薬膳

中野 茶屋

一,選び取る安価

 それでは、これからあなたに幾つかの質問をさせていただきます。この取材は、弊社の主婦層向けWebマガジン、「あおやなぎ」の食生活特集の記事として取り扱われることとなっております。インタビューの内容を正確に記録するために、ICレコーダーを回しても宜しいでしょうか。


「構いません」


 ありがとうございます。早速ですが、あなたのお名前と年齢、ご職業を教えてください。


吉野秀一よしのしゅういち、28歳。自宅でフリーライターをしています。まぁ、収入はそれほど多くないので、飲食店のバイトを掛け持ちしています」


 今回の取材を受けようと思ったきっかけはなんですか。


「たまたま調べ物をしていたら御社の記事が偶然目に留まったので、軽い気持ちで応募してみました。実の所、今回自分が取材を受ける側に回ることで、仕事をする際の参考にしたい、というのもありましたが」


 勉強熱心なのですね。


「そうですかね。まぁ、小さい頃から勉強ばかりしていましたから」


 なるほど。それでは、本題の方に入っていきたいと思います。事前の連絡で大まかな質問内容は把握されているかと思いますが、本日は特集のテーマである「あなたの人生を変えたあの食」についてお話を伺いたく存じます。日頃から「あおやなぎ」をご愛読頂いている皆様に、素敵なエピソードをお聞かせ願えないでしょうか。


「勿論です。僕が話せる限りのものですが」


 宜しくおねがいします。

それで、あなたの人生を変えた食、というのは一体?


「はい。まずは僕があの食と出会うまでの話をさせてください」






 かぁん、と金属バットが硬い音を響かせた。一瞬の静寂のあと、一拍置いてわあっと歓声があがる。秀一は途中式を書く手を止めて、ベランダから団地の向かい側を見下ろした。小学校高学年くらいの男子たちが、空き地で草野球をしているところだった。G県の山沿い、冬に吹く乾いた風は骨の髄まで凍てつくほど冷たい。それにも関わらず、少年たちは額に汗を光らせ、紅潮した頬に笑顔を輝かせていた。時折楽しそうに笑い声を上げる同級生たちの姿も見える。


 自分も混ざって遊びたい、と思う。


「秀一っ、何してるの。早く終わらせなさい」


 背後から鋭い声が飛んだ。振り返ると、厳しい顔をした母が立っている。つかつかとこちらに歩み寄り、団地の向かい側を見下ろすと、忌々しそうに溜息を吐いた。

 仕方ない。秀一が名残惜しそうに机に戻ると、ベランダの重い扉がピシャリと閉められると同時に、また空き地から金属バットの爽快な音が鳴り響いた。


数学的帰納法によって次の等式を証明せよ。

秀一が取りかかった問題は、まだランドセルを背負う年頃の子供の大半には到底手の付けようのない難問と言えるものだった。しかし秀一は、僅かな思考の後、紙上に鉛筆を走らせた。隣に立つ母の空気も、少し緩んだものに変わる。余白の白が黒鉛の色で消えて行くのを見ると、少し安堵するような、別の緊張が生まれるような、そんな気持ちになる。

 始めの方はただ、一つの正解を導き出せることが楽しかった。それがだんだん両親に認めてもらうための勉強になり、塾の先生の期待 に応えるための作業になった。 母が勉強して欲しそうにしていたから勉強し、いい成績を取れば褒めてもらえたからその為の努力も惜しまなかった。努力はしたからその分賢くなった。賢くなれば教師からまた猛烈に褒められた。褒められると嬉しいのでまた頑張った。そんなことの繰り返しに秀一は大して疑問を抱くことがなかった。何となく、「勉強ができること」が何だかんだ役立つことが分かってくる年頃でもあったから。

 学校で仲間外れにされたこともあった。


吉野は俺らとは違うから。


野球帽を目深に被り、球を苛立ったようにグローブに打ち付けながら、かつての親友はそんなことを言った。彼が情けない点数を取り、母に叱られる度に秀一の名前を引き合いに出されて、秀一の存在が癪に障るようになったらしいというのは人伝えに聞いた。

 馬鹿だなぁ、と思った。勉強する方が有意義なのに。所詮スポーツや趣味は、勉強を捨てて励んだとてその道で生きていける人間はほんの一握りなのに。そう、自分に言い聞かせながら見送った彼の背中は、どんどん滲んでいった。


 だけど。秀一はときどき思う。

 本当にこれで正しかったのだろうか?


