の一番好きなシーンは、優しい両親に引き取られた病気がちの少女が、とうとう難病を発症してしまい余命わずかとなる中、両親が莫大な費用を出してまで延命治療を頼むシーンだ。

 ≪やめてよ!≫

 ベッドに座り、管に繋がれた痛々しい姿の少女が叫ぶ。

 ≪このまま延命治療を続けたってあたしはいつか死ぬのよ。私だけじゃない。お母さんだってお父さんだって、人は例外なく死ぬのよ。私が先立ったあとも、お母さんたちは寿命が来るまで人生があるのに…。何でもうすぐ死ぬ子供にお金をかけるのよ!≫

 少女の母は、それでも愛する我が子が生きている姿を見るだけで嬉しいのだ、と何度も説明する。両親は、少女が金銭的な面で自分たちに申し訳ない気持ちになっているのではないかと思ったからだ。しかし少女は何度説得されても、延命治療を断固として拒絶する。

 ≪このまま病状が進めば、私は自分のことも、周りの人のこともわからなくなるでしょう。一日中自由に動けなくなって、話せなくなって、それでも生きて何の意味があるの。そんなの、私が望んだ未来じゃないわ。生きている姿をずっと見ていたいのはお母さんたちだけでしょう。そんなのただのエゴよ≫

 みすずっ、と父親が声を荒げたが、すぐにはっとする。さらりと肩に流れた髪の隙間から、ぽろぽろと綺麗な滴が落ちていた。少女は泣いていたのだ。

 ≪これ以上…私を生かすのはやめてください≫

 少女が絞り出すようにそう言ったのを最後に、病室は沈黙で満たされた。場面は、数ヶ月後の少女の葬式のシーンに切り変わる。

「このシーン見てるとさ、」

 私は、出来る限り声量を抑えながら、隣にいる洋一郎に言った。

「うん」

「生きる尊厳って、生まれた尊厳ってなんだろうって思う」

 洋一郎は画面に集中しながら、それでも話は聞きたいのか、私の方に肩を寄せるような体勢をとった。

「なんで、そう思うの?」

「……生きたくないとか、死にたいと思うことって、誰に責任を感じなきゃいけないんだろう。その人にとっては紛れもなく自分の選択なのに。本当に申し訳ない、自分の心がどうしても脆弱でお世話になった人に情けないって、そう感じる人が多いのは何故なんだろう。産んでもらったから? でもそれは自分の選択じゃなかったわけで……」

「美奈子ちゃんは、死にたいと思うことがあるの?」

 洋太郎は急にこちらを向いてそう聞いた。あまりに真剣な表情に一瞬どきっとする。

「まあ、一時期はそう思うこともあったけど……。今は殆ど無いかな。洋ちゃんと出会ってからずっと幸せだし」

 言ってから、そういう彼はどうなんだろうと思った。死にたいと思ったことはあるのだろうか。生きたくないと思ったことは。

「そっか。なら良かったよ」

 そう言って、洋太郎はまた前を向いた。映画に見入る彼の、液晶の光に透けた柔らかな茶色の瞳が美しい。彼の目を真正面から見つめるとき、私は何となく、清流の河口が頭に浮かぶ。流れる水は清らかで、濁りもなく、川底の石すら透過させるような河。しかしその水を干し、底を割れば、多くの砂や泥が、何年も何年も堆積されて地層になっていることがわかるのだ。激流に砕かれて丸く小さくなり、流れてきた化学物質に汚染され、奥底にしまい込まれて押しつぶされて固まったような地層が。何となく、洋太郎にはとてつもなく大きな憂愁の地層があるような気がしている。そして私はたまに、彼の、その優しさの歴史を暴いてみたくなるような、そんな衝動に駆られる。

 暗転。タイトルロゴの後に、エンドロールが続く。

「……終わったね。夕飯の買い物でも行こうかなあ」

 大きく伸びをした私の横で、洋太郎は何やら顎に手を当てて、考え事をしている。

「どうしたの?」

 私が問いかけると、洋太郎は、言おうか言うまいか迷っているような素振りを見せた。彼は大抵の場合、ここで踏みとどまって言葉を仕舞い込む。そして仕舞い込んだら二度と出てくることはない。それが良い話なのか、悪い話だったのか、結局何もわからないままだ。しばらくお互いに黙り込んだ後、珍しく洋太郎から口を開いた。

