第42話

 掌には何も残っていない。

 全て、零れ落ちてしまったのだ。


 春竜の減少、確約された絶滅。『春』の未訪。流行り病による死者の増加。

 それら全ては、故ナーシャ国王による『私欲』が招いた結果だった。


 春に溺れた冬の末路は、残酷なまでに真っ白だった。


 前国王より王位を継承したヒリューニャは、現在春竜が存在しているかも定かではないが、たとえ春竜かれらを発見したとしても、接近した場合は花鱗目的によるものとし、破った場合にはそれを処罰対象とする条例を定めた。


 以降三百年間、スニェークノーチ国に春は訪れていない。


 ❅ ❅ ❅


「失礼いたします」


 ここは一年中が冬に染まる国、スニェークノーチ国。その中枢にあるスニェークノーチ城の王の間にて執務を行うのは国王——ヒリューニャである。彼女は従者が入室したことに気がつくと、開いていた蔵書を静かに閉じた。


「……お疲れ様です。ちょうど良かった」


 ヒリューニャは柔らかい表情で呼びつけた従者に対して微笑みかけた。従者は「いえ!」と恐縮気味にヒリューニャに返事をした。


「ふふ、星華、そう緊張しなくても大丈夫よ」

「は、はい! あ、申し訳ございません!」


 ヒリューニャの従者であるしゅう星華せいかは勢いよく頭を下げた。その動きの機敏さに、ヒリューニャは目を大きく見開いた。


「それで……ちょうどいいとは……?」

「ああ、そうでした。この部屋の整理を手伝ってほしいのです」


 保管された蔵書たちが積み上がってしまって、と困り顔で微笑めば、星華が再び緊張気味に「承知しました!」と返事をするので、それが可笑しく思えてヒリューニャは笑ったのだった。


 王の間はナーシャの死後、ヒリューニャの執務室となった。彼女の遺品やにおい、その中でも蔵書の数はとてつもなく多かった。

 その数、実に十万冊はくだらなかった。その多くは先祖から受け継がれてきた国史にまつわるものだったが、一部はナーシャの私物である。

 クルドゥ病や春竜に関する蔵書が並ぶ中、一際目を引くのは——ナーシャの綴った日記だ。


 あの日以来、彼女のことは忘れようと思って生きてきた。

 二度と触れることはないと思っていた姉の残り香に、ヒリューニャは表情をしかめる。


「あの」


 不意に声をかけられてハッとする。振り向けば星華が何冊かタイトル記載の無い蔵書を腕一杯に抱えていた。その蔵書には見覚えがあった。


「はい、何でしょう?」

「こちらの書物、タイトルが書かれていないのですが……どちらに片づけましょう?」

「ああ、それは姉の綴った伝記ですね。中身を確認してもらうと分かると思いますが、春竜についての研究記録が……」


 ごくりと、どこからか喉の唸る音がはっきりと聞こえた。ヒリューニャがその双眸をゆるりと音のした方へ向けると、星華がだらしのない顔をして伝記を見つめていた。今にも喰らいつきそうなその眼光の鋭さにヒリューニャは思わず「これほどとは……」と彼女の噂が本当であったことを始めて認識した。


「……星華」

「は、はい! 申し訳ありません陛下!」

「いや、そこまで驚かなくても」

「え、だ、だって……陛下の御心を煩わせてしまったから……」

「大丈夫。星華は本当に本が好きなんですね」

「は、はい……えへへ」


 星華はここ一年の間に隣国からスニェークノーチ国に雇用した、初めての王宮専属図書司書官だった。彼女はに起こったあの惨劇を知らない。


(……もう、三年も経つのか……)


 早いものだなとヒリューニャは苦笑する。もう三年も、スニェークノーチ国に春が訪れていない。春を途絶えさせたのは、他でもない、ヒリューニャだった。だがそこにの二文字はなかった。


「……星華、この国で最も優れた絵本作家を知ってはいませんか?」

「へっ?」

「本に精通し、この一年という短い時間の中で我が国の大半を知り得た貴女だからこそ訊きたいのです」

「わ、わたくしなんぞが陛下に助言など…………」


 でも、と戸惑いながらも星華は続ける。


「恐れながら……その質問にお答えするなら、知っています」


 真っ直ぐにヒリューニャを見つめる星華の瞳は自信に満ち溢れており、いつか見た『春』の兆しを思わせる温かさが宿っていた。


「知っているなら話は早いわ。その方をこのスニェークノーチ城へ連れてきてほしいの」


 お願いしましたよ、とヒリューニャが星華に微笑みかければ、彼女は満面の笑みを浮かべて蔵書整理へと戻って行ったのだった。


 ヒリューニャは窓の外を見た。今日も外ではこの国の代名詞とも言える雪が煌々と輝いていた。


 願わくば、あの日の凄惨な彼らの物語を。どうか、彼らの生きる世界のように美しいおとぎ話に。


「春竜さま……」


 彼女が独りごちたその言の葉は、冷えた空気の中に寂しく溶け込んでいった。

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