二,箸先の愛を

 それでは、これからあなたに幾つかの質問をします。この取材は、弊社の主婦層向けWebマガジン「あおやなぎ」五月号の食生活特集の記事として取り上げられることとなっています。インタビューの内容を正確に記録するためにICレコーダーを回してもいいかしら。


「はい。上手く話せるかどうか、わからないですけど」

 

 そんなに緊張しなくても、大丈夫よ。早速だけど、あなたのお名前と年齢、職業……は学生よね。この二つを、教えてもらえるかしら。


増山美玖ますやまみく、二十歳です。ええと、東京の私立大で心理学を学んでいます」


 ありがとう。どうして今回、アンケートに協力してくれたのかしら?


「一人暮らしなので、自炊とか、お金のやりくりが上手くなりたくて……。この『あおやなぎ』は、生活の知恵とか工夫が、本当にわかりやすく編集されていて、よく見ていたんですけど、その時に目に留まりました」


 そうなのね。もしかしたら知っているかもしれないけど、「あおやなぎ」はこの取材内容が掲載される五月号で三周年を迎えるの。勿論、読者の層は主婦がメインだけど、あなたのような学生さんにも楽しんでいただけるように、あなたの話を聞かせてもらえないかしら。


「はい。緊張していますが、頑張って話したいと思います」


 よろしくね。


「はい。ええと……『あなたの人生を変えたあの食』、でしたよね。私の場合は、これを食べた瞬間に劇的に変わった、という訳ではなくて。最近、、と言うのが正しいのかもしれません」

 

 その食について、特別意識したことはなかったのね。


「はい、そうなんです。むしろ、それが当たり前だと思っていました」




  *




 はああ、と彼が盛大な溜息を吐くのを、私は青白い顔で見つめていた。目の前のテーブルには、出来上がったばかりの中華料理の皿が二つ。鶏ガラの卵スープと手包みの餃子。凍り付く空気とは裏腹に、二人の間で温かな湯気をもくもくと立てている。


 またやってしまった。何が間違っていたのだろう。今回は何をすれば正解だったのだろうか。


「お前さあ、結構常識ぶっとんでると思ってたけど、これはないわ」

 ベッドの上で溜息を吐いた城田は、そう言って再び布団の中に潜り込んでそっぽを向いた。何でだろう。何をそんなに怒っているのだろう。私はただ、夏風邪を引いた彼のために料理を作ってあげただけなのに。

「ごめんなさい。今日は中華の気分じゃなかったのね」

 私が恐る恐るそう聞くと、城田は「はあ?」と素っ頓狂な声を上げた。私は肩を縮こまらせた。また、また間違えてしまった。背中を冷たい汗が伝う。

「お前さあ、夏風邪で弱ってる彼氏にこんな胃に重い料理食わせる気かよ。あー、もういい。お前に作ってもらおうとした俺が馬鹿だった。帰ってくれ」

 彼はそう言って、向こうをむいたまま盛大にくしゃみをした。トレーの上に乗った料理は刻一刻と冷めていく。せっかく彼のために心を込めて作ったのに。しかし、ここに置いていてもきっと、彼が食べることはないだろう。かといって捨てるのはあまりにも勿体ない。餃子だけでもタッパーを借りて持って帰ろうか。「タッパー借りるから」と彼に言うと、彼はそっぽを向いたまま何も言わなかった。私はむっとした。無視されることが私の一番嫌いなことだって知ってるくせに。私は彼の方を見つめたまま、仕返しのように言った。

「自分の健康管理が出来てないから風邪引いたくせに。人様に料理作ってもらっておきながら、その態度は何。あなたの良識も充分に疑えると思うんだけど」

 ベッドの上でぴく、と彼が動く気配がした。私に言い返されることが、彼にとって一番不愉快であることを知っている。

「お前、風邪引いたことないだろ」

「は?」

「馬鹿は風邪引かないもんな。お前みたいな大した学歴もない生意気な女、男の世話と看病も出来なかったら何やって生きてくんだよ」

 彼が鼻を鳴らしてそう言うのを聞いて、一瞬で頭に血が上るのを感じたが、言い返す言葉が何一つ出てこなかった。だらしなく寝転がった彼に、一発拳でも食らわせてやろうと思ったが、深呼吸をして自分を宥めた。私は確かに馬鹿で、彼の言う「常識」がわからないこともあるが、こんなに侮辱されるほど底辺を生きてない。少なくとも、この男より日々を精力的に生きている自信はある。口論になると、彼は決まって私の学歴を持ち出すが、ここまでひどく言われたのは初めてだった。私がしばらく黙っていると、ようやく彼は自分が言いすぎたと思ったのか、こちらを振り返る気配がした。