「美奈子ちゃんさ」

「うん?」

 束の間の沈黙。

「…子供、欲しくない?」

 私は、冷えかけた湯呑みを揺する手を止めた。中途半端に底に溜まった茶葉が少し舞う。心臓がばくんと音を立てて、喉や耳の奥が大きく脈打つ。

「よ、洋ちゃんは、欲しいの?」

 やっとの事で口を開いた。今までこの手の会話はしたことがなく、驚いた反面、嬉しいような、浮き足立つような、そんな感情が一瞬で身体を巡る。

「…結婚したときから欲しいと思っていたけど、なかなか言い出せなかったから。美奈子ちゃんはどうなのかなって」

 結婚したときから。今までずっと。その事実に私は驚愕した。

「家具とかも、ほとんど三人分くらいの大きさで揃えてたし。僕の気持ちに気づかないふりしてるのかと思って、密かに心を痛めていたんだよ……」

 そう言って彼は胸を鷲掴むようなポーズをしてみせた。そして、悲しそうな目をしてダイニングテーブルを撫でる。確かに、新婚当初に家具を選んだとき、やたら大きいサイズばかり選んでいたのを思い出した。金額は彼が少々多く出したので、文句はなかったし、それに――。

「…欲しいよ」

 私は小さな声で、そう返した。彼との子供だ。産むまでも、育てるのも未知の世界だが、彼と二人なら何だかやっていけそうな気がした。彼は、少し照れたように笑って頭をかいた後、すっきりした表情で、大きく伸びをして言った。

「じゃあ、夕飯の材料買いに行こう。今日のメニューは、美奈子ちゃんのこれからの体調も考えて、健康的な美味しい食事を作ってみせましょう」

 腕をまくってふんぞり返った洋太郎の姿を見つめながら、私は湯呑みの底に沈んだ、この世で最も濃い緑茶を飲み干した。

 賃貸の2LDKに満ちた幸せで温かい空気。大きめの家具が並んだインテリア。壁に掛けられたタペストリー栁の若くしなやかな緑。

 彼と、今ここで生きていられるだけで私は、生まれて良かったと、死ななくてよかったと、心からそう思えた。

 

 彼が交通事故で亡くなったのはその数日後のことだ。

 



 *




 塩鮭の様子を見ながら、卵焼きを切り分けて長皿に乗せた。彼がいなくなっても、卵焼きを大きめに作る癖は抜けなかった。

 四月二十日。洋太郎が亡くなってから今日で満二年になる。

 信号を無視して人を数人撥ねたトラックの運転手は、直前まで酒を飲んでいたらしい。洋太郎は頭を強打して即死だった。あの日、彼は夕飯の食料を調達しに出かけていて、その時間帯は私は会社に出勤していた。上司にこれから妊娠する可能性があることを伝え、同僚のママさんに妊娠中気をつけたほうがいいことなどを聞いていたとき、事務の子から緊急で電話の取り次ぎがあった。「もしもし、谷口洋太郎さんの、奥様でいらっしゃいますか、旦那様が―」。そのときから、映画のエンドロール後のように私の全てが暗転した。彼の葬式が内輪だけでひっそりと終わるまで、私にはあまり記憶が無い。隣で色々な手続きの手助けをしていた母が言うには、「よく頑張っていた」らしい。

 義両親は、私を責めなかった。完全に加害者の責任だから、と二人は私の目は見ずに、そう言った。

 彼が最後に持っていた荷物や着ていた衣類も手渡された。彼が愛用していたブランドの黒いリュックサックの中には、財布や携帯の他に、二人でよく買い出しに行ったスーパーのレジ袋と、緑黄色野菜や緑茶のパックが詰め込まれていた。そして最寄り駅の構内にある本屋の袋に入った、子育て用の雑誌も数冊入っていた。亡くなる直前まで、私との将来をこんなにも真剣に考えてくれていたと思うと、理不尽で、やるせなくて、悔しくて、悲しくて仕方が無かった。私はそのリュックを胸に抱いて、一晩中泣き喚いた。

 当然仕事には復帰できなかった。精神的な面もあったが、なにより同僚や上司からの同情の目線が耐えられなかった。仕事も料理も洗濯も、何もかも辞めた。これ以上、正常に生きていける気がしなかった。

 それから廃人のように日々を生きて一ヶ月ほど経ったとき、寝室で彼のパソコンがひとりでに再起動しているのを見た。アップデートの時期が来たのだろう。勝手に進んでいく更新を眺めながら、そういえば彼の「あおやなぎ」はどうなったのだろう、とぼんやり思い出した。ダブルベッドから立ち上がろうとしたとき、私はとてつもない目眩に襲われた。そしてやっと、ろくな食事を取っていないことに気がついた。