 最難関の大学は必死の努力の末に合格した。全国模試で毎回上位だったのだから当然よね、と母は誇らしげに言った。


 これで、本当によかったのだろうか。







 努力家なのだろうと思ってはいましたが、まさかここまでとは。


「母が特に教育熱心な人だったので、彼女に認められることが、幼い僕にとって全てでした。勿論、努力してきたことには何の後悔もありませんし、実際それによって何度か楽な思いをしてきました」


 何故、今になって疑問を抱くようになったのでしょうか。


「わかりません。何かが僕の中で劇的に変わった、とかではないんです。大学合格と同時に芽生えた違和感が、知らないうちに大きくなっていったのかもしれません。だけど、あの日から自分の中で停滞していた何かが動き出したような、そんな感覚がしました」







 大学生活が始まり、慌ただしい生活の中で、そんな感情は忘れかけていた。 実家を離れた都内での一人暮らしにも慣れてきた頃、学部の同じ友人と数人で遊びに行くことになった。友人と遊ぶのは実に何年ぶりだった。秀一は浮かれ気分で家に帰り、ずっと段ボールに仕舞っていた野球グローブとバットを出して綺麗に拭いた。少し変色していたが、小さい頃父親に貰ったままの姿だ。秀一は、高揚感でいっぱいだった。


やっと遊べる。


 しかし前日、友人たちは当然のように、明日の正午に都内のショッピングセンターで待ち合わせよう、と言って去って行った。


 は、次の日にやってきた。


 正午を少し回ったあたりで全員が集合し、「昼飯食べようぜ」と言った友人がある店の前で立ち止まった。他の人たちも、「やっぱここが定番だよな」と言って店内へ入っていく。秀一だけがただ一人、真っ青になって店の前で立ち尽くしていた。有名なファストフード店の、真っ赤なロゴと同系色で飾られた店内が覗える。「吉野、どうしたんだ」「体調でも悪いのか」と友人が秀一を気遣う声が遠くから聞こえるようだった。頭蓋を圧迫するような、心臓の速打つ音だけが響いている。

 秀一は、生まれてこの方ファストフードを一度も食べたことがなかった。そういった店が見当たらない土地で育ったということもあるが、なにより彼の母親がファストフードを異常に敬遠していたのだった。食べていいのだろうか。入っていいのだろうか。だけどここで断ったら、もう遊びに誘われることはなくなるかもしれない。

 吉野は俺らとは違うから――元親友の冷たい声が、球を打つバットの爽快な音が、母の罵声が、次々と脳裏をよぎる。

 秀一は迷った末、友人と一緒に店内に入った。レジの前の列に並びながら、席の確保を命じられた秀一は、適当にメニューを指さしてオーダーを頼み、逃げるようにフロアに向かった。子連れの親や若いカップル、高校生の集団や老夫婦など、店内では様々な年齢層が各々楽しそうに食事を取っていた。数人で座るのに丁度いい席を見つけ、緊張に身体をこわばらせながら座って待っていると、カウンターの方から両手にトレイを乗せた友人がやってくるのが見えた。

 ことん、と目の前にトレーが置かれたとき、なんとも言えない緊張感と、罪悪感、そして身が激しく揺さぶられるような興奮に駆られていた。

 チープな質感の包装紙に包まれたハンバーガーの隣には、ロゴと同じ赤の紙パックに溢れるほど盛り込まれたやや細めのフライドポテトがあった。友人たちはそれぞれ包み紙を破り、大きめのハンバーガーにかぶりつきながら談笑を楽しんでいるようだった。秀一は逡巡の後、フライドポテトに手を伸ばした。まずは一本、慎重に手で摘まんで口に運ぶ。

 ――旨い。一つ噛みしめると、ほのかな塩味と、熱くとろけたじゃが芋、そして油のまろやかな甘みが溢れ出る。焦げ目の歯触りは軽く、また一つ、二つと口に運ぶ内に、秀一は何となく、自分が未知の果実を食しているような錯覚がした。外側のさくっとした細胞壁を歯で破る。中の熱い果肉を潰す。そして滲み出る旨さを味わう。あっという間に、紙パックは殻になってしまっていた。

 ハンバーガーにかぶりつくと、黒胡椒の熱い刺激が舌を刺した。歯に柔く食い込むバンズの感触、かりかりとしたチキンの衣、ふやけたレタスの舌触り、そして人工的な色をしたスパイシーソースのまろやかな辛さと肉汁の旨み―。


 ……ああ、どうして今までこの旨さを知らなかったのか。


 秀一は思った。何故誰も教えてくれなかったのか。これほどまでに食べることの幸せを感じたことはあっただろうか。ただのファストフードの味が、こんなにも切なく、幸せで、苦しいなんて。