「……私だって、しょっちゅう風邪を引いて、学校休んでたわ」

「なら、その時親御さんが作ってくれた料理を作ってくれればよかったじゃないか」

「城田くんは、何作ってもらってたの」

「普通に食べやすいおかゆとか、身体にいい野菜料理とかだろ」

「それって、『常識』?」

 私が聞くと、彼は一瞬、言葉に詰まったようだったが、しばらくして「うん」と頷いた。

 ――ああ、やっぱり私には彼の「常識」がわからない。

「私はそんなもの、お母さんに作ってもらったことなんて一度もないわ」

 束の間の沈黙の後、彼が気まずそうに起き上がる気配がした。私は彼の方を見ずに、「タッパー借りるから」と言って部屋を出た。




  *




 あなたは風邪を引いたとき、お母さんから何を作ってもらっていたの?


「中華料理です。彼に作ったものと同じように。他の家庭もそうしていると思っていたし、私自身中華を食べたらすぐに体調もよくなりました。そこまで酷い体調不良じゃなかったからかもしれませんが。中華料理自体は凄く好きだったし」


 さっきから、「常識がわからない」と話しているけど、何でそう感じているの?


「高校時代付き合った彼氏や学校の友達からも,同じこと言われました。『美玖ちゃんは変わってるよね』って。実際それで何回か揉めたこともあるし、振られることもあったし。私はどこかで間違って育ってきたのかもしれないと思ってました」


 具体的には、どこが変だって言われたの?


「授業中、指名されてなくても意見を求められたら率先して発表したり、家の手伝いをするために部活を休んだり。そうしたら、『あいつは目立ちたがり屋なんじゃないか』とか、『成績の為に教師に媚びを売るつまらない奴なんだ』とか言われて、クラスでも浮き始めて。部活でも、『家の手伝いを、練習をサボる口実に使ってるんじゃないか』って言われて、そんなに休みたいなら辞めろって言われたり……。あの人たちにとっては目立たないように成績を上げることや、自分の放課後をチームメイトの為に使うことが常識なんです。けど私は違う。そういう他人との違いが、何もかも嫌になったときに体調を崩しがちになって……」


 そうだったのね。でも、あなたは何も間違ったことはしていないわ。おそらく、あなたの周りの大人たちはあなたに助けられていたはずよ。


「……それでも、私にとっては『皆にとっての常識』を教えてくれなかった大人たちが憎らしく思えました。特に、母親。私に常識を教えたのは母ですから。周りの目なんか気にするものかと割り切って生きていましたが、城田くんの言った言葉は、思っていた以上に重たいものに感じられました」




  *




 彼の家から帰って、私は机に突っ伏してわんわん泣いた。

 ――男の世話と看病もできないで、どうやって生きていくんだよ

 あの最低な男が放った言葉が頭から離れなかった。私がいくら脳天気に生きていたって、心の隅では確かに思っていたことだった。大した学歴もなく、特技もなく、私は一人になったらどうやって生きていけばいいんだろう。それで彼に否定されたらどんなに傷つくか。彼に捨てられた後の世界がどんなに恐ろしいか。いや、違う。別にあんな男と一緒じゃなくたって生きていけると思っていた。彼が考えているほど人生において学歴はすべてじゃない。従姉妹のツグちゃんは、頭は私より良くなかったけど、バイト先で出会った最難関大卒の彼氏と結婚の約束までしていた。優しい人を捕まえて幸せになっていた。私もそうなったらいいなって思って城田と付き合ってきたけど、彼は「皆の常識」を持った人で、私は違った。そこに私は冷たい壁を感じている。水族館の水槽のガラスみたいな、透明な分厚い壁。その小さな海の中では酸素が上手く調節され、上手く互いに衝突を避けながら共存し、美しく光に煌めいている。だけど上手く泳ぐ術のない私はいつの間にか疎まれて、弾かれて、青い暗闇のその隅で、誰にも知られることなく、ただ生きて死ぬんだ。

 上手く水中に潜る術を知る彼と、どうしても浮いてしまう私。私は、彼を失ったらもう社会で生きていけなくなるのかもしれない。水槽の内側で後ろ指をさされ、狭い教室で睨まれながら生きていくのかもしれない。そう思うと、頭全体がドクドクと脈打ってきた。吐きそうになった。


 ――また、具合悪くなっちゃったの?