 ――美奈子ちゃん


 洋太郎の懐かしい声がする。


 ――僕たちが子供を産み育てていくことも、子供がその愛情の中で死にたいと思うことも、もしかしたらあるのかもしれないけどさ、どうしても生きていかないといけないことも、どうしても死にたくなることも、人生の大きなプロジェクトの中の一環であるような気がする。勿論、幸せが最終目標の。


 洋ちゃん。

 洋ちゃんが、生きていれば私は幸せだった。

 でも、と記憶の中で彼の茶の瞳が静かに細まる。

 優しい彼の川底の石。何度も激流に打ちのめされた、その過去が私の守りたい全てだった。


 ああ、そうだ。

 彼はその後こう言った。

 

 ――僕が生まれたことや、死ぬことで、誰かに不幸を与えたくないな、とは思うけどね。


 どうして。どうして、自分が死ぬ瞬間まで他人のことを考えて生きていけるのだろう。どうして一番大切なはずの自分を後に回せるのだろう。どうしてそんな尊い人間の命が真っ先に奪われるのだろう。

 ――どうして私は、大好きな洋太郎が大事にしてくれた自分の人生を放棄しようとしているのだ。

 弾かれたように台所へ向かい、私は野菜を刻み始めた。じゃが芋、玉ねぎ、水で戻した塩蔵わかめ。コンロで湯を沸かし、出汁を取り、具を入れて、味噌を溶かして。不思議と、勝手に手が動いた。すぐそばで、「美奈子ちゃん、おかえり」と言う彼の声がする。ああ、私はこの味に支えられて生きてきた。仕事で疲れて帰ってきたときも、憂鬱な月曜日の朝も、洋太郎が作るこの味が、私に生きる力を与えてくれた。洋太郎が亡くなって、自分の人生に幸せを見つけられることなんて、それを糧に生きていくことなんてないと思っていた。それでも、私が今日も明日も1人で立ち上がって再生していく力は、もう彼からもらっていた。

 それからは怒濤の日々だった。私は、どうにか生活を立て直すために、「あおやなぎ」の仕事を引き継いで、どんどん新規事業に乗り出した。元から編集自体は手伝っていたが、家事に関しては読者側の主婦の方がまだ詳しいくらいだった。私は、家事自体の勉強をしながら時事問題の解説や興味を引くような特集コーナーを設けて、読者層を増やした。かつて洋太郎がそう望んだように、閲覧者が自分のノウハウを投稿できるシステムや、アンケートなども行えるようにした。始めの方は本当に全く上手くいかなかったが、過去に洋太郎が上げた記事を見ながら編集し、元々の自分の論理的な性格と、洋太郎の情緒的な文章が相まって、「あおやなぎ」は更なる支持を得ることとなった。大手出版社と仕事の提携を結び、三周年を迎えた今年は紙媒体化やアプリ化にも力を入れる予定になっている。私の人生に残された洋太郎の足跡は、消えることはない。

 いい具合に火が入った塩鮭を皿に盛り付けた。食べる前に、彼の遺影に手を合わせにいく。テレビの下にある、元々DVDを入れていたラックは彼の仏壇となった。賃貸の部屋の広さと万が一に備えて、立派な仏壇を置いたり線香を上げることはできなかった。それに、仏壇を置いたことで、彼と過ごしたこの空間が変わってしまうのが怖かった。だけどそろそろ仏壇用の棚を買ってもいいかもしれないなと思う。

 洋太郎が死んでからの二年という月日は、私が負った傷を癒やしたわけでも、私に彼の死を割り切らせたわけでもない。忙しく過ぎていく日々の中で、何てことの無いことが引き金になって涙が止まらなくなることが今でもよくある。だけど、生活を作り出す器官は少しずつ変わっていく。細胞が生まれ変わるように、自然な時の流れに合わせて、ゆっくりと、確実に。

 麦ご飯、味噌汁、ほうれん草の甘味噌和え、卵焼き、塩鮭。あの日から、ずっと避け続けていた献立だ。二人で子供を育てていく決心をしたあの夜、洋太郎が一生懸命に考えて作ってくれた献立。あの夜は、ただひたすらに曇りのない幸福の味がした。洋太郎が亡くなってから、私はこの味を思い出すのを止めていた。思い出したら立ち上がれなくなりそうだった。味わったらもう二度と再生できない気がした。

 

 でも今日は。

 

 私は手を合わせる。人生を変えたその食との出会いは、私の川底に堆積した泥や憂いや生きる力を、時の流れにのせて温かい大海に押し出した。







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薬膳 中野 茶屋 @saya-nakano_7

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