 黙々と秀一は食べ続けた。そこに美味しいを超える感想を持とうとしたが、結局それが無駄なことだとわかった。


 母の言いつけは何だって守ってきた。それで良かったと思えることだってたくさんあった。この世の何よりも母が正しいと思っていた。そう言い聞かせてきたこの長い年月は一体何だったのか。憎い、憎い。あの日々が、憎い――。

 一つ部品が入ると、面白いほど歯車は狂っていく。オセロのように全てがひっくり返っていく。今まで見過ごしてきた幸せは全て、どこかで誰かに耳を塞がれ、顔ごと背けさせられてきたことであるような、そんな気さえした。勉強なんて逃げようと思えば逃げられた。積極的にやるなら野球の方が良かった。もしくはサッカー。そういうものの方が好きだった。今だってそうだ。

 秀一は、自分の感情の切っ先が静かに尖りつづけていくのを感じていた。今まで従順に真面目にこなしてきた全てに、その牙と爪とをもって傷をつけてやりたかった。周りの人間や母には何を言われるかわからない。けど、決して母さんの為じゃない。僕自身のためだ。僕自身のために、僕がそう選ぶ。




  *




「……あれを、食べたときの感情は一生忘れやしないでしょう。自分を縛っていたものが解き放たれたような解放感。素晴らしいものに出会えたという高揚感、母の言いつけを破ってしまったことへの背徳感、それに背反してどうしようもなく感情を支配した、圧倒的充足感と、幸福感を」


 その食と出会ったことが、あなたの人生を変えたのですね。


「そうです。あの味を知ってしまってから、僕は自分の生活を自分の気の向くままに過ごしました。今まで僕の人生を抑圧してきた人間を甚だしく憎みました。そしてそれら全てに反抗するように、成績だって就職だって、両親が喜びそうな選択は一切しないと心に決めました。僕は幸せでした。成績が落ちたって体重が増えたって平気でした。自分で選択できる悦びを初めて学びました。ああ、やっと僕は、空き地で草野球をしていた同級生たちのように、なれたんだ。……やっと僕は人生を生き直せる。そう、思ったんです。」


 目元、これで拭いてください。


「すみません。あまりこうやって誰かに話す機会もなかったものですから」


 そんな生活が、あの日から今もずっと続いているんですか?


「そうですね、就職もろくにせずに、自分がその時々で興味を持ったものを大切にして日銭を稼いでいます。バイトの掛け持ちもしていて、深夜の営業もある訳ですから、生活リズムはかなり乱れていますし……。それでも何だか、そこで出会った人たちはとても魅力的な人たちばかりです。自分の人生にある程度責任を持っているというか。自分で学費を稼ぐために懸命に働いている人もいました。僕より勉強ができなくても、容量が良くなくても、必死で生きている人はたくさんいる。そういう人たちに囲まれた生活は、楽とは言えなくても、豊かだなあ、と感じています」


 そう思える、あなたの心も豊かだと思いますよ。


「ありがとうございます。実は、私事なのですが、今年の八月に結婚する予定なんです」


 そうなんですか。おめでとうございます。


「ええ、バイト先で出会った二つ下の子なんですけどね、二年前から交際して、先月に結婚を申し込んだら良い返事がいただけたので。いやあ、今、本当に幸せなんです。でも、彼女のためにもう少し稼がないといけないなとは感じていて。僕も自力でこんな風にWebマガジンの会社でも立ち上げようかな」


 ……あなた、絶対成功しますよ。使う言葉に知性が感じられて、きっと人のために何かを成し遂げられる人ですから。ああ、そうなると我が社もうかうかしていられませんね。


「そう言ってもらえて、ますます意欲がわいてきました。それに、彼女ともなるべく長く生きて寄り添っていきたいですからね。ファストフードも控えめにして、健康食も少しずつ摂っていかないと。ダイエットもしないとなあ。会社のボスがこんなにだらしない人じゃあ、いけませんよね」


 健康でいて損はありませんよ。

 ……そろそろ、お時間となりました。この度は、貴重なお時間をいただき、本当にありがとうございました。このインタビューの内容は、「あおやなぎ」五月号にインターネット上で掲載される予定となっております。もしかすると、内容の確認をさせていただく場合がございますので、その旨よろしくお願いいたします。


「承知いたしました。僕の方こそ、貴重な体験をさせていただきました」

 

絶対、幸せになってくださいね。かけがえのない人生を、大切に。


「ありがとうございます。僕の人生が、記事を読んだ誰かの心に響いてくれたら、これ以上のことはありません」







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