 遠い記憶の、母の声がする。私が布団を頭まで被った状態から、顔だけ出して頷くと、いつも母は「じゃあ、学校に連絡しておくからね」と言って部屋から出ていった。


 ――今日の昼ご飯は、美玖ちゃんの大好きな餃子と卵スープだね。


 部屋を出て行く直前に、母がそうつぶやくのをよく聞いていた。そうして午前中は自室で過ごし、昼食の時間が近づくと、キッチンから、餃子を焼くときの、油の爆ぜる音がしてくる。

 にらとニンニクの香ばしい匂い。大好きな、あの匂いがする。

 そういえば、持って帰ってきた餃子があったっけ…。私は鞄からタッパーを取り出して、電子レンジに入れて温めた。お皿に盛り付けた餃子は、しなっとしているが、白い湯気を纏ってほくほくしていた。私はそれに、たっぷりとラー油をかけて食べる。小さい頃から辛いものが大好きで、餃子には酢醤油をかけずにラー油をこれでもかとかけて食べていた。五個ずつがくっついた小ぶりの餃子。その一つを口に運ぶ。焼き色のついた皮のもちもちとした食感、しっかりとした肉餡としゃりしゃりした葉野菜の歯ごたえ。最初にラー油の辛みが来て、しばらくすると、それが肉汁の甘みに変わる。

 ――たくさん食べて元気出して、明日も学校頑張ってきなさいね。

 そう言った母の笑顔が、味と共に鮮明に蘇ってきた。嫌いではなかった。仲が悪かった訳でもなかった。だけど、何で私に正しくないことも教えてくれなかったのだろう。正しいことばかり。大人に好かれることばかり。そのせいで私はまた幸せを掴み損ねたのに。

 その時、鞄の中で携帯が振動した。城田からのメールだった。

≪さっきは言い過ぎてごめん。ちょっと体調良くなってから鍋に残ってた卵スープ飲んだんだけど、美味かったよ。≫

 私は何も返さずに携帯を鞄に突っ込んだ。

 



 *




 結局、彼とは仲直りしたの?


「一応今でも連絡は取りますけど、なんだか、あの一件で恋心も冷めちゃって。彼は常識的な人かもしれないけど、将来を考えて生きる相手ではないな、と思ったんですよ。こんな学のない女が、厚かましいですかね」


 そんなことないと思うわ。あなたはとても真面目な女の子だから、またいい人が見つかるわよ。


「そうですかね。……さっきから気になっていたんですけど、その結婚指輪、とっても綺麗ですね」


 ありがとう。指輪のことを褒められたのは、久しぶりだわ。


「……谷口たにぐちさんは、旦那さんと仲いいですか?」


 そうね、それなりに良かったんじゃないかしら。


「……」


 あなたは、生まれてきた環境を憎んでいるかもしれない。子供は親を選べないから。きっとあなたの辛さは、母親を憎む気持ち以上に、慕っていた気持ちの方が大きいからこそ感じるものなんでしょう。だけどね、そういう愛情の連鎖の端にいるあなただからこそ、未来の誰かを助けてあげられる感力があるものよ。もし、あなたに将来子供ができたら、母親と同じ教育を、同じようにしたいと思う? 同じような愛情を注ぎたい?


「……わからない。それが返って子供のためにならないかもしれないから。でも……」


 でも?


「……子供が学校に行きたくないって言ったら、子供の好きな料理をたくさん食べさせてあげたい」


 ……それが、あなたがしてもらって嬉しかったことなのね。


「――全部、嘘なんです。私、中高で学校を休むほど体調を崩したことなんてないの。私、本当は学校に行きたくなくて、母に体調が悪いと嘘をついて休んでいました。そんな日は必ず、決まって私の好物ばかり出て……。

ああ、これが愛情の連鎖の端なんですね。母は、全部、お見通しだったんですね。そうでなければ、正しい常識の塊みたいなあの人が、風邪を引いた娘に中華料理なんて出すわけがありませんから」